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――キーンコーンカーンコーン。
「――今日は図書室に寄ってから帰らないと」
学校の最後の授業のチャイムが鳴った後、私はカバンに借りている本が入っているのを確認してから教室を出た。
学校に来る前に家でも確認したんだけど、本当に大丈夫なのか何度も確認してしまうのは私の性分だ。
――図書室へと向かっていく途中。
ふと、廊下からグラウンドを見ると1人の少女がトラックを走っているのが見えた。
授業が終わったばかりなのにもう部活で走っているなんて、余程走るのが好きなんだろうか。
私はしばらく走っている少女を眺めた後、ハッとしたように自分の目的を思い出す。
「――いけないっ。早く図書室に行かないと」
私は小走りで図書室へと急ぐ。
そんなに急いで行く必要は無いんだけど、なんとなくその場所から早く離れてしまいたいと思ったからだ。
図書室の扉を開けると、顔見知りの図書委員の人から挨拶をかけられた。
「こんにちわ。今日も来たんだ」
「――はい、借りてた本の返却に来ました」
「あ、そうなんだ。じゃあ返却手続きをするから本を出してくれる?」
「はい、この本です」
私はカバンから本を取り出して図書委員の人に渡す。
借りていた本は主人公の少年が魔法の国に迷い込んで悪い魔法使いをやっつけるといった童話なんだけど、私はこの本が凄く好きで何度も繰り返し借りて読んでいる。
「しっかし、この本よく借りるねぇ」
「かなり面白いですよ。良かったら読んでみてください」
「興味はあるんだけど今読みたい本が溜まっててさ、今後読ませてもらうよ」
「はい、よかったらその時は感想聞かせてくださいね」
「りょ~かい。――ちなみに今日もしばらくここにいるの?」
「はい、そのつもりです。――そういえば何か新刊とか入りましたか?」
「あ~。数日前に新刊コーナーに新しい本が追加されてたよ」
「じゃあ今日はそれを読ませてもらいますね」
私は図書委員さんにお礼を言って新刊コーナーへと向かうと、後ろからそういえばと図書委員さんに声をかけられた。
「実は私、もう読んだんだけどさ。女の子が運動会で日本一を目指すっていう――」
「…………え」
私は新刊コーナーへと向かう足を止めて立ち止まってしまう。
私の異常を察してか、図書委員さんはどうしたのと気遣う様に接してくれた。
「――あれ? もしかしてスポーツ物とかってあんまり好きじゃなかった?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど。――――今日は他の本にしておきますね」
「そう? まあ無理に新刊を読む必要とかないから、何でも好きな本を読んでいって」
それから図書委員さんは話しかけて来ずに返却手続きをして私が借りた本を元あった本棚へと戻しに行った。
「……運動会…………か」
それから私は適当な本を選んで読みふけり、気が付いた時にはもう図書室の閉館時間になっていた。
「――あ、もうこんな時間なんだ」
私は本を本棚に戻して図書室を出ようとすると、先程グラウンドで走っていた少女が制服に着替えて図書委員さんに本の返却手続きをしていた。
「――こんにちわ」
「え、あ、はい。こ、こんにちわ」
突然の挨拶に少しだけ言い淀んでしまう。
「――では、返却したので私はこれで帰りますね」
「はいは~い。後はこっちでやっとくから」
少女は私にも一礼すると、扉を開けて帰って行った。
「えっと、さっきの人も良く来るんですか?」
「まあ、そこそこって感じかな? それに貴方がいる時にも結構いたと思うけど?」
「そうでしたか」
私は本を読み始めると周りが見えなくなって音もほとんど聞こえなくなるので誰かがいても気が付かない事が多いけど、さっきの子もここの常連だったなんて結構意外かも。
「あちゃ~。まいったなぁ~」
「――――どうかしましたか?」
「いや、さっきの子が定期券落としていったみたいで――」
図書委員さんの手には可愛いピンクの定期入れが握られていた。
それなりによく来るみたいだし、名前も覚えてるんだろう。
「――えっと、私が届けましょうか?」
「いいの? いや~、私はこれから閉館の準備があるからそうしてくれると助かるんだけど」
「はい、大丈夫です。――――まだそんなに遠くには行ってないと思うし、星風駅ですよね?」
