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大嫌いなこの街に大好きになるかもしれないあの子が立っていた。

作者: 中沢ヤスユキ

 東京の中心に神柴町はある。

 新宿から5分。多くの路線の停車駅となっている神柴駅のあるこの街はいつの時代も若者たちの集まる流行の地だった。ファッション、音楽、食べ物……ここに来れば何でも揃う。

 駅前の通りに並ぶ大型ビルには世界各地のファッションブランドの店が入り、一歩奥に入った路地には雑居ビルがひしめき合うように建ち並び、それぞれに服や飲食の店が入る。店に並ぶ服や看板が色鮮やかな世界を作っていた。

 平日も休日も関係なく、街には人があふれ、思い思いに街を歩く。街の若者たちはこの景色に魅了され、友達同士、恋人同士で楽しげな笑みを浮かべている。

 だが、そんな場所を千裕ちひろは無表情で一人歩いていた。

 この街ではやたらと黒く感じる髪とこれといって特徴のない髪型。服にも特に個性のない千裕は全国から個性を主張する者たちが集まる神柴町では浮いた存在だ。むしろ浮きすぎて逆に個性を感じるほどの地味さで、似合わない街の人混みの中を歩く。

 しかし浮いていようが何だろうがこの街に来るしかない。なぜなら千裕の家はこの神柴町にあるのだから。

 高校の同級生たちは千裕の事を羨ましがる。若者文化、流行の発信地である神柴町。中高生にとってこれほど華やかな遊び場はない。そんな場所に暮らせたらなにかと便利だ。しかし千裕はこの街の空気にうんざりしていた。

 人ごみの中を歩いていると、毛を逆立てた金髪男が千裕をジッと見ている。

「なあ、ちょっといいか」

 金髪男が千裕の前に立ちはだかった。その背後にも似たような風貌の音が数人立ち、千裕をジッと見ている。

 この街で男が男に声をかける時は大抵よからぬことが起こる。千裕はこの男が声をかけた理由には大体想像がついていた。

 子供の頃からここで暮らす千裕はこうして何度もカツアゲされそうになっているのだ。

 どこか気の弱そうに見える千裕は格好のカモだ。こうしたガラの悪い連中に気付かれると大抵声をかけられる。

「お金ならありませんよ」

 千裕は金髪男たちと視線を合わせることもせず、脇を通り抜ける。

 男たちの一人が千裕の肩を掴もうと手を伸ばすが、それよりも一瞬早く千裕は駆け出した。

「くそっ、またかよ!!」

 人ごみの中をかき分け走り抜ける千裕。不良との追っかけっこは日常茶飯事だ。こうして不良に追いかけられる度にこの街が大嫌いになる。

「待てコラ!」

 ショップの流す音楽と人のざわめきの中に金髪男の叫び声が混ざる。

 千裕は人ごみをヒラリヒラリと避けながら、ファッション関係の店が多く入るセントラルビルへと飛び込んだ。

 どこへ行っても人だらけの街は建物の中も人だらけだ。エスカレーターを避け、千裕は階段を使ってビルの二階へと駆け上った。そして階段の踊り場にある換気用の窓を開けると、躊躇もせずその窓から外へと飛び降りた。階段でたむろしていた少女たちがその様子に驚いた表情を見せたが、千裕は二階と一階の間にある雨避けの張り出しに着地し、怪我一つしていない。

 子供の頃から追い掛け回されている千裕にとって窓から飛び降りることはごく普通の日常でしかない。不良を撒くために覚えた逃げ道は何百通りとある。

 張り出しから慎重に地面へと着地し、ビルを見上げる。今頃あの不良たちは千裕を追ってビルの中を上へ上へと駆け上がっていることだろう。


「お前いいよなぁ、神柴に住んでるなんて。毎日遊び放題じゃんか」


 ふと、同級生の言葉が頭をよぎる。

 こんな毎日のどこが楽しいのか……思わずため息が漏れた。

 とにかくこれ以上の面倒はご免だと千裕は家へと向かった。




  2

 千裕の家は中央通りにあった。一階にコンビニを構えるマンションは土地を含めて千裕の両親の持ち物だ。父が経営する一階のコンビニは立地の良さもあり、いつも人で賑わっている。

 千裕が店へと入るとレジで接客する父がすぐ千裕に気付いた。

「千裕、ちょっとすまんがたすくを呼んできてくれないか」

 千裕が軽く右手をあげる。お客さんがいる手前、特に何か話すでもなく、千裕は店の奥の従業員室へと入り、そこからマンション部分へと抜けていった。

 マンションの階段を一階、二階と上がっていく。千裕の部屋は二階にあったがそれを無視して最上へ上へと向かう。そして階段の行き止まり、最上部に設置された扉のカギを開けると屋上へ出た。

 屋上には貯水用タンクと小さな物置小屋がある。その程度の構造物しかない屋上は開放的で、扉から外に出た瞬間、神柴町らしからぬ青空が目に飛び込んでくる。

 そんな広い空を楽しむように、屋上に寝そべって空を眺める男がいた。亮だ。

 亮は千裕の気配に気付くと、ボサボサの髪を掻き毟りながらむくりと起き上がった。

「お、千裕じゃないか。もう学校終わったのか? ずいぶん早いな」

「別に早くないよ。もう16時だし……」

「あれ、もうそんな時間なのか? さっき朝飯食べた気がしたんだけど」

「呆れた……もしかして朝からずっとここで寝てたとか?」

「まあそう言うなよ、お前が来たってことは……仕事なんだろ?」

 亮は面倒くさそうに起き上がり、千裕を見た。

 千裕の家にとって亮は居候みたいな存在だった。血の繋がりはないし、昔からの知り合いでもない。しかしこの屋上と物置小屋は亮にタダで使わせている。亮はこの屋上に寝泊りし、一日ずっと空を眺めていることもあれば、ふらりと何処かへ出かけていくこともある。だが、いざという時、亮は呼び出される。

