Episode04/ゆめを蝕むクスリ
(S7.)
「せ、セカイって、いったい……」
結愛は困惑しながらオールドワイズマンに問い返した。
「お主が暮らす領域のことじゃよ。そして、わしらのように個人個人のアーキタイプが在るセカイでもある」
ーーなんなんだろう……この、胸がざわつく感じ……。
なにかを思い出せそうなのに、なにも思い出せない。
結愛は、大切だったはずの記憶を取り戻せず、ひたすら焦りを感じていた。
「お主、彼の名前も忘れてしまったのか?」
「……え? 彼の……?」
「お主が一番、大切に想っている存在の名じゃよ」
「それって……」
オールドワイズマンにそう問われた結愛は、何故だか急に胸が苦しくなり手を当て押さえつけた。動悸が早まり、冷や汗までもが流れ出てきてしまう。
(S8.)
オールドワイズマンはつづける。
「大切な存在……結弦という存在のことじゃ」
その名を聞いた瞬間ーー結愛は、頭の奥に、たしかに男性の声が響いた。
【結愛】と、聞こえたのだ。
すると、結愛は頭を押さえつけて苦しそうに呻き出す。それと共に、濁流のように亡くした筈の記憶が、結愛の頭のなかに次々と甦りフラッシュバックしていく。
(D1.)
「結弦……頑張って耐えてね……わたしが、ぜったいに何とかするから……」
結愛は迫り来る闇から逃げながら、とある人物を探して街中を走っていた。
ーーわたしを作ってくれたひとーーわたしの、わたしの一番大切なひと……それを、こんな物なんかに壊されたくなんてないっ!
走っている最中も、道幅が途端に変わったり、あったはずの道が消えたりしている。
ーーセカイそのものが壊れ始めている……? 早く、早く見つけなきゃ!
☆☆☆☆☆
「見つけた!」
道の先に居るのは、包帯男ーー自我と、甘やかしつつ、行動を束縛しようと企む太母、二人の姿。
「自我をわたしに渡しなさい!」
二人の前に立つなり、結愛は太母に叫ぶように言う。
「おっほっほっほっ、なにを言うのやら。この子はなにをしても良いのよ? だって、愛しの我が子ですもの」
「違う! 自我も本心では闇なんかに包まれたくはないはずよ! だってその証拠に、あなたたちの住む部屋だけは闇に飲まれていないじゃない! ーーいっ!?」
急に背後から闇が飛来し、それが刺となり結愛の足に突き刺さった。
痛みで動きを止めた瞬間、底知れない暗さで身を彩る闇が、波のように結愛に襲いかかる。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいっ! 自我! 太母!」
ねばねばと結愛の四肢にまとわりつき、少しずつ結愛を飲み込み始めてしまう。
「あなたは途中からこのセカイに現れた存在ーーならば、いまここで消えちゃってもいいんじゃないかしら? おーっほっほっほっ!」
太母は勝ち誇ったように高笑いをしながら、自我を連れてこの場から立ち去っていく。
「自我! あんたソレで本当に良いの!? こんな、快楽以外はなにひとつなくなっちゃっても、本当にいいって言うの!? ねぇ聞いているのエゴッ!」
ズルズルと闇に飲み込まれていく結愛は、ただただ叫んで思いの丈を伝えることしかできない。
それを、自我はチラリと見ると、一言だけ『ごめん』と呟き太母と共に消えてしまった。
あと少しで、結愛の半身が闇に浸かってしまうーー。
焦る結愛の所に、どこからか清々しい顔立ちをした男が現れた。
その手に握るナイフで闇を切り裂くと、結愛にまとわりつく闇を切り払った。
「あ、ありがと、影」
「ふん、だからイッタじゃないか。アイツはもうダメだと。アーキタイプだろうがナンだろうが、モハヤコロすしかテはナい」
男ーー影はそう言い切った。
「でも……そんなことしたら、最悪、結弦が……!」
ーーこのセカイの均衡を守る役割を担っている元型ーーそのいずれかでも、完全に壊してしまうと最悪の可能性が考えられる。結弦の精神が崩壊する恐れだってあるんだから。
ーーそんなの……そんなこと、ぜったいにできない!
