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5・夜天光

 この日、関東地方にも一部地域で雪が舞ったそうです。

 横須賀はほとんど雪は降りませんが、凍えそうなほど凍てつく寒さが微かに風の漏れこむ窓際に渦を撒き、吹き溜まりとなってカタカタ鳴っていました。

 寒空は異様に高く、遠くにイワシ雲が見えます。

 私が霞ヶ浦の操縦学校を卒業した日も、同じような空が見えました。同じぐらい寒かったはずなのに、あの時の寒さは清々しさに変わって私を包んでいました。

 戦闘機に乗る志が、闘志を震わせていました。

 ここはそんな闘志が無用の場所です。

 闘志が無用になると、寒さというのは増すのでしょうか……

「白土さん」

 昌美さんが声をかけてきました。先週から私の担当になったらしいのです。

 朝の洗濯の時間や、午後の取り込みの時間など、私の散歩の時間がちょうど重なる為に最近よく話しをします。

 彼女は調布に生まれ育ち、その後世田谷へ移り住んで目白女学院に通ったそうです。

 その後看護学校へ入ったそうですが、一年も経たずに病院への要請があり、学生のほとんどは軍病院へ散らばったそうです。

 最初に就任したのが、霞ヶ浦近くの海軍病院なのでしょう。

 私とは学年でいうと、二つ上だという事がわかりました。

 昌美さんは親の勧めで看護学校へ入ったそうです。お国のために女が出来る最良の仕事だと、両親は言ったそうですが彼女自身はそうでもないようでした。

 ただ、怪我をした誰かの役に立てるのは希有な事だと言いました。



 眠れない夜、私はこっそり庭へ出て夜空を見上げました。

 澄み渡る南の宙空そらには、オリオン大星雲が光の翼を広げていました。

 航空目視に慣れた並外れた視力が、1300光年先の翼をも捉えるのでしょうか。

 月はありませんでしたが、星影が注ぐそう暗くない夜でした。少し離れた所で人の気配がしたので、私は静かに歩いて、その人影に近づきます。

「あら、眠れないのですか?」

 昌美さんが私の気配に気付いて振り返り、星影に照らされた笑顔を向けました。

「ええ、たまにあるのです」

 私は伸びかけの坊主頭を左手でなで上げると

「昌美さんもですか?」

「いえ、私は今夜は当直なので」

 当直か当直じゃないかは夜寝るか寝ないかの違いで、医師や看護師たちも同じ敷地に寝泊りしているのだが……

「今いる方達はみなさん静かなので、暇な時はこうして宙空を見に外へ出ます」

「そうですか」

 私たちは夜天光に照らされて、暫しの星降る時間を共有しました。

 彼女は立派な看護婦になりたいと言っていました。一人でも多くの人の助けになりたいと。

 私はと言えば、先の見えない……永遠に閉ざされるかもしれない将来を思い、それをひた隠しにして彼女の声に聞き入っていたのでした。

 誰かの命を奪う自分に、自分の将来を語る資格があるのでしょうか……

 星影を受けた大氣光は私たちの心にゆっくりと沁み込んで、二人の違う境遇の壁をすり抜けるようにお互いを引き寄せたのかもしれません。



「もう、大分皮膚が再生されてきましたね」

 二日後、私の右腕の包帯を替えながら、銃創をチェックする昌美さんが言いました。

 酷い化膿があった為、大分皮膚再生が遅れたようです。

「そうですか」

 私は静かに笑います。

 静かに笑うなんていう表情は、ここへ来てから思い出しました。静かになんていう行為は、飛行機の操縦以外無縁で暮らしていましたから……

「この分だと、来週には退院出来るかもしれません」

 彼女はそう言って微笑んで……微かに眉を潜めて俯きました。

「治ったら、また戦地へ行くのですよね」

「はい。私は戦闘機乗りですから」

 彼女の唇が、一瞬への字に歪み小さく震えました。でもそれはほんの一瞬の出来事で、昌美さんは再び視線を私に向けて笑います。

「そうですよね」

「はい」

「私も、いつか空から地上を見てみたいですね」

 彼女は窓の外へ静かに視線を向けます。

「見れますよ。何れ、旅客機がバンバン飛ぶと思います」

 その言葉で、彼女は再び私に視線を戻しました。

「旅客機? ですか?」

「普通の人が、旅行などの移動手段で乗る飛行機です」

「私も乗れるでしょうか?」

「もちろん、乗れますよ」

「じゃあ、何時か一緒に……」

「は?」

「いえ、何でも在りません」

 昌美さんは包帯を替え終わると、足早に他のベッドの所へ行ってしまいました。

 それから一週間もしないうちに、昌美さんが言った通り私は退院することになりました。

 あの日以来、彼女は黙々と仕事をこなすだけで、私との会話はほとんどありませんでした。 洗濯場へ行くと、手伝いの娘が一緒で声は掛けられませんでした。

 たおやかな陽に照らされて、同僚と涼しげに笑う姿をそっと目に止めるだけでした。

 私はここで静かに笑うことを思い出した代わりに、何時の間にか硝煙の匂いを忘れてしまいました。

 上空を行き交うゼロ戦の機影を見ても、心が逸らなくなりました。

 凍て雲が見下ろす空は、南海の湧き立つ空とは間逆で重苦しいものなのに、何故か暖かいのです。

 寒空とは逆に、ここの空気は優しいのです。







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