リビングデッドの建国記
「ウウッ……わ、わしはもう駄目じゃ……」
古びた木造建築の一軒家。その中の一つの部屋で、じじいは死にかけていた。もともと病気がちだったので、むしろここまで長生きできたのは上出来かもしれない。じじいは今時珍しくない独居老人であり、あまんじて死を受け入れることにした。
だが、一つだけ気に掛かる事があった。
「タロー、マリリン……先立つわしを許してくれ……」
ぜえぜえ荒い息を吐きながら、じじいは頭だけを横に動かした。
そこには、30センチほどの虫かごが二つ並んでおり、それぞれに全長15センチくらいのトカゲが入っていた。この二匹はじじいが飼っていた砂漠に生息するトカゲで、一人暮らしのじじいの唯一の友達であった。
じじいは天涯孤独であり、友達と呼べる人間も、近所づきあいも皆無だった。砂漠トカゲは小さな身体の割に驚くほど丈夫な種族で、ほんのわずかな食料と水分で、何カ月も絶食して生きる事が出来る。
さらに、動きも鈍重なので、のろまなじじいでも簡単に取り扱う事が出来た。
じじいにとって、タローとマリリンは唯一の心のオアシスであり、家族であった。その家族を残し、自分だけが旅立とうとしている。いくら砂漠トカゲが丈夫でも、30センチの水槽に入れられたままでは死を待つのみ。
「しかし、外に放つわけにはいかん……こいつらは外来種なんじゃ……」
外来種とは日本に本来住んでいない生物の事だ。有名なのはアメリカザリガニやアライグマなどだが、ひとたび野に放たれれば在来の生物の脅威となる物が多い。
なにせ島国でのほほんと暮らしてきた連中が、大陸での生存競争に勝ち抜いた猛者に蹂躙されるのだから無理も無い。ワールドカップ出場選手が町内会の草サッカーに乱入してくるようなものなのだ。
じじいに残された時間は少ない。今からインターネットで里親募集をしている暇は無いし、そもそもじじいはインターネットを使うとウイルスで病気になると勘違いしていたのでパソコンが無かった。
かといって、近所づきあいも無いし、奇妙な人間が飼っている奇妙生物を引き取ってくれるとは思えない。
「わしに出来る事はこのくらいじゃ……許してくれ」
じじいは最後の力を振り絞り、タローとマリリンを水槽から取り出し、リビングに連れて行った。そして、二匹をそっと床に下ろした。
水槽の中で閉じ込められて死ぬよりは、せめて少しでも広く、かつ外に出ない場所で余生を過ごして貰いたい。じじいに出来る最後の心遣いだった。
そうしてじじいは、そのままリビングで静かに息を引き取った。これが本当のリビングデッドである。なんちゃって。
さて、何年も一緒に生活をしてきた主の死に、砂漠トカゲのタローとマリリンは大いに嘆き悲しんだ……なんて事は無く、今まで見た事のない広々とした空間をのそのそ歩きだした。しょせん爬虫類である。
二匹はじじいの死骸を踏み越え、家具の隙間の狭い場所をねぐらに決めたようだった。砂漠トカゲは夜行性で、昼間は気に入った場所でじっとしており、夜になると餌を求めて巣の近くを歩き回る。
砂漠トカゲの主な食事は虫である。だが、じじいは普段は乾燥コオロギを餌として与えており、生きた昆虫はじじいの家に居なかった。
砂漠トカゲは尾に栄養を蓄えておけるので、2カ月くらいなら餌抜きで耐えられる。乾燥地帯の生物なので、水分は家の壁に付く夜露で充分賄えた。
しかし、タイムリミットがあるのは事実である。生物である以上、食べなければ死んでしまう。だが、心配は無用だった。それはじじいが死んでから三日後の事である。
人間からゾンビへジョブチェンジ中のじじいの死体に、よく分からない虫が外からやってきたのだ。目的は当然、じじいの肉である。決してエロい意味ではなく栄養的な意味で。
これはまさに奇跡だった。じじいの死体に引き寄せられてくる虫たちを、タローとマリリンはせっせと食べた。そう、じじいは死してなお砂漠トカゲたちを飼育していたのだ。