「やれやれ、今日はどんな仕事だろうな……千裕は聞いてるか?」

「聞いてない。呼んでこいって言われただけだし」

 二人はもと来た階段を降り、一階へと向かう。するとレジをアルバイトに任せた千裕の父が従業員の休憩室で待っていた。

「いやー、参ったよ、また万引きだ……」

 千裕の父がうんざりと言った様子でつぶやく。

「お客が多いのはありがたいが、こういう困ったのも減らなくてね……」

 千裕の父が眺めるモニターにはカゴを手に店の外へと駆け出す少年グループの姿が映っている。周りを気にする様子もなく、商品を次々とカゴに放り込み、一目散に外へ飛び出すその様子は手馴れている。千裕の父が経営するコンビニだけでなく、どの店でもわりと見かける光景だ。

「いくらくらい取られました?」

 亮が尋ねる。

「そうだね……んー、この量だと五千円くらいかな」

「そうですか……」

 亮は食い入るようにモニターを見つめ、少年一人一人の顔を観察している。

 そしてひとしきりモニターを眺めたと思うと、ふいに立ち上がった。

「それじゃ俺はちょっと散歩してきますね……」

「そうか……気をつけてな」

 亮が右手を上げ、休憩室を後にする。

「ほら、お前も行ってこい!」

「え、オレも!?」

「当たり前だ! 早くしろ!」

 父の言葉に千裕は慌てて亮の後を追った。

 店の外に出ると、亮が体を伸ばし大きく深呼吸していた。

「さあ、探すとするか!」

 特に何かを言われたわけではない。だが亮も千裕も何をすべきか理解している。

 万引き被害は死活問題だ。特に活きの良い不良が集まるこの街では万引きの被害もただ事ではない。そうなると警察だけには任せていられない。

「んー、あいつらどこにいるのやら……」

 亮が辺りを見回す。平日の昼でも人でごった返すこの街での人探しは簡単ではない。そこで亮の目と鼻が役に立つ。

「しかし亮の記憶力って凄いよね、あんなビデオでチラッと見ただけの人をこんな人だらけの場所から見つけちゃうんだもん」

 千裕はこれまでにも亮が万引き犯をこの街の中で発見するのを何度も目撃している。

「記憶力じゃなくて注意力の問題なんだよこういうのは。だからお前も俺任せじゃなく自分で探してみろよ。次期店長なんだからさ」

「そうは言ってもなぁ……」

 個性的なファッションの人間が多いこの街でも、山ほどいる人たちの顔を見続けているとどれも同じに見えてくる。すでに千裕の頭の中では万引き犯の顔そのものがおぼろげになっていた。

「とりあえず人気のない場所を探してみるか。あいつらも盗んだ物を整理しなきゃならんだろうし」

 亮はそう言うと、公園へと向かった。

 



  3


 ビルとビルに挟まれ、申し訳程度に存在する小さな公園。三角公園と呼ばれるその場所は憩いとは正反対の場所だ。ただでさえ狭いスペースにホームレスの小屋が立ち、遊具はガラの悪い少年たちが占拠する。子供の遊び場のはずの公園だが、この街で生まれ育った千裕もこの公園で遊んだ記憶は全くない。むしろ近付かないように心掛ける場所のひとつだ。

「今回は早かったな。見ろよ、あそこにいるぜ」

 公園の滑り台の下にしゃがみ込んだ少年たちが見える。彼らの足元にはコンビニのカゴが転がっている。千裕の店のもので間違いない。

「すごい……なんでここにいるってわかったの?」

「クソガキの行動なんて大差無いんだよ。慣れりゃお前にだって万引き犯を見つけることくらい出来るようになるさ」

「できるかな……」

 あまりの手際の良さに千裕が自信を無くす。

「だけど千裕、ここから先はお前にはできないことだ。俺がやるからその辺から眺めてろよ」

 ここからが亮の仕事の本番だ。千裕は亮に言われるがまま、物陰に体を潜めた。

「よう! ずいぶん楽しそうだな!」

 亮が少年たちに声をかける。その声はまるで友達を見つけたかのように気軽だ。しかし見知らぬ男に声をかけられた少年たちは亮に対し警戒心を見せた。

「なんか用かよ!」

「いや、いっぱい食い物持ってるなぁと思って……パーティーでもすんの?」

 亮がチラリと店のカゴを見ると、少年たちの顔色が変わる。自分たちの行為を悟られてると感じ、その表情がこわばる。

「お前、コンビニの店員か?」

「店員じゃないさ」

「なら消えろ!」

 少年たちの声が荒くなる。だが亮はといえばますます冷静だ。

「なあ、何で店員でもない俺がお前らに声かけたかわかるか?」

 亮が一歩近付く。

「ほら、お前らみたいなクソガキならいくら殴っても誰も迷惑しないだろ」

 少年たちを見つめ、亮の口元がニヤリと歪んだ。

 その一言に少年たちは立ち上がり、身構えた。

「てめえ……調子乗ってんなよ、コラ!」

「別に調子に乗るとか乗らないとかそんなのどうでもいいからさ、吼えてる暇あったらとりあえずかかってきてよ。……それとも逃げる?」

「……っざけんな!」

 亮の挑発に少年グループの一人が駆け出してきた。

 だが亮はまるで落ち着いている。突進してきた少年の腕を掴むとそのまま捻って地面に転がした。あっさりと地面に倒れこんだ少年は何が起こったかわからずキョトンとしている。

