Prologue/ユメの終わり
(D2.)
暗闇に覆われた寒空の下、小さな小さな公園のベンチに、一人の少女が横たわっていた。
辺りには、おどろおどろしい沼のような闇が蠢いている。
ーー頑張ってきたけど、もう、私、ここにいられないよ……。
深淵のように黒く暗い闇のせいであまり見えないが、地面には土ではなく、闇と混ざりあった白くて冷たい雪が降り積もっている。
少女は、目が霞んできたこと、四肢が弛緩しきって身動きが取れないこと、そして、寒いはずの空気が冷たくないと感じてきてしまうようになったことを自覚して悟る。
ーーもう、本当に無理なんだ。……いやだ……いやだ……いやだいやだいやだよぅ……っ!
ーーこのセカイだけは、あのひとだけは助けたかった。……なのに、ダメだ。もう、私、片足さえ動かせない。
愛するひとを救うこと。
それが果たせなかったことを悔やむ少女は、瞳から溢れんばかりの涙を流す。泣きながら、堪えようと歯を食いしばるが、どうにも涙は止まらない。
少女はただただ咽び泣く
そんな少女に構うことなく、闇たちは公園ーーどころか、その外にある道路にさえ蠢いている。
空からは、相変わらず深々と雪が降りつづいている。
次第に少女は、自分の意識と記憶が曖昧になってきていることに気がついた。
ーーう、うそ!?
少女は恐怖でからだを震わせる。
「いやだ……これだけは、これだけはいやだ! ぜったい! ぜったい手放すものか! くない……なくなりたくない! いやだ!」
少女は、なによりも大切な記憶だけは忘れないようにと、必死にそれだけを考える。
それだけは、なにがあろうと譲れない。
譲りたくない。
と少女はもがきながらも、必死に思い出を抱き締めて、放さないように全力を尽くす。
だが、それを嘲笑うかのように、闇は少女に覆い被さりはじめた。
そして、その大切なものを奪い取ろうとする。
「いやだ! いや……だ。いやだいやだっ! いや……だよぅ……これ、これだけは……ぜったい……に……放したく……な……い……のに…………」
少女の意志に反して、その意識は沈んでいってしまう。
精神までもが重くなっていく。
少女のからだの動きを奪っていっただけではあきたらず、闇は視界までをも拐っていってしまう。
ーーああ……最後に……最後にあのひとに……一度だけでいいから……あいたかっ……た……。
ついに、少女の意識は完全に闇の中へと沈んでいった。
空からは、少女を慈しんでいるように、まだまだ雪が深々と降りつづいている。
(R2.)
月夜に照らされた真夜中の道を、一人の男性が足早に歩いていた。
早く帰りたくて仕方がないといった顔持ちで、男性は、自宅へ飛び込むように入り込む。
「あんた、こんな夜中にどこに行っていたのよ? そ、それにお友達を残して行っちゃうなんて、どうしたの?」
母親が言うことにまったく耳を貸さず、男性は階段を急いで駆け登ると自室に入った。
「あっ、結構遅かったじゃん。結弦」
男性の自室の中には、部屋にある漫画をつまらなさそうな顔で読んでいる、結弦と同年代の男性ーー裕貴が座っていた。
「悪い、売人の野郎、待ち合わせ時刻に30分も遅れやがった」
息を切らしながら自室に入り座り込む部屋の主ーー結弦は言いながら、ジーパンのポケットから封筒を取り出した。
「てか、裕貴が自分の分すら持ってねーのがいけないんじゃねーか。約束どおり、お前0.4g俺0.6gだからな?」
「うん、ごめんごめん」
謝る細身の友人を横目に、結弦は封筒を開けて中身をテーブル上にすべて取り出した。
使い捨てのインスリン用の注射器四本、そして、透明な結晶が入っている小さなビニル袋ーー通称パケをテーブルに並べていく。
結弦はパケに入った結晶を、手近にあったライターの底でパケの上から叩いて砕きはじめた。
やがて、結晶は粉々を通り越して粉末状へと変わった。
「道具は二つもらうけど、いいよね?」
「ああ、かまわねぇよったく」
裕貴に返事をしながら、結弦は注射器の外袋を剥いて中身を取り出した。
注射器の内にある棒を引き抜くと、パケに入った粉末を細いストローですくい取り、注射器内部に粉末を入れていく。
入れ終えると、引き抜いた棒を差し込み元に戻した。
と、そこで結弦はハッとする。
「やっべ、水がねーや。ちょっと取ってくるからお前も準備しとけ」
「血溶きチャレンジしてみたら」
「するかよバーカ」
裕貴のバカな冗談に返しつつ、結弦は一階へとドタドタ勢いよく駆け降りる。すると、台所にあるコップをひとつ取り出し、中に水道水を入れていく。
「ちょっと、ねぇ、結弦……」
「あん、なに?」
結弦の母は、なにかを言いたげな表情を一瞬だけした。
しかし、『ごめんなさい、やっぱり何でもないわ』と言い結弦から離れてしまうのだった。
結弦は転けそうになりながらも自室に戻ると、用意した注射器のキャップを外し、それを水に浸した。
内筒に差し込まれている棒を引いていくと、注射器内には水が入っていく。裕貴も真似て同じように注射器内に水を引き入れた。