大鷲が羽ばたきながら降りてくる。
「わしもそろそろ影に賛成せねばならぬ頃合いじゃな……。いくらお主が努力しようとも、彼の者が闇を断たなければまるで意味がない」ならば、と大鷲はつづける。「精神を壊してやれば、闇を受け入れる受け入れない以前に、闇は弱体し霧散するじゃかろうて」
「老賢者……でも、やっぱり、わたしは諦めたくない! だって、だってあの結弦なのよ!? あんな、あんなに前向きで、明るくて、夢を叶えようとしていた結弦なのよ!? ぜったい、ぜったいに何とかなるからっ! わたしはそう信じているのよっ!」
そんな結愛を見ながら、老賢者はため息をつく。
「この闇は、すべてのゆめを飲み込んで壊してしまうものじゃぞ? しかも、粘りが些か以上に強すて、こびりついたらなかなか離れぬときたものじゃ。わしはもう、諦める頃合いーー「うるさいうるさいうるさーい!」結愛が言葉を遮った。
「黙れ黙れ黙ってよっ!」
結愛は聞いていられないとばかりに激情し、怒鳴り散らしオールドワイズマンの言葉を遮ったのだ。
「あんたたちに、あんたたちなんかには、結弦の凄さがわからないのよ! わたしはつづけるわ! ええ、たとえこの身が果てようと、必ず、ぜったいに闇を消し去ってやる!」
二人に背を向ける結愛。
結愛は、ふと涙が流れていたことに気がつく。
それを袖で拭うと、二人を置いたままエゴたちの立ち去った方角へと走り出した。
☆☆☆☆☆
ーー結局、自我も太母も見つからなかった……。
闇の波状攻撃をくぐり抜けてどうにか公園まで逃げ切った結愛は、ベンチに横たわって一時休んでいた。
公園には闇が侵入しにくいらしい。入ってくる速度が非常に鈍いのだ。
しかし、少しずつでも、確実に侵していっている。
焦っていた結愛は気がつかなかったが、ふらふらとベンチに倒れかかり落ち着くと、辺りに雪が降り積もっていることに気がついた。
雪が深々と降り始めた。
まるで、結愛の存在を白で埋めて消すかのように……。
ーーいや、きっとこれは闇を消す白かもしれない。そうよ、そうに決まってるわ……。
「……この思い出の場所も、闇に犯されちゃうの……いやだよ……結弦ぅ」
もう既に余力がない結愛は、大切な結弦との懐かしき過去を振り返り、頭に次に次にと思い浮かべていく。
ーーたしか、結弦がわたしをはじめて作り出したのって、この公園だったなぁ……。
ーー結弦の絵、凄く上手だったなぁ……。
ーー優しくて、照れてる姿は可愛くて、ちょっぴり弱気だけど、やるときはやるたくましい子なんだよね……。
ーー結弦は……それで……それで……それで!
結愛は、止めどなく涙を流し始め、嗚咽を上げながら顔を歪ませる。
ーー最後に……一度だけでもいいから、結弦に会いたい……会いたいよ……結弦。
闇は、思い出の地だろうが何だろうが、容赦せずに深淵の黒で犯しつづける。
この闇ーーこの闇は、すべての『ゆめ』を蝕むモノ。
希望も将来も、この世界ーー夢も、そして結愛も……すべてを残さず飲み込んでしまうだろう。
結愛がいなくなれば、老賢者や影は、容赦なく自我を殺してしまうだろう。
自我、影、老賢者、理想の女性像、太母、仮面など……そして、それら全てを統括する本当の結弦の意志といえる自己。これらは元型と呼ばれており、どんな人間でも持っている無意識領域の象徴だ。
これらの一部が強大に成りすぎないように気をつけ、ときには老賢者の導きに従い成長し、ときには太母の海より深い束縛から抜け出して自立して、ときには影を受け入れ自身を見直すことで精神の成長を促したりして、意識の平穏を保てるようになっていくのだ。
この夢世界は、闇のせいで極端にバランスが崩れていた。
甘やかされつづけたせいで、結弦の精神で大きくなってしまった太母。ウジウジして一身に束縛を甘んじて受け入れながら、なにもしないまま弱くなっていく自我。闇を嫌がる人間が嫌いだ……と言いながらも実際は闇が嫌いなせいで増強した影。
これらのせいで、結弦の精神世界のバランスは乱れてしまい、崩壊の一途を辿っているのだ。
ーー……でも、自我たちの住んでいる部屋だけは、まだ闇に飲まれていないし、この思い出の公園にもなかなか入ってこれないのは、まだ結弦のなかに、闇を拒む意志が残っているって証拠だよね?
「……ぁぁ」
ーーなんだろう……いま、なにかが意識に紛れ込んだような気がする。まあいいや。
ーー自己……どうしてあなたはセカイが壊れていくのを、ただ見守るだけでなにもしてはくれないの?
結愛は問いかける。
元型の総括者である自己になら、このセカイーー無意識と有意識の狭間を漂う結弦の見る夢に影響を与えられるだろうに……と。なのに、どうしてなにもしてくれないのか、と。ただひたすら問いかける。
しかし……返事は返せない。
ーーたとえわたしが消えたとしても、ぜったいに結弦のことだけは忘れない……これだけは……ぜったいに手放してやるものか……!。
重いからだをベンチに預けたまま、結愛は闇が迫り来るのを待つことしかできない。
やがて、結愛は本来の自分を失ったーー。