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4・志

 私が送られたところは、横須賀にある海軍病院でした。

 やはり戦線が広がる中で、負傷兵も確実に増えていました。

 それでも、負傷して戻るくらいなら死んで戦果を成し遂げよ。という体勢があったので、内地の病院へ送られてくる者はまだ少なかったと思います。

 特に、私たち飛行機乗りは落下傘を背負いません。もちろん、装備としての非常用落下傘は存在するのですが、機体を少しでも軽くする為に機内に持ち込まないのです。

 米軍の飛行機は墜落する直前にパイロットが飛び降りたりして落下傘を開きますが、日本軍の飛行気乗りは常に愛機と命を共有しているのです。

 だから、撃墜されたらほとんどが病院へは来ないし、遺体すら発見されません。

 帰還しなければ、戦死と言う事なのです。

 私の右肩は化膿していたらしく、腕全体が腫れていました。帰ってこなければ右腕を失っていたかもしれないと言われ、ゾッとしました。

 赤道に近い南国から帰還した本土はもう直ぐ冬でした。

 横須賀の海はバリやジャワのような淡い瑠璃色に輝いてはいなくて、黒々と荒涼に濃い藍色でした。

 今回私は幸い足が元気なので、暇を持て余しては大きな敷地を散歩ばかりしていました。

「白土、白土だよな」

 声を掛けられて振り返ると、斉藤雄一郎がいました。

 彼は九州から最初に大陸へ渡った時に一緒で、一年ほど戦場を共にした仲です。

「おお、斉藤。どうしてここに?」

 そんな事を言うまでも無く、彼は足にギブスを巻いていました。

「運よく助かってな」

 斉藤はギブスの上から自分の脚をコツコツ叩いて笑いました。

 横須賀の病院ではほとんどが看護婦でした。男子の看護師は戦地へ出たようです。私と同世代の年頃から母親の世代まで様々でした。

 同世代の女性と向き合うのは快かったのですが、とにかく注射が下手でした。

 それでも経験を積んで上達する工程を知っている私は、できるだけ痛い顔などを見せないように努めました。



 その日は朝から冷たい雨が降っていました。

 曇った窓ガラスに伝う雫は今にも凍りつきそうで、外の景色を白く霞ませていました。

 上空に高く上がると、飛行機乗りは頭七割とよく言われます。酸素が薄い為に思考力が30%ほど低下するのです。

 窓ガラスの外に煙る景色を眺めていると、その緩く滲む様がまるで頭七割になった気持ちになるのでした。

 そして、空の空気を思い出します。

 冷たく透明に澄んで、しかし火炎と硝煙の残臭が漂う蒼穹そらの匂い。

「白土さん?」

 聞き覚えのある声だと思いました。

 私はゆっくりと振り返り「ああ」と、なんと間の抜けた声を出します。

 薄暗い部屋に、僅かな光源の光を全て引き寄せたような白く輝く笑顔がありました。薄紅の唇が、白い歯を覗かせています。

「昌美さん……」

 私は思わず名前を呼んでいました。

 意識せずに出た言葉です。おそらく意識したら発しなかったでしょう。

 私の声を聞いて、昌美さんは頬を微かに紅くしたように見えました。

「名前、知ってらしたのですか?」

「は?」

「私の名前です」

「ああ、ええ。知っていました」

 ちょっと間の抜けた再会でした。

 忘れていたと思っていたけれど、忘れていなかったのです。

 内田昌美という名前を、私は無意識に口ずさむほど心の浅い場所に残して生活していたのでしょうか……?

「今度は戦地で?」

 昌美さんは心配そうに眉を潜めます。

「ええ、敵機の流れ弾を受けてしまいました」

 私はいささか陽気に答えました。

 心配そうに曇った彼女の顔が、たまらなく気の毒に思ってしまったのです。

 本当は流れ弾ではなくて、狙われたのですがそんな具体的な事はどうでもいいのです。

「そうですか……」

「もう、大分いいんです」

 私は右肩を無理に動かして見せました。

 関節の外側がじくりと傷みましたが、昌美さんはゆるく笑ってくれたのでそれでいいと思いました。

「じゃあ、また」

 彼女は私の血圧を測り終えると、そう言って二つ隣のベッドへ行きました。

 端のベッドまで血圧の測りを終えると、昌美さんは私に一瞬だけ視線をくれて、病室を出てゆきました。

 私は息をついて曇りガラスを手で拭うと、妙にスッキリとした意識で再び外を眺めました。

 雨に煙る景色はフィルターがかかったように枯葉の茂った木や草をしっとりと映し出して、冷たく潤っていました。





 私の腕の状態は私が思っていた以上に悪かったようで、脇腹のキズが快復しても右腕は吊ったままでした。

 斉藤の脚も治り、明日横須賀の部隊に戻ると言っていたので、まきストーブの横で一緒に甘酒を飲みました。

「俺も早く戻りたい」

 私は早く蒼穹へ上がりたかったのです。

 一度飛んだ人間は、地上に長く留まる事が出来ないのかもしれません。それは、船乗りが陸で暮らせないのとよく似ている気がします。

 斉藤を見送った日の朝、ゼロ戦の編隊が頭上を優美に通り過ぎました。横須賀飛行場に降り立つ部隊なのでしょう。

 私は澄み渡る空を仰いで、その姿を目で追いました。

 早く飛びたい。

 オイルと硝煙の匂いに、何故か思いを馳せるのです。





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