図書委員さんは定期券に書いてある駅名を確認してから私に告げた。
「そうみたいね。じゃあお願いね」
「はい」
私は定期券を受け取って図書室を後にした。
下駄箱で靴に履き替えて学校を出ると、ちょうど校門の所にさっきの女の子がいたので私は小走りで女の子に近付いていった。
――――が。
「――え、ちょ、ちょっと待って」
女の子は突然駅の方に向かって全力で走り出してしまった。
私はポカンとその場所に残されてしまったが、定期券が無いと困るだろうし私も女の子を追いかける事にした。
「――仕方ないか――――久しぶりだけど―――――うん、たぶん行ける」
私は一息深呼吸をしてから女の子を追いかけて行った。
学校から駅までは信号が無いので、信号待ちの間に追いつけるなんて事は無いので全力で追いかけないと。
女の子はかなり足が早いようで――――って運動会部なんだから当然なんだけど。
とにかくすっごく早いから追いつけるかは五分五分だと思う。
そうこうしているうちに、私は何とか駅の少し前で女の子に追いつく事が出来た。
「ちょ、ちょっと待ってぇ〜!」
「――え!?」
女の子は少し驚きながらも何とか走るのを止めて止まってくれた。
「どうしてあなたがここに!?」
「はぁ……はぁ……はい、これ忘れ物」
私は定期券を取り出して女の子に渡した。
「――これは私の? すみません、わざわざありがとうございます」
「どういたしまして。それより急に走り出してビックリしちゃったよ」
「すみません。見たい配信があったのでつい走ってしまいました」
「そうなんだ。じゃあ渡したから私はこれで失礼するね」
私は女の子に背を向けて帰ろうとすると、女の子から私が帰るのを引き止められた。
「あの、待ってください!」
「えっと、どうかした?」
「私は校門からここまで本気で走っていました。うぬぼれている訳ではありませんが、私に追いつくなんて普通の人では無理です」
「――その、たぶんマグレなんじゃないかな」
「貴方もしかして何か運動をやっていませんでしたか? その、もしよかったら私と――――」
「ゴメンなさい。私、もう競技で走る事はしないって決めてるから」
「――あっ!?」
私は居たたまれなくなって、その場から逃げる様に走り出した。
「ただいまぁ~」
玄関の扉を開けて家の中に入ると、ちょうどお母さんと出くわした。
「おかえり~。今帰ったの?」
「うん。じゃあ私は部屋に行くから」
私はお母さんに挨拶をして2階にある自分の部屋に向かうために階段を登っていく。
私の家の2階には2つ部屋がある。
1つは私の部屋でもう1つはお姉ちゃんの部屋だ。
けれど、お姉ちゃんの部屋には私物がほとんど置いていない。
どうしてかと言うと、お姉ちゃんは今年から全寮制の学校に通っているので今この家の2階に登る事があるのは私だけなのだ。
本当は私もお姉ちゃんと同じ高校に通って一緒に走っていたはずなんだけど、私が今ここにいるという事はそういう事なのだ。
――私はお姉ちゃんと同じ学校には入学出来なかった。
そのせいかおかげか解らないけど、競技への未練はほとんど無くなった。
――と思う。
私自身、走るのも跳ぶのも泳ぐのも嫌いじゃない。
今でもどちらかと言えば好きな部類だ。
けど、今の学校で競技をしたらお姉ちゃんとは違うチームになってしまう。
――――つまり、お姉ちゃんと対戦する事になる。
私は個人戦には出ずに団体戦にだけ出場していた。
中学校では私はいつも副将でお姉ちゃんが大将だった。
私が負けてもお姉ちゃんが必ず勝ってくれるので、私自身も伸び伸びと競技に打ち込むことが出来たおかげか私達の世代は無敗で全国優勝を3連覇する事が出来たのだ。
あの絶対的強者のオーラの前に勝てる人なんていないのかもしれない。
「――――借りてきた本でも読もうかな」
カバンから図書室で借りてきた本を取り出すと不意に机の上に置いてある写真に目がいった。
私が最後にお姉ちゃんと一緒に団体戦で優勝した時の写真だ。
そしてもう1枚、表彰台でメダルを受け取っている時の写真も飾ってある。
「…………あれ?」
私はその写真を見て何か引っかかりの様な物を感じた。
なんだろう? つい最近見たような気がする。
「――――あっ!?」
準優勝の学校のメンバーの1人に図書館で会った女の子が写っていたのだ。
学校を代表してメダルを受け取っているって事は大将だったのかな?