 だが次の瞬間、少年の顔を亮の足が蹴り飛ばした。声も上げられず、少年はもがく。

「くー、お前らみたいなカスは罪悪感なく蹴り飛ばせるから気持ちいいね」

 爽やかさすら感じる笑顔を見せた亮は残る少年たちを見た。

「俺さ、あのコンビニをいつもチェックしてんだよね。お前らみたいなバカがしょっちゅう万引きしてくれるんでサンドバッグを探す必要が無くて助かるぜ」

 そう言って亮は残りの少年たちを手招きした。

「……ブッ殺す!!」

 地面に転がった仲間を見て顔を青ざめる少年もいたが、怒りに任せて数人の少年がまとめて亮に突進してくる。

 しかしそれらの少年も亮は物ともしない。赤子の手を捻るように、軽くあしらう。一人は顔面を殴られ倒れ、一人は足をかけられ転んだところを踏まれ、一人は喉元に肘を入れられひっくり返る。

 少年たちの攻撃は一切通じていなかった。ただ一方的に殴られ、蹴られるだけの少年たち。それを目の当たりにして、まだ殴られずに残っていた少年たちは仲間を助けることもせず逃げ出した。

「おい、仲間を見捨ててくのかよ……ったく、情けねえな」

 そう言いながら、亮は足元に転がる少年の一人をまた蹴飛ばす。そして仰向けになった少年の服に手を伸ばす。

「おい、いくら持ってる? 金が無いから万引きしたってわけじゃないんだろ?」

 立ち上がる気力すらなくなるほどに殴られ、蹴られた少年たちに抵抗する術は残されていなかった。一人、また一人と亮に財布を取り上げられ、その中身を抜き取られていく。

「いやー、ホントありがとう。お前らみたいなクソガキがいてくれるおかげでストレス発散できたわ。おまけにお小遣いまでくれるとか優しすぎるわ」

 そう言って亮は巻き上げた紙幣を数えてみせる。

「だからさ、また万引きしてくれよ……そしたらまたこうしてボコボコにしてやっから」

 倒れた少年の前にしゃがみ混むと、ゾッとするほどにいやらしい笑みを浮かべる。少年はただ震えるだけだった。

「それじゃ、またよろしく!」

 満足げな笑みを浮かべると亮は立ち上がり、公園を後にする。公園の入口で恐る恐る眺めていた千裕も慌てて亮の後を追った。

 遠巻きに見ていたホームレスたちは亮が立ち去るのを確認すると、少年たちの盗んだ商品にコソコソと手を伸ばした。

 二人はコンビニのカゴも商品も無視し、公園を後にした。



 4

 亮は中央通りの人ごみの中、周りの目を気にすることなく少年たちから巻き上げた札を数えている。

「えーと、店の被害は五千円だっけか……」

 そう言うと、札の中から五千円を抜き出し、千裕に渡す。

「それじゃこれ、店長になんとなぁく渡しといて」

 千裕は黙ったままそれを受け取る。小さくうなずくだけで、特に何を言うわけでもない。

 こんなやり取りが千裕と亮の日常となっていた。

 千裕の父が経営するコンビニと亮は持ちつ持たれつの関係だ。亮は屋上の小屋に住まわせて貰うかわりに、時々こうして依頼を引き受ける。店で万引きした少年から被害金を回収し、二度と万引きをさせないよう痛い目に合わせる。そして被害金を引いて残った金は亮のものとなる。

 警察などに任せても何も変わらない現状ではこうするのが最も損が少なく、効率がよかった。

 亮から渡された五千円を手に千裕がため息をつく。

「なんだよシケた面して……金も入ったし、飯おごってやろうか?」

 そう言って、亮が先ほど巻き上げた金をチラつかせる。

「だから嫌なんだよ、この街は……」

 千裕は頭をかきむしった。

「通りを歩けば人だらけ。少し歩くだけでケンカに巻き込まれるし、壁を見れば落書きと酔っ払いのゲロ。ちょっと人のいない場所に行けば変なクスリでラリった奴がひっくり返ってるし、どこに行っても最低なことばかりじゃないか……」

 子供の頃から住んでるこの神柴町だが、いつだって千裕はうんざりしていた。

 人を殴ったことなんてない千裕だが、この街で暮らせば殴ったり殴られたりする人の姿を幾度となく目撃することになる。その度に嫌になる。

「この街で楽しいのなんて神崎しをりのラジオと裏通りのネコくらいのもんだ」

「生まれた時からココに住んでるわりに全然慣れないよな、千裕は……」

「でも楽しいことだっていっぱいあるだろ、なにせ何でも集まってくる街だ。こんな所そうそうないぞ」

 そう言うと、亮は千裕の肩を叩き、通りの先を指差した。

「ほら、ああいう可愛い子も集まってくるわけだし」

 その視線の先には一人の少女がいた。人ごみの中、辺りをキョロキョロと見回しながら、街の様子を楽しげに眺めている。

「ちょっと声かけてこいよ。この街に不慣れっぽいし、街に詳しいお前が案内すればくっ付いてくるんじゃねえの?」

「バッカじゃないの……俺は亮みたいにナンパの趣味なんて……」

 だが、少女の姿を見た千裕は固まった。亮が見つけた少女には見覚えがあったのだ。千裕と同じ学校の制服を着た少女は、千裕のクラスメイトの比奈未散だ。

「ってあれ、比奈だ……」

「なんだよ、知り合いか?」

「クラスメイト」

「へー、お前の学校ってレベル高いんだな。あんな美形と一緒なんて……」

 一昔前の不良のように、亮が口笛を吹いてみせる。

「ていうかクラスメイトなら尚更声かけてこいよ。この街に詳しいトコ見せたら株が上がるだろ」

「別に株なんか上げなくていいよ、特別仲が良い訳でもないし、いきなり声なんかかけたら変に思われるだけだって」

 全く興味を示さない千裕に亮が舌打ちした。

「ほら、お前が声かけないから別な奴が声かけちまったじゃねえか……」

 千裕たちが遠くから少女を眺めていると、スーツを着た細長い男が未散に声をかけていた。しかし未散はそのスーツ男と視線を合わせることすらせず歩き出した。だが男はそれでも諦めず、未散の周りをつきまとう。