だが、これだけでは完全とは言えない。虫の身体はキチン質と呼ばれる成分で構成されており、虫だけ与えていると、カルシウムが不足し、骨がぐにゃぐにゃになるクル病になってしまう。
しかし、これも心配は無用だった。何せ、家の中には最高のカルシウムがある。そう……じじいの骨だ。
野生のヤモリもコンクリートなどを舐めてミネラルを補充するのだが、タローとマリリンも本能的に、人間からスケルトンにジョブチェンジしたじじいの骨を舐めてカルシウムを補っていた。
じじいが死んでから季節が幾度か巡ったが、もともとじじいは極端な出不精で、しかも片田舎の辺境の場所に住んでいたので周りの人間は誰も気に留めていなかった。
そして、完全にじじいが白骨になった頃、季節は春になっていた。ぽかぽかと暖かい春の日差しを浴び、じじいの白骨は輝いていた。その頃、タローとマリリンの関係に変化があった。
マリリンが身ごもったのである。マリリンはタローの卵をお腹に宿し、出産の時期を迎えた。
砂漠トカゲは周りに目立たない暗がりに卵を産む。マリリンが卵を産んだのは、じじいの頭骨の中だった。頭蓋骨はちょうど目の部分が二つ空いており、マリリンからすれば頑丈なシェルターに見えたのだろう。
それから一ヶ月ほど経ったある日、十個ほどあった卵のうちいくつかが孵った。3センチほどの可愛らしい赤ん坊である。砂漠トカゲは産まれた瞬間から一人立ちをするので、タローとマリリンたちはちょっとした群れになった。
一方、廃墟と化したじじいの家にはところどころガタが来ていたが、これがかえって幸いした。隙間からよく分からない謎の生き物が入り込んでくるようになり、じじいの食える部分が無くなっても、タロー達が食事に困る事は無かった。
その頃になると、ニホンヤモリと呼ばれる在来の爬虫類も同居人として住むようになった。彼らは壁を伝って移動する独特の生態を持っている。砂漠トカゲたちは地上性なので、彼らと領土を争う事にはならなかった。
それからさらに時が経った。マリリンとタローの子供達は繁殖期を迎え、砂漠トカゲたちはさらに数を増やした。ニホンヤモリ達も、砂漠トカゲの『床』の領土は犯さず、『壁』という立体的な領土を持っていたので滅多なことでは争いにならなかった。
何より、彼らが同時に住まう事には大きなメリットがあった。蛇などの外敵が侵入してきた際、戦闘能力をほとんど持たない砂漠トカゲとニホンヤモリは、個体数が増える事でターゲットを分散させる事が出来た。この戦法より、多少の被害は出ても、両種族が全滅する事は無かった。
いわば同盟国のような関係であり、同じ世界に住む住人としてお互いを受け入れていた。
客観的に見れば、この家はじじいの白骨死体が放置された事故物件のゴーストハウスである。だが、今この家には砂漠トカゲとニホンヤモリを主体とする、数多くの命が穏やかに暮らしている。それはまさに、一つの王国であった。
ここで聡明な読者諸君に問いたい。『真の王』とは一体何であろうか?
最も力の強い者であろうか?
最も富を得た者であろうか?
最も名声を讃えられた者であろうか?
――否。真の王とは、生きる者たちの楽園の基盤を作る者である。
確かに、じじいはただのじじいである。それ以外の何物でもない。
だが、今、ここに数多く生きる砂漠トカゲ達を繁栄させたのは、紛れも無くじじいであり、彼は偉大なる王であったのだ。
恐らく、砂漠トカゲ達はじじいの存在なんか脳の片隅にも残っていないだろう。
だが、それでいいのである。王の名誉は民がいかに繁栄し、幸せに暮らしているかで分かるものなのだ。
名もなきリビングデッドにより建国されたトカゲ達の王国。それがどこまで繁栄していくかは分からない。だが、じじいの死は今もなお、トカゲ達の血肉となって脈々と受け継がれている。
――ありがとう、じじい。