私は副将で直接対戦はしてなかったから会った時にはお互いに気付かなかったんだと思う。
なるほど、あんなに足が早かったのはそういう事だったのか。
もしかしたら気付かれてるかもしれないから気を付けた方がいいのかもしれない。
その日の私はあまり気が乗らず、借りてきた本を半分も読まないうちに眠りに着いた。
――次の日。
「――あの、ちょっといいですか?」
学校が終わって今日は図書室に寄らずにすぐ帰ろうと思っていたら、昨日会った女の子に呼び止められた。
「貴方、紅葉さんの妹の楓さんですよね?」
「えっと、そうだけど何か用なのかな?」
「私は沙織って言います。昨日のお礼をしようと思いまして」
「別に改めてお礼なんてしなくていいのに。――じゃあ私はもう行くから部活頑張ってね」
話を打ち切って帰ろうとする私に沙織ちゃんは後ろから更に食い下がる。
「何で高校では運動会をしないんですか?」
「…………」
私は答えを言いよどむ。
しないわけじゃない。
お姉ちゃんと一緒に出来なかっただけなのに。
続けたいけど、どうしようもない思いが私の中でふつふつと湧き上がってくる。
「――私は中学で辞めたから高校ではしないんだ」
「そんな。あれだけ走れるのに勿体無いです」
「――ごめん、もう運動会には興味が無いんだ」
今度こそ諦めてくれたかな。
少し悪い気もしたけど、沙織ちゃんが諦めてくれるならこれでいいんだ。
「最後に1つだけ。運動会に興味が無くなったのなら、どうして私が運動会部をやっている事を知っているのですか?」
「…………」
「本当は高校でも続けたいんじゃないですか?」
「――それは」
どうしても引いてくれない沙織ちゃんとの会話は突然現れた人物によって終わりをつげる事になった。
「――こんな所にいたのか。もう部活始まるから早く来い」
「――先輩?」
沙織ちゃんの先輩らしき人物が下の階から階段を登ってきた。
平均より少しだけ高い身長で、どちらかといえば可愛いと言うよりカッコイイといった感じのする女性だ。
肌は少しだけ日に焼けていて、ボサボサの長い髪の毛と少し着崩している制服からかなりワイルドな雰囲気がかもしだされている。
「ん? 沙織、そいつ誰だ?」
「この人は去年運動会の大会で――――」
「入部希望ならついて来い」
「えっ、あ、あの。私は別に入部希望って訳じゃ――」
「いいから早くついて来い。行くぞ」
「ええ~っ!?」
私は突然現れた先輩? に連れ去られて運動会部の部室らしき部屋に連れ込まれてしまった。
部室は思ったより広く片付けもされていて、かなり小奇麗な感じがする。
ロッカーは5つあって名前が書いてあるロッカーは3つあった。
部員は全部で3人なのかな?