「おい、ちょっかい出されてるぞ、助けに入った方がいいんじゃないか?」

「大丈夫だよ、比奈はしょっちゅうスカウトとかされるらしいから、ああいう奴のあしらい方なら慣れてるって」

「へー、さすがに可愛いだけあるな。……でも、今声かけてるアイツ、ちょっとヤバい気もするけどなぁ」

「ヤバイ?」

 亮の言葉に千裕が食いついた。

「あの顔には見覚えがある……あいつ、裏ビデオを撮って売りさばいてる奴だぞ」

「裏ビデオ?」

「ああ、あの男が出てるビデオを見たことあるんだよ。女を集団で連れ去って無理矢理やっちゃうヤツ。結構シリーズ出てて、人気あるんだぜ」

「嘘……だよね?」

 あまりに突然の話に千裕の声がかすれ、小さくなる。

「別に信じなくてもいいけどさ……この街にヤバイ奴が多いのはお前だって知ってるだろ」

 この街では何だって起こる。それは千裕自身もよく知っている。

「見ろよ、男の少し後ろにビデオ回してるヤツがいるだろ、もう撮影始めてるぜ。そういや俺が見たビデオも中央通りのシーンから始まってたっけ……」

 亮の言葉の通り、スーツ男の少し後ろを付いて歩く別の男が、未散たちにカメラを向けているのが見えた。

「くそっ、なんなんだよこの街は!」

 頭をかきむしり、怒りのままに拳を振り上げたが、その怒りをどこにもぶつける場所がなく、千裕は震える拳をゆっくり降ろした。

「とにかく助けなきゃ……行こう!」

 そう言って亮の腕を軽く叩く。だが亮は動かない。

「行こうって、俺も手伝うわけ?」

「当たり前だろ、見て見ぬフリするのかよ!」

「いや、あの子のビデオなら見てみたいかな……なんてさ」

 亮の言葉に千裕が亮を睨みつける。どこかオドオドしたいつもの千裕とは別人のようだ。

「冗談だよ。次期店長の頼みなら仕方ない。あいつら追っ払いに行くか」

 亮は千裕より少し先を歩き始めた。人ごみをかき分け、ゆっくりと少女たちに近付く。

「いいか、相手は複数だ。女に声をかけてる奴とビデオを回してる奴以外にもいるはずだ。とりあえず俺があの声をかけてる男を足止めするから、その隙に女を連れて逃げろ」

「わかった」

 徐々に距離が近付き、未散たちの姿がハッキリ見えてきた。

 未散はスーツ男には一切視線を向けず、前だけを向いて歩き続ける。しかし男も諦めず、何度も未散の前へと回りこむ。

 だが、少女の進路を塞ごうと前へ出ようとした男の肩を亮が掴んだ。

「あんたもしかして裏道シリーズの人じゃない? 俺、あんたの出てるビデオ持ってますよ。いやー、あのシリーズ大好きでさ、まさか本人に会えるなんて思わなかったわ」

「なんだお前! 邪魔すんな!」

 スーツ男は亮を振りほどこうとするが亮は食い下がる。

「いや、俺あんたのファンなんだって! 散々お世話になったからさ、ちょっとお礼を言いたくてさ」

 男の両肩をがっしりと掴み、離さない。

 そんな背後の様子に気付き、未散の足も止まる。急に始まった二人のやり取りを呆気に取られて眺めていた。

 そんな未散に千裕が声をかける。

「比奈!」

「あれ?……野上君?」

「逃げよう!」

「え?」

 状況の飲み込めない未散は戸惑うばかりだ。しかし状況を説明している暇は無かった。辺りに目をやると、千裕たちをジッと見据え、距離を詰めてくる数人の男たちの姿が見えた。

 千裕は戸惑う未散の手を取ると強引に引っ張った。

「いいから早く!」

 千裕が未散を連れて駆け出すと、それに反応して周囲の男たちも駆け出した。

「ちょっと!なんなの!?」

「説明はあと! 今はとにかくあいつらを振り切らないと!」

 二人は人ごみを無理やり押し広げながら強引に駆け抜けた。しかし未散を連れて走るのは思いのほか難しい。なんとか目の前のファッションビルに飛び込みはしたものの、足の遅い未散を連れていてはいつものように二階へと駆け上がる余裕はなかった。

「こっち!」

 千裕はビルの一階にあった服屋へと駆け込むと未散を試着室に押し込んだ。そして自分も中の様子を伺う風にさりげなく顔だけ試着室に突っ込む。

「なんなのこれ……急に……」

 状況が飲み込めない未散は戸惑うばかりだ。

「ごめん、ビックリさせて……でも君がヤバイやつらに目を付けられてたからこうするしかなかったんだ」

 未散はただジッと千裕を見つめていた。

「さっき君に声をかけてた奴いたろ? あいつ、やばいビデオを撮ってる奴なんだ。あのまま放っておいたら君が連れ去られるかもしれなかったから……」

「なにそれ……」

 千裕の話に未散の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「この街は運が良くても悪くても、いつか必ず面倒に巻き込まれる。今がその面倒なんだ」

 千裕の真剣な眼差しに、未散は徐々に自分の置かれた状況を理解しつつあった。

「とにかくあいつらを撒かないとマズい。仲間が何人いるかもわからない以上、できるだけ遠くに離れないと……」

「ねえ、近くに交番とかないの? 警察に行った方が……」

 未散の言葉に千裕は首を振る。

「この時間はパトロールで不在だよ。あいつら、道案内が増えそうな時間を選んでパトロールに出るんだ。だから今の交番は空っぽだ」

 こういう時の警察はあてにならない。それを知っている千裕は逃げ道を探すために辺りを見回す。だが、追っ手はすぐそこまで迫っていた。ビルの中を見回すガラの悪い男たちが千裕の姿を見つけ声を上げる。