「よーしよしっ」
結弦は、上着の左腕の袖を捲り上げて肘の内側を見ながら右手で注射器を構えた。
手を震わせながらも、刺せる静脈血管を見つけていく。ちょうどいい太さの血管が見つかるや否や、そのまま注射器を斜めに傾け穿刺した。
「ちょっとちょっと、消毒はいいの?」
「んなのいちいち気にしねーよ、ったく、バカらしいなぁ」
裕貴が心配してくるのを気にせずに、結弦は針を皮膚内部へと突き進めていく。
と、いきなり注射器内の液体に、もわっと茸雲のように血が飛び込み混ざり入ってきた。
それを確かめた結弦は注射器の角度を無くして少し進めると、再び棒を引いた。
再度血が入ってくるのを確認すると、結弦は棒を押しはじめる。
「ふぅ、ふぅ……」
ゆっくりと棒を押していき……やがて、中身をすべて血管へと注ぎ入れることに成功した。
結弦はそのまま針を抜くと、途端に笑顔になった。
「はぁー、やっぱやめらんねーよ、なっ」
視界はクリアに鮮明に映り、ぞくぞくとした快感が全身に広がるのを味わいながら、結弦は誰に言うでもなく呟いた。
「うん……でも、いつかは、いつかは、やめたいな……」
結弦に遅れて同じように覚醒剤を注射し終えた裕貴は、コップに針を浸し、棒を引いては押してを繰り返して針内を洗いながら口にした。
「はっ、いましがたヤったばっかのヤツがな~に言ってんだか」
しかし、結弦はそう言いながらも、頭の中では裕貴と似たような事を思っていた。
ーー覚醒剤に溺れて、会社を辞めて、未だに実家で暮らして、売人と会うとき以外引きこもって、挙げ句の果てには親の財布から金を抜き取って……俺って、俺っていったいなんなんだよ?
高校卒業前までの結弦は、明るい未来を考えいろいろと夢を見ていたはずだった。
しかし、大学に入って悪い先輩と絡み始めてから、結弦の人生は一変した。
大学は途中で辞めてしまい、軽い楽なバイトすら辞めて、周りの友人は、そんな結弦から次々に離れていってしまった。
その結果、今では覚醒剤乱用仲間の裕貴しか、友人と呼べる仲の人間はいなくなってしまっていた。
結弦は、暗い未来と懐かしくも輝かしくもある過去を考え、思わず涙を流しそうになる。
だが、頭を振ってその考えを思考から霧散させた。
ーーせっかく、せっかく覚醒剤やってんだ! 暗い気持ちじゃ覚醒剤が無駄になっちまう!
「ねぇねぇ結弦、最近タルパっていうのをつくり始めたんだけど、知ってる?」
「は、タルパ? 何だそりゃ?」
唐突にわけのわからない話をする裕貴に、結弦は思わず思考が停止する。
タルパなどという単語、結弦は一度も耳にしたことがない。
「ああっ、ごめんごめん。結弦にはそれじゃ伝わらないよね……。ほら、イマジナリーフレンドみたいなものって言えばわかる? 結弦、高校時代話してくれてたじゃん。自分にしか見えない架空の友達が、むかし居た時があったんだぁーーってさ?」
「ん、あっ、ああ。懐かしいうえに恥ずかしい話するな、お前」
たしかに結弦は幼い頃、クラスから孤立していた。そのときにイマジナリーフレンドなる存在と遊んでいた記憶があるのだ。
イマジナリーフレンドーー幼少期などに他者とのコミュニケーションが不足していたり、何らかの家庭のトラブルがあって家族で常に一人でいたりする子供が、無意識でつくり出す幻想のお友達だ。
本人以外の目にはもちろん見えないが、本人にとってはあたかも実在するように映る架空の遊び相手なのである。
ーー本当、もはや忘れちまってたけど、たしかに、親に見えない女の子と遊んでいたな、俺……。いま思えば、本ッ当~に恥ずかしい奴だなぁ……。
「で? そのタルパってのとイマジナリーフレンドがなんか関係あるのかよ?」
「ほら、イマジナリーフレンドって、基本的に大人になると見えなくなるじゃん? タルパはね、イマジナリーフレンドを自力でつくり出せる存在で、大人でも見えるんだよ! まっ、いろいろ大変で難しいけどね……」
「そんな自分から頭イカれることしてんのかよ? やめとけやめとけ」
「名前は瑠奈っていうんだ。いまはまだ無理だけど、いずれは完成させたいな……」
聞いているほうが恥ずかしくなってくる。
結弦はそう思い、とにかく「やめとけ」と話を突っぱねる。
「タルパが完成したら、僕の断薬を手伝ってもらうんだっ」
「はっ、ぜってーに無理だ。俺が保証してやるよ」
「でもさ……僕たちもう、24歳じゃん? でさでさ? 無職・覚醒剤依存症・堕落者・社会的地位も皆無・お先真っ暗の人生……このままじゃ、ダメな気がするんだ……」
ーーどうしてコイツは考えないようにしてること一々言ってくるんだよ、ったく……。
結弦は天井を見上げる。
ーーわかってるっつーの、んなこと……。でもよ? もう、ここまで来たら無理じゃねーか……。
ーー高校の頃は、まだまだふざけた夢をいくつも持ってた。立派な会社に入って大金持ちになりたいだとか、漫画家になって大金稼ぐだとか。
でもーーと、結弦は俯いた。
ーーもう全て、全部、なにもかもおしまいなんだよ。俺たちの人生は……。