6・鈴音
退院の朝、担当医に挨拶をして書類を貰いました。
少ない荷物をまとめていると、背中から声がしました。昌美さんが声をかけて来たのです。
二人で病棟の外れに在る物干しの横まで歩きました。
陽の当たらない板張りの通路は、何時もより寒々と感じました。外は冬特有の低く眩しい陽射しが、凍て雲の隙間から細く注いでいます。
「退院したら何処へ?」
「横須賀の基地から佐世保へ。おそらくそこからラバウルへ行きます」
「ラバウル……ですか」
彼女にはピンと来ない様子でした。私にさえ、ラバウルがどんな所なのか想像がつきません。
「はい。戦友が沢山そこにいます」
「暑いのでしょうね」
彼女はそう言って、低い凍て雲を見上げました。
凍て雲が無縁の南国の地。
瑠璃色に輝く南海諸島の風は、硝煙と血に染まっているのかもしれません。
少しの間、空を見上げる昌美さんの姿を私は見ていました。
つるりとした白い頬に触れてみたいと思いました。
彼女は私の視線に気付くと、僅かに頬を紅くしました。そして、白衣のポケットに手を入れて何かを取り出したのです。
「これ……持って行ってください」
彼女が差し出したのは山吹色をした手のひらの半分ほどのお守りでした。
「昨日、神社へ行ってもらってきました」
「私に……ですか?」
「はい」
お守り袋は彼女の手作りで、私の名前が藍色の糸で縫いこまれていました。
私は彼女の手からそれを受け取ると
「これは、昌美さんが?」
彼女はコクリと頷きました。
すこし膨らんだお守り袋は、揺するとチリチリンっと音を立てます。
「飛行気乗りなら、音が鳴っても平気かと思いまして……その鈴も神社で頂いたので」
昌美さんは小さく俯いて「ダメなら鈴は捨ててください」
「いえ、いただいていきます」
昌美さんは背が大きい方なのだろう。男としては背の小さい私と目線が僅かしか違いませんでした。僅かだけ私が上ですが、見下ろすほどではないのです。
飛行気乗りは軽い方がいいからあまり気にした事はありませんが、彼女を凛々しく見下ろせない自分を不甲斐無く感じました。
彼女は私のぶかぶかした病院着の腕の裾を引くと、病棟の影へゆっくりと引き込みました。
建物で光が遮られるそこはひんやりとした場所で、黒土の冷たさを靴底に感じました。
昌美さんの瞳はこげ茶色の虹彩に包まれて、愁いに満ちた黒色に潤んでいました。
私の映りこんだ顔が彼女の瞳の中で小さく揺れ、その愁いの中に溶け込んでしまいそうでした。
「また……」彼女は言葉を呑み込みます。
私は沈黙して彼女の揺れる瞳を見ていました。
彼女の言いたい事が少しだけ僅かに汲み取れましたが確信は無く、確信はあってもここで確信にするわけにはいかず、私はただ沈黙しました。
薄紅の唇が微かに震えました。
彼女は何かを言いかけて再びそれを呑み込むと、ゆっくりと倒れこむように私に身を委ねました。
耳元に彼女の静かな息がかかります。
「どうか、無事に帰って来て下さい……」
無事に帰ってきて。などと言う言葉は、愛国心に反する時代でした。お国の為に死んで来いと送り出すのが当たり前の時代でした。
いくらそうは思っていなくても……
彼女には小さい弟がいます。父親は米問屋を営み、今は軍の物資配給に協力しているそうです。
戦場に家族を送り出した事のない彼女には、愛国心という片寄った冷たい鋼鉄の精神は関係ないのかもしれません。
私は「はい」とは言いませんでした。
耳に熱いものが滴るのを感じました。
彼女の頬を伝った泪だと判りました。
「あなたはあなたの命を守る為に引き金を引いてください。その分私はここで誰かの命を救います」
「有難う御座います」
私はそう言って、彼女の肩を抱きました。
背はそう変わらないのに折れそうなほどか細くて、卵にでも触れるようにそっと大事に抱きました。
私が引き金を引く事で彼女に開けた未来をもたらす事ができるのなら、私は再び戦場の蒼穹を飛ぶでしょう。
消えた闘争心が再び芽生える事がなくても。
綿毛のような白いモノが空からヒラヒラと舞ってきて二人の頭に触れたのは、例年よりも一週間早い初雪だそうです。
彼女が肩を震わせ頭を動かして私の身体を揺すったので、手に持ったお守りがチリリン……と悲しい音を立てました。