「マズイ、見つかった!」

 千裕は未散を試着室から引っ張り出すと奥の階段を指差した。

「走れる? あの階段を使って上へ上がって!」

「わかった!」

 未散も覚悟を決めた。千裕の言葉に従い、意を決して階段を駆け上がる。そして千裕もその後を追った。

 上へ上へと向かう未散を確認した千裕の足が飲食店フロアとなっている三階で止まる。階段の隅に積まれたビールの空き瓶が目に飛び込んできた。

 千裕はそのビールケースを掴んだかと思うと、何の躊躇もなく階段にぶちまけた。ビンの転がる音が当たりに激しく響き、三階にある居酒屋から店員が飛び出してくる。

「おいっ、何して……って、千裕くん!?」

「マルさんごめん! 後で片付けにくるから見逃して!!」

 店から飛び出してきた店員の顔を見た瞬間に千裕が叫んだ。そして逃げるように階段を駆け上がった。階段の下からはスーツ男の仲間がやってきていたが、音を立てて転がるビール瓶を前に慌てている。

 千裕は振り返ることなく階段を上り続け、最上階にたどり着くとそこには息を切らせた未散が待っていた。

「どうしよう、ここ行き止まりだよ」

 ビル設備の入った部屋へと続く扉はあるものの、鍵がかかっておりこれ以上の行き場は無かった。

「大丈夫、こっち!」

 千裕は階段脇の窓を開けると、そこから一段低い隣のビルの屋上へと飛び降りた。二つのビルの間には数十センチの隙間しかなく、簡単に飛び越えられる。

「早く!」

「そんなこと言っても……」

 未散は腰ほどの高さの窓枠を乗り越えるのに手間取っていた。スカートが気になって足を上手く上げられない。

「ほら、見てないから早く!」

 千裕が両手で目を覆い、未散に背中を見せると未散はようやく窓枠を飛び越えた。

 隣のビルの屋上から建物内に入り、千裕がエレベーターのボタンを押した。

 到着階のランプがもどかしいほどゆっくり最上階へと進む。千裕はエレベーターフロアの窓から外を眺め、追手の存在を探す。そしてビルの前にある横断歩道の信号にも目をやる。

「エレベーターで一階に降りたらダッシュで道路を渡るから今のうちに休んでおいて」

「……わかった」

 未散は軽く胸に手を当て、深呼吸した。息を整えるというより、人に追われ焦っている自身の心を落ち着かせようとしていた。

 そして十数秒。到着したエレベーターの扉が開いた。二人がエレベーターに入ると、カゴが静かに一階へと降り始める。

「なんでこんな事になっちゃったんだろ……ただ買い物に来ただけなのに……」

「比奈ってこの街くるの初めて?」

 きょろきょろと様子を眺めていた未散の姿が千裕の頭に浮かんでいた。

「うん、ちょっと雑誌で読んだお店に行ってみたくて……」

「この街は面白い物もたくさんあるけど、それと同じくらい面倒も多いんだ。軽いナンパやスカウトくらいなら本人の意思でどうとでもなるけど、もっとしつこいのもいるから……」

「それがさっきの……」

 追いかけてきた連中の姿が未散の頭をよぎる。

「でもしつこいと言っても撒いちゃえば大丈夫。これだけ人の多い街だし、少しすればあいつらも諦めるさ」

「そうだといいけど……」

「とりあえず、通りの向こうまで走ったら落ち着けると思うから、あと少しだけ頑張って」

 千裕の言葉に未散がうなずくと、その瞬間、扉が開いた。

 腕の時計を見た千裕は逆の手でエレベーターの扉を押さえ、その場にとどまった。店の外に小さく見える信号と秒針の動きを交互に眺めていたかと思うと、次の瞬間に声を上げた。

「よし走るよ! ついてきて!」

 エレベーターから飛び出した千裕たちは一目散にビルの外へと飛び出した。すると隣のビルの前の歩道にいた男たちが千裕に気付く。だが千裕は全く気にせず走る。

「そのまま信号を越えるんだ!」

 千裕が外へ飛び出した直後に中央通りにかかる歩行者信号が点滅を始め、二人はその中を全力で走り、横断歩道を渡りきると同時に信号が変わった。

「よし、時間ピッタリ!」

 交通量の多い中央通りは信号が変わった瞬間に車が流れ始める。途切れなく流れてくる車に追っ手の男たちは遮られた。

 二人は振り返りもせず正面の路地をひたすら直進した。人ごみをかき分けての移動は困難だったが、追っ手を道路の向こうに足止めできたことで余裕が出始めていた。中央通りと平行に走る神柴川にぶつかると千裕が立ち止まった。

「このまま川に降りる」

 誰かの空けたフェンスの穴を千裕が指差す。その言葉に未散の顔が一瞬驚きの表情に変わったが、千裕に言われるがままフェンスをくぐる。千裕も未散の後に続き、フェンスを抜けて川の底へと降りた。

 深く掘り下げられた神柴川は、コンクリートの斜面が下まで続いていて、水量は驚くほど少ない。大雨時の排水路としての役割が大きい神柴川は雨が降らない時にはただのコンクリートの溝となっているのだ。

「よし、とりあえずここまで来れば大丈夫。こんなドブ川を覗き込む奴はいないからね」

 水が干上がり、ゴミの散乱するコンクリートの上で千裕が笑ってみせた。

「まあ、ちょっと臭いのがアレだけど……」

 ドブ特有の混ざった臭気が辺りを包む。

「ごめん、もうちょい良い逃げ道があったらよかったんだけど……」

「ううん、全然平気。走り回るよりずっとありがたいよ」

 さすがに疲れたのか、未散が膝に手をあて背中で息をしている。

「そっか、じゃあここからは歩きながら移動しよう。もう少しの辛抱だから……」

 人の絶えない賑やかな神柴町も、コンクリートに囲まれた川の底だとずいぶん静かだ。辺りの騒音がやけに遠く聞こえる静かな空間を二人は歩いた。少し先にある橋が序々に大きく見えてくる。