ただ、沙織ちゃん以外の2つのロッカーには物が大量に詰め込まれている為か少し膨らんでいて今にも爆発しそうなのが気になるんだけど。
「――なんだ、入部希望じゃなかったのか」
「はい――すみません」
「まあいいや、せっかく来たんだしゆっくりしてけ」
「――は、はぁ」
あんまりすぐ帰るのも何だし少しくらいならゆっくりしていってもいいのかな。
――しばらくすると、オボンにコップを3個乗せて沙織ちゃんがキッチンから戻ってきた。
――って、この部室なんでキッチンなんてあるんだろ。
「――どうぞ楓さん。粗茶ですが」
「あ、ありがとう。沙織ちゃん」
私は貰ったお茶を一口くちにふくむ。
なかなかシブい味の緑茶だった。
「しっかし、今年こそ団体戦に出れると思ったんだけどなぁ~」
「別に個人戦なら出られるからいいじゃないですか」
「そうは言ってもやっぱり最後の大会くらい団体戦にも出たいぜ。お互い2勝2敗で迎えた最後の大将戦とか燃えるだろ? いや、燃えない奴は男じゃねえ!」
「……部長は女性なんですが」
沙織ちゃんはやれやれとため息をついた後、いつもの事なので気にしないでくださいねと一言付け加えた。
「まあ細かいことはいいじゃねぇか。――っと、大会の事を知らない奴にこんな話をしてもつまらなかったか?」
「いえ、私は――」
「部長、引いてますから控えてください。それに楓さんは大会の事を知らない訳じゃないですよ」
「ん? どういう事だ?」
「楓さんは去年の中等部の覇者ですから」
「ほぉ~、それはすげーな」
「――そんな。私は副将だったし凄いのはお姉ちゃんだから」
「ん? 去年――優勝した――――お姉ちゃん? あ、お前もしかして紅葉の妹か?」
「は、はい。確かにそうですけど。部長さんとお知り合いなんですか?」
「いや、オレも中学の時に1回対戦しただけなんだが、大差を付けられて負けたのがくやしくて覚えてるだけだ。――けど、何でお前高校で運動会やってないんだ?」
「それは――――私は中学で辞めたんです」
「ふ~ん。まあ辞めた奴を無理やり戻す事なんてしないから安心していいぞ」
私の経歴を知って無理やり入部させようとするかと思ったけど、あまり強制とかしないような人で良かった。
「――そうだ、今日はこれから他の高校と練習試合があるんだが良かったら見ていかないか?」
「部長。楓さんは――」
「――見学ならいいですよ」
「いいんですか?」
「うん。私も久しぶりに誰かが競技をしてるのを見るのもいいかなって思えて」
「そうか。そろそろ到着すると思うからもう少しだけ待っててくれ」
「はい。解りました」
ただの気まぐれだったのか未練があったのか自分でもよく解らないけど、試合を見る事になった。
まあ見てるだけなら自分が走る訳じゃないしまた運動会がやりたくなるなんて事は無いと思うしいいのかな。
「――部長。そういえば、英美里ちゃんはまだ来ないんですか?」
「……そういや遅いな。あいつまた寄り道してるんじゃないだろうな」
「えっと、英美里ちゃんって?」
私は知らない名前が出たので沙織ちゃんに聞いてみる事にした。
ロッカーに名前があるから部員なのは間違いないんだろうけど。
「英美里ちゃんはこの部のエースでとっても強いんですよ。――ただ、ちょっと我が強いというか――」
「それを言うならワガママの気まぐれ屋だ。仕方ないちょっと電話してみる」
部長さんはカバンからスマホを取り出して英美里ちゃんに電話をかけたみたい。
「そういえば、その英美里ちゃんって1年生なの? そんなに凄い娘なら私も知ってるかもしれないんだけど」
「英美里ちゃんは去年までずっと海外にいたから日本の大会にはまだ出てないので知らないと思いますよ?」
「そうなんだ。海外の大会までは流石に知らないかな」
私達が話していると、突然部長さんの天を割くような大声が響いて来た。
「はぁ? 今日の練習試合来ないってどういう事だ? ――――駅前のケーキ屋? そんなのいつでも行けるだろうが! それに相手の高校の人もせっかく来てるれる訳だしな――――弱いやつと戦うのは嫌って――お前、昨日はいいよって言っただろ――――って、おい切るな――おい――――」
何だか嫌な予感がする。
「英美里。今日来ないってさ……」
「え、じゃあどうするんですか? 相手高校の人は団体戦の模擬戦ならいいよって承諾して、私と先輩が2回づつ走るって話だったじゃないですか。流石に3回も走るのは無理ですよ」
「そうは言ってもなぁ。他に競技が出来そうな奴なんて――――」
先輩さんと目が合ってしまった。
これは非常にまずいよぉ。
「――いたぁ!?」
「……えっと、やっぱり私見学は止めて帰ろうかと――――」
「なあ、オレ達を助けると思って1回だけ出てくれないか? な? な?」
「私からもお願いします、楓さん。今回だけでいいので私達に力を貸してくれませんか?」
嫌ですとは絶対に言えない空気が部室の中に漂っている。
私にはもう選択肢は無いみたい。
「――――じゃあ、1回だけなら」
「ホントか!?」
「けど、1回だけですよ? 部活には入りませんから」
「ありがとうございます、楓さん」
この選択が今後の重大な分岐点になるなんて、この時の私は思ってもいませんでした。