9・迷走の影
私はこの日撃墜されました。
光の雨が、けたたましく私を襲いました。
雲の絨毯に潜りこんで回避を繰り返しましたが、三機の追撃から逃れる事は不可能でした。
無我夢中で森に不時着する事が出来た為、奇跡的に命は取り留めたのです。
周囲は山々に囲まれ、自分がポートモレスビー近辺の山間に落ちた事以外、何も判りませんでした。
空がやらた青くて、高く聳えるスタンレー山脈の頂きには白い雪が残っていました。
その上空に纏わり着く雲は、水に絵の具を垂らしたように渦巻いて滲んでいます。
脚と腕と腰を酷く痛めていましたが、とにかく場所を移動しなくてはなりません。
機体は木をなぎ倒してバラバラになったのに、自分だけが助かったのはほんとうに奇跡でした。
草の生い茂る地面に片手を着いて身体を起こした時、チリリリン……という鈴の音が聞こえました。
肌身離さず持っていた、昌美さんから貰ったお守りでした。
何時の間にか気にならなくなった鈴の音が、急に聞こえたのは森の静けさか、自分の注意深さが増幅したからでしょうか。
彼女のくれたこのお守りが、私を守ってくれたのかも知れません。
久しぶりの野宿で、澄んだ夜空を見ました。
見慣れた月の模様が何故か違っているように見えて、森の静けさは月影を遮って深く黒く澄んでいました。
思うような距離を私は歩けませんでした。
二日間、私は微かな水音を頼りに森の中をさ迷い歩きました。
敵地が近いのは判っています。
幸い山脈が方位を示してくれました。私は山を越えずに撃墜されたので、敵軍基地は聳える山の向こうだと判っています。
しかし、落ちたゼロ戦の探索に来る可能性は大きいので、私は常に警戒していました。
日中は航空機の音に聴覚を尖らせて、時折遠くに見える敵機の機影に身を屈めました。
怪我の為に体力の消耗が激しくて、長く歩く事が出来ませんでした。
運よく川に辿り着くと、顔を川辺に突っ込んで水をガブ飲みしました。冷たい水は喉を潤し私の生命力を僅かながら蘇えらせました。
木の実やきのこなど、食べられそうな物はとりあえず口へ入れました。
生き残れる可能性は少ない事を知っていました。あと何日生きるか知れない中で、とりあえず可能な限り生きようと思いました。
そうしなければ、生きる可能性は瞬く間にゼロになる事を予感したのです。
歩くたびに微かに鳴る鈴の音が、彼女の代わりにそう示していた気がしたのです。
腰が酷く痛んで、歩くのが苦痛でした。
脚が痛いのは引きずって行けるが、腰を引きずっては歩けません。
何とか海へ出ようと、私は汐の香りを探しました。
川音を聞きながら、それでも川から離れて進みました。
敵の捜索隊が目をつけるのは、やはり川辺だと思ったからですが、私が生きているとは思っていないだろうという微かな安堵もありました。
そう思わなければ、怖くて森を歩く事は出来ませんでした。
立ち止まる度に空を仰ぎました。
そこは遠く果てしなく、数日前には自分のいた場所だとはとうてい思えません。
地に足を着く憂鬱……
翼を失った鳥は、きっとこんな気持ちで天を見つめるのでしょうか。
月は静かに沈黙し、星は雫を落とす六日目の夜、私は焚き火もせずに闇に紛れて身体を休めていました。
遠くで聞いた事もない野鳥の声がします。野鳥かどうかも判らないのですが、そう決め込む事で闇の恐怖から逃れるのです。
人の気配でした。
微かに動物の鳴き声が響くだけの闇の帳は、生物の気配を逃しません。しかも、二足歩行の人間の気配は、森に潜む獣のそれとは違うのです。
私は闇の向こうに目を凝らしました。
月影が照らす森の景色は、透き通る海底のようです。ぶなの木が茂る蒼い闇を見つめて息を殺しました。
ガサガサッというシダを踏む音が、かなり近い位置で聞こえました。
直ぐ傍の雑木の影が揺れました。
私は草木の合間に細く身を屈めて、大地と同化することばかりを考えました。
大地となり、草木となれば自分の気配を消せると思ったのです。
「誰かいるか?」
囁きのような声がしました。
警戒のなかで溜まらず出したであろうその声に、私は聞き覚えがありました。なにより、日本語でした。
「斉藤か?」
私は微かに頭を上げました。チリリン……と、音が鳴ります。
「し、白土か?」
彼は鈴の音に反応して応えました。
私たちは微かな月明かりの元で再開しました。
斉藤は私より大分南で落ちたようですが、コンパスを無くして方位を見失っていました。
熱帯の生い茂る森は、場所によっては空も見えない為、スタンレー山脈が見えないのです。それ以前に、斉藤はあの山がスタンレー山脈だと気付いていなかったそうでした。
それにしても二度の撃墜で生き残るとは、彼の強運には誠驚かされます。
翌朝、陽の出前に私たちは海を目指して歩き出しました。
しかし、軽傷の斉藤に対して私の怪我はやはり深刻だったようです。
樹木とシダ植物が行く手を阻み、移動する為の疲労は予想以上でした。
斉藤と合流して2日目、私はついに動けなくなってしまいました。
「俺を置いてゆけ。俺はここにいる」
私は大きく横たわる木に寄りかかって斉藤に告げました。
やはり運命に抗う事はできません。ここで朽ちるのが自分の運命なのだと悟っていました。
「そんなことできるか。俺は貴様と一緒に帰るぞ」
斉藤は帰るといいました。
私は……ただ生きる為に歩いていました。
帰る気など無かったのかもしれません。
この森に落ちて朽ちるまで、ただ自分がどれだけ歩き続けられるかそれだけを貫いていたような気がします。
風に吹かれて揺れるだけの蓑虫は嫌だったのです。
「ああ、お前なら帰れる」
「貴様も帰るんだよ。俺と一緒にまたゼロ戦で飛ぶのだ」
斉藤が私の肩を掴みました。
どれだけのゼロ戦が本土に残っているのだろうか。
最後の補給を受けたラエ基地で、特別攻撃隊の話しを聞きました。
『神風特別攻撃隊』です。
第一陣の徴集が行われたらしく、私たちも年明けには要請があるかもしれないと聞きました。
硫黄島が危なく、なんとしても上陸を死守しなければなりませんでした。硫黄島が落ちれば、本土空爆が激しくなるでしょう。
最終決戦に向けた準備が水面下で進められているのは判りましたが、私たちは目先の任務を全うするしかありません。
斉藤は再び戦闘機に乗って、敵兵を殺したいのでしょうか。
私は自分自身の中に、そんな闘争心が無い事に気づいていました。
殺す為に生き延び、生きている人を再び殺す……
なんと理不尽な行為なのでしょう……それに比べ、昌美さんの仕事はなんと人道的行為に満ち溢れているのでしょうか。
そんな彼女だからこそ……軍事国家である日本において非国民的言動と知っていながら私に言葉をかけたのです。
『どうか、無事に帰って来て下さい……』
彼女の言葉、声が蘇えりました。
私はあの時返事をしませんでした。しなくてよかったと思いました。
それは非国民的な答えになる事にこだわったわけではありません。
ただ、それに応えるのが怖かったのです。
あなたの願いに応えられない時が来た時、約束を守れない自分が怖かったのです。
お読み頂き有難う御座います。
今しばらく、お話は続きます。