「野上君ってさ、ずいぶんこの街に詳しいんだね、屋上に出られる場所とか、こんな川の底のことまで知ってるなんて」

「家がこの辺だからね。こういう場所も遊び場だったんだ」

 千裕にとってこの街は子供の頃から歩き回っている場所だ。知らない場所の方が少ないだろう。おまけに不良に追われ慣れてるだけに、逃げ道ともなれば何百通りと思いつく。

「野上君って神柴町に住んでるんだ……なんかすごいね……」

「たまに来るぶんには楽しい場所だけど、住むのは色々大変だよ」

 神柴町に住んでいることを話すといつも決まって羨ましがられる。千裕は何度もしたことのあるやり取りを未散相手にも繰り返した。

「でも野上君がこの街に住んでてくれたから私は助けてもらえたんだよね」

「あ、いや、俺は別にそんな大したことしてないし……」

 未散の言葉に千裕が慌てる。あまりの目まぐるしさに気にしていなかったが、未散と二人きりだったことを急に意識し始め、落ち着かない。

 未散は学校で一番と言い切れるほどの美しさだ。真っ直ぐで黒い髪はいつだって艶やかで、その大きな瞳で見つめられると走り着かれて乱れた呼吸がますますおぼつかなくなる。一瞬、ここがドブ川の底であることを忘れるほどの存在だった。

「あんな怖い目にあうと思わなかったし、あの時に野上君がいなかったらと思うと……本当にありがとう」

 未散自身も、自分の身に降りかかった面倒な出来事について今更ながら実感し始めていた。

「まあ確かに色々ある場所だけど、その、ちょっと脅かしすぎたかな……基本的にはこの街も安全で楽しい場所だよ。ただ比奈みたいな可愛い子は色々狙われやすいから……」

 可愛いという言葉に未散が一瞬驚いたような困ったような、嬉しいような微妙な表情を浮かべた。何か言おうと口が動くが、それより先に千裕が言葉を続けた。

「その……目立つと色々寄ってくるんだよ。とりあえず制服着るのやめて、ちょっと帽子を深めにかぶっときゃ案外平気だよ」

「そっか……」

 わずかな沈黙。妙に静かなその間に耐えられず、千裕が慌てて言葉を繋ぐ。

「そういえば今日はどこに行くつもりだったの?」

 8EVってブランドのお店と、あとケーキ屋さん」

「あー、ケーキってあの行列すごいとこでしょ?」

 ケーキ屋といういと、中央通りの一角に最近出来た店があり、千裕はその行列をいつも見て知っていた。

「そう。なんか話題になってたからちょっと食べてみようかなって……でも結局食べずじまいになっちゃった」

 神柴町に来たばかりで騒動に巻き込まれた未散はこの街でまだ何もしていなかった。残念そうな表情を浮かべる未散の顔を橋の影が覆う。気が付けば二人は橋の下まで歩いてきていた。

「とりあえず上がろうか……」

 川底から斜面を上がり、橋脚のすぐ真下まで歩くと、橋の下にはベニヤとビニールシートで作られた小屋がいくつも並んでいた。

「千裕ちゃんじゃないか!」

「あ、シゲさん、こんちは」

 橋の下の小屋の中からボサボサ頭と長いヒゲの老人が顔を出した。この橋の下で暮らすホームレスだ。見知った千裕の顔を見るや、そのシワだらけの顔をクシャクシャにして笑顔を見せる。

「どうした、こんなところに来て……また不良に追っかけられでもしたか?」

 不良に追われ、この場所まで逃げてくることは千裕の日常だった。時にはホームレスの小屋にかくまわれることもあるくらいだ。

「まあそんなところかな」

 そう答えた千裕のことは見ず、シゲはその後ろに隠れるようにしている未散を見ていた。

「……彼女かい?」

「違うってば、ちょっとその……知り合いだよ」

 言葉を濁す千裕にシワだらけの顔がますますクシャクシャになる。

「ほっほ、まあ深くは追求せんよ。それじゃあな」

 ちょうど小屋から出てきた所なのに、シゲは気を使ってかまた小屋へと引っ込んだ。その様子を未散はおどおどした様子で眺めているだけだった。

「知り合いなんだ。大丈夫、上の連中よりよっぽどイイ人だよ」

「そうなんだ……ずいぶん顔が広いんだね、野上君って」

「子供の頃から住んでるからね……」

 そう言った直後、携帯が鳴った。亮からのものだ。

「おー千裕、まだ生きてるか?」

 携帯の向こうからずいぶんとのん気な亮の声が聞こえる。

「ああ、なんとか逃げ切ったよ。で、そっちは?」

「女に声かけてた奴いたろ? とりあえずアイツをボコボコにして……あと、それを助けにきた仲間を4人ほどボコボコにしただろ……その後もう一回、最初の男をボコボコにして……で、それを見た仲間が逃げ出そうとしたからさらにボコボコにして……」

「……要するに全員ボコボコにしたってこと?」

「まあそんな感じかな」

 亮が動く時は必ず暴力で終わる。またかと千裕の口からため息が漏れる。

「まあこれでとりあえずあいつらも諦めただろう。もう逃げ回る必要もないと思うぜ」

「そっか、ありがとう……」

「とりあえずコレは貸しだからな。いずれ返してもらうぞ、次期店長」

 そう言うと、千裕の返事も聞かずに通話が切れた。

 物騒な会話に未散が不安そうに千裕を見つめている。

「……もしかして、さっき声をかけてきた人を止めててくれてた人?」

 未散はしつこく声をかけてきたナンパ男に亮が立ちふさがったのを思い出した。

「ああ、とりあえずもう追っかけられる心配はなくなったみたいよ」

「ホントに? なんかすごいこと話してたみたいだけど……もしかして私のせいでケンカとかになっちゃったんじゃ……」

 未散が申し訳無さそうな顔を浮かべる。

「あ、全然気にしなくていいよ。亮は比奈のことと関係なくいつもこんな感じだから。なんていうかその、ちょとヤバめの知り合いというか……」

 ややこしい亮と千裕の関係をどう説明していいかわからず、千裕が言葉を濁す。

 そんな千裕の様子を見て未散の表情が曇った。

「私、やっぱりここに来ない方がよかったのかな……」

「え、なんで?」

「だって、私が来なければ野上君たちが変なことに巻き込まれなくてすんだし……」

 状況の目まぐるしい変化についていけないのか、未散は混乱していた。下を向いた表情がどこか悲しげに見えた。

「いや、だから比奈がいてもいなくてもこうなってるんだって。しょっちゅうガラの悪いのに追っかけられるし、ケンカに巻き込まれることも日常茶飯事なんだよ。いちいち比奈が気にしなくていいってば」

「でもそれってつまり、やっぱり怖い街ってことだよね……野上くんの雰囲気も学校で会ってる時となんか違うし、私は何も知らないほうが良かったのかなって……」

「…………」

 落ち込む未散の表情を見て思わず千裕も黙ってしまい、妙な沈黙が生まれた。

「……わかった、じゃあ楽しいことをしよう」

「え……」

「俺、子供の頃からこの街に住んでるけど、正直この街は大っ嫌いだ……どこに行っても人だらけだし、日本中から鬱陶しいのが集まってきて、何かっつーと変なのにも絡まれる。でもこの街にだって良いところはあるからね。初めてこの街に来た人が嫌な気持ちになって帰ってしまったらやっぱり悔しいし」

 千裕は時計を見て時間を気にした。

「比奈、今日はケーキを食べるつもりだったんだよね? 今から食べにいこう!」

 そう言うと橋のたもとから道路へと戻り、千裕は未散を連れて先ほど追っかけっこを繰り広げた中央通りの方へと歩き始めた。

 中央通りまでくると未散が食べたかったケーキ屋の看板が見えてきた。しかし行列は店の外の歩道にずらりと並び、今から並ぶと相当な時間がかかりそうに見える。

 だが千裕は行列のできるケーキ屋のことなど気にもせず、ただ無言で店の前を通りすぎた。

「野上くん? 私が行きたかったのってココなんだけど、並ばないの?」

「今から並んでも大変でしょ。別な店にしよう」

 まったく気にもせず、千裕は中央通りから脇道へと入り、どんどんと入り組んだ路地へと歩いていった。気が付けばマンションや住宅の並ぶ静かな場所まで来ていた。たとえ東京のど真ん中とはいえ、店舗ばかりの表通りから離れれば本来の生活の場が広がっている。

 そんな住宅街にあるマンションの敷地内にカラフルなバンが一台止まっていた。

 高級車ばかり並ぶ屋根付きガレージのすぐ前、車を取り回しできる広めのスペースに停められたバンにはケーキの絵が描かれ、その脇にパラソルとテーブルと椅子が一揃え置かれている。

「もしかしてケーキ屋さんて、これ?」

 有名な店を素通りして小さなバンの前に連れてこられた未散は、拍子抜けしたような声を上げる。

「そうだよ」

「なんでこんな場所に……」

 人の気配のまるでない場所にポツンと佇むカラフルな車に未散が戸惑う。

「注文を受けて配達するのがメインの店だからね。その配達のついでにこうして店を少しの時間だけ開けてるんだ」

 千裕は運転席を覗き混むと、窓を軽く叩き車内で本を読んでいた男に合図した。

「やあ千裕君いらっしゃい。お母さんのお使いかい?」

 車から降りてきたコック服の男が笑顔を見せる。

「いえ、今日はここで食べてっていいですか?」

 千裕が横に立つ未散をチラリと見た。未散の存在に気付いたコック服の男が未散にも笑顔を見せる。

「今日はお友達も一緒か。ちょっと待ってね、今準備するから」

 そう言って男はバンの後部ドアを開ける。中にはエスプレッソマシーンとガラスケースに入ったケーキが並んでいた。男は千裕たちを手招きし、ガラスケースの中のケーキを見せる。

「今日あるのは4種類だけなんだけど、食べたいのあるかな……」

 モンブラン、チーズケーキ、タルト、ザッハトルテが並ぶ。それらのケーキを見た途端、どこか疑い気味だった未散の表情が一気に和らいだ。

「あ、チーズケーキ美味しそう……」

「お嬢さんはコーヒー平気かな?」

「コーヒーですか? はい、全然好きです」

「じゃあカプチーノとチーズケーキでいいかな?」

 店主の言葉に未散もうなずく。

「千裕君は?」

「んーと、俺はそのチョコっぽいのでいいかな。飲み物は一緒ので」

「ザッハトルテね、それでは少々お待ちを……」

 千裕たちをパラソル付きのテーブルに座らせると、ケースを開け、店主が準備を始める。

 その様子を見ながら未散がつぶやく。

「なんか変な感じ。こんな場所でケーキを食べるなんて」

「あくまで注文を受けて宅配する店だからね。ここで売ってるのはそのついでみたいなもんだよ。でもそのおかげでガイドとかにも載らないから、この辺りに住んでる人しか知らない穴場なんだ」

「たしかに……駐車場の隅に車が止まってても休憩中にしか見えないもんね」

 千裕たちが声をかけなければあのまま読書が続いていたのだろうと未散は思った。

「でも味はすごいよ。なんせひとつ三千円はする高級ケーキだから」

「え、三千円!?」

 その言葉を聞いた途端に未散の顔色が変わった。財布を確認しようと慌ててカバンを手に取った。

「どうしよう、私そんなにお金……」

 だが、ケーキを運んできた店主が口を挟む。

「大丈夫ですよ。三千円っていうのは予約注文を受けて作ったぶんだけです。ここで売るのは余分に作って余った品ですから値段も抑えてあります」

「……ホントに?」

 未散が恐る恐る千裕の顔を見る。千裕は問題無いとうなずいてみせた。

 目の前に置かれた三千円のチーズケーキを前に未散が緊張する。

「さ、食べてみなよ」

 千裕に促され、未散が恐る恐るチーズケーキの一切れを口に放り込む。

「んんんっ!!」

 口に入れた瞬間、未散が驚きの表情を見せた。

「どう? 美味しいでしょ」

「んんんんんんっ!!」

 チーズケーキを口に入れたまま、未散が喜びの表情を見せた。

「溶ける! 溶けるよこれ!」

 ただでさえ可愛い未散が満足そうに笑顔を見せる。学校ではろくに話したこともなかった未散がすぐ目の前にいて、その可愛らしい笑顔を見せてくれているのが千裕には信じられなかった。未散を喜ばせたかったはずなのに、むしろ自分が喜んでいた。

「行きたかったケーキ屋とは違うけど、満足できた?」

 未散は大きな瞳を丸くさせ、チーズケーキを頬張ったまま何度もうなずいた。

「せっかくだから他にも色々行ってみない? まだ時間あるし」






 5


 比奈未散が神柴町に来て数時間が経過した。

 街の中央から外れた場所の住宅街でケーキを食べた未散は千裕に連れられ、街のあちこちを歩いていた。

 行きたかったブランドの店に寄り、千裕に教えてもらった中高生に人気の雑貨屋に立ち寄り、一昨日オープンしたばかりのたい焼き屋で抹茶たい焼きを食べる。

 数時間前まで怪しい男たちに追いかけられていたとは思えないほど、未散の表情は明るくなっていた。

「どう?ちょっとは楽しくなってきた?」

「ちょっとどころかすごく楽しいよ! どこのお店にも可愛い服や帽子が売ってるし、どっちを向いても賑やかで、すごく元気を貰える感じ。こんなに楽しい街だったんだね、ここ」

「これで変なのに追いかけられたのは帳消しになった?」

「うん!」

 未散の嬉しそうな笑みを見てると同じく面倒に巻き込まれた千裕の気分も明るなった。

「色々あったけど、つまりそれだけエネルギーが集まってくる場所なんだろうね、この街って」

 辺りを見回すと、それぞれの人が、それぞれの思いを抱き、この街を歩いている。未散は自分自身もその中の一人であることに喜びを感じていた。

「そっか、よかった……」

 楽しそうな未散の笑顔に千裕自身ホッとしていた。

 その千裕の柔らかな表情に未散が気付く。

「野上くんってさ、この街のこと嫌いって言ってたけど、ホントはすごく好きなんだね」

「別に好きなわけじゃないよ……ただ、せっかく来たなら楽しんでもらいたいから……」

「ううん、好きじゃなきゃここまでしないよ普通。……ホント、野上君のおかげで楽しく過ごせたよ、ありがとう」

「まあとにかく楽しかったならよかったよ。ちょっとは力になれたみたいだし」

 千裕が照れくさそうに笑った。

「そうだ、あの人にもお礼を言わないと! スカウトの人を捕まえててれてた人」

 スッカリ忘れていたのか、未散が慌てた声を上げる。

「ああ、亮のことか」

 千裕も未散と一緒にいる間はすっかり亮のことを忘れていた。

「亮には俺が言っておくよ。あいつどこにいるかわかんないし」

「直接お礼言わなくて大丈夫かな……」

「大丈夫大丈夫、そんなこと気にする奴じゃないから。それよりそろそろ帰る時間なんでしょ。急がないと」

 郊外に家がある未散はあまり遅くまでこの街にはいられない。別れの時間が迫る。

「今日はありがとう。学校ではあんまり話したことなかったし、今日は色々話せて楽しかった。今度は学校で……ね」

 どこか照れくさそうに顔の脇で小さく手を振ってみせる未散。

「うん、それじゃまた、学校で」

 駅に向かって歩く未散の背中が人ごみに紛れ、小さくなっていく。千裕はその姿が見えなくなるまでジッとその姿を追いかけていた。

 だが不意にかけられた声に思わず千裕の体がビクリとする。

「よお、ずいぶんと楽しそうだったじゃないか」

「た、亮!? いたのかよ」

「いたのかじゃねえよ。せっかく手伝ってやったのに、俺のこと放ったらかしでお前ら二人で楽しそうにしやがって……」

「別に楽しそうそうとかそんなんじゃ……ただ街を案内してただけで……」

「それにしちゃずいぶん楽しそうに見えたけどな、しまりのないお前のニヤケっぷりときたらもう。ケーキ食ってる時なんて酷かったってもんじゃないね」

「って、見てたのかよ!!」

「ああ見てましたとも。お前は女に夢中で気付かなかったろうけど、街のあちこちでお前らとすれ違いましたさ」

 千裕は亮が近くにいたことなど全く気付いていなかった。そこまで回りが見えていなかったのかと思わず顔が引きつった。

「俺だって手伝ってやったっていうのに、コレだもんな」

「いや、亮のこと忘れてたわけじゃなくて、その……助かったよ」

 慌てて声を上げるが、言えば言うほど白々しくなる。

「なんかとってつけたような礼だなおい」

「だからホントに。比奈……いや、あの子もお礼言っといてくれってさ」

「ふーん、まあいいけどさ……で、あの子と付き合うわけ?」

「はぁ!? なんでそうなるわけ?? 俺はただ街を案内しただけだろっ!」

 唐突な亮の言葉に千裕の声がひっくり返る。

「いやー、俺にはすでに彼氏気取りの顔に見えたけどな。なんかちょっと得意げな感じで付いて来いよ的な感じとかして」

「んなわけないだろ!」

 亮の冷やかしに、さっきまでの楽しい気分をかき回され、千裕は頭までかきむしった。

「これだからこの街は嫌いなんだよ! めんどくさい奴らばっかり!」



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