3・負傷
昭和十八年夏。
バリ島に進出した私たちの部隊は、好戦的に勢力を広げてゆきました。
その日はラマン航空基地を攻撃目標に、一八機のゼロ戦が飛び立ちました。
上空に黒い点が見えたのは、攻撃目標手前五十キロのあたりで、私たちゼロ戦部隊は散開して迎撃体制を取りました。
相手はP‐36カーチスです。
直ぐに迫ってきて、向こうは正面から機銃掃射をしてきました。
弾道に入らないように機首を上げ、機体をバンクさせます。
一瞬ですれ違った一機を標的に、私は操縦桿を倒して翼を立てたまま右旋回しました。
向こうも右旋回します。
しかし、ゼロ戦の方が旋回が速いらしく、P‐36の背中を拝む事が出来ました。
上手い具合に照準の真ん中に入ったので、私は7,7ミリと20ミリ機関銃を同時に発射しました。
操縦桿と機体がダダダダダと振動して、滑るような光の弾道が緩く弧を描きます。
パッと火炎と黒炎が出て、敵機はグルグルと回転しました。
機体をやや降下させて再び機銃を浴びせると、標的は火を噴いて羽根が吹き飛びました。
私は機首を上げて上昇旋回しながら、次の標的を探します。
三時の方向に敵機を見定めて、それに向って旋回しました。
その時、後から何かが飛んでくるのが見えたのです。
溶けかけた飴玉のような光が、素早く風防の横を飛んでゆきます。
振り返ると後ろに、一機のP‐36がへばりついていました。
私は左のフッとバーを思い切り踏み込んで、操縦桿を左に倒し、そして引き上げます。
機体をロールさせて主翼を立てて上昇する行為が、水平位置から見た旋回になるのです。
単発エンジンのプロペラ機はプロペラの回転の影響を受ける為、その回転方向への旋回が一番速いのです。
そしてやや降下する旋回がさらに速度を上げます。だから空戦では急旋回する度に、次第に高度を落とすのが常になります。
P‐36は旋回性能がそれほどではないと思いました。しかし、なかなか後から離れません。
機体の性能発揮は操縦者ありきと言う事でしょう。
再び発光弾の軌道がこちらに飛んできます。機銃の弾丸は大抵の場合、鉄鋼弾、炸裂弾、発光弾の順に装填されています。
今度は右のフッとバーを踏み込んで機体をスライドさせました。
少し上後方からの攻撃に対して、この回避行動が有効なことを私は知っていました。機体が真横にスライドする回避運動は、相手の目視の錯覚を誘発させるのです。
主翼の先を、スルスルと光の粒が飛んでゆきます。
私は再び降下旋回をして、何とか敵機を振り切ろうとしました。
相手が降下したのを見て、今度は急上昇です。操縦桿を力いっぱい引きました。
このまま小さいループを描ければ、敵機の後ろ上方に出る事が出来ます。
重力加速度が身体をシートにめり込ませます。
私が顎を突き出して上を見ると、既に地上に茂る艶やかな熱帯雨林の森が見えました。機体が逆さになっているのです。
その先にP‐36が見えました。上昇しきれずに、旋回を始めたところでした。
私は機体を水平に戻して7,7ミリ機銃を二秒間打ち込みます。照準には入っていませんが、権勢です。
左へ逃げるP‐36を追って、私の闘志が燃え上がりました。
スロットルでブーストを上げます。
照準機の真ん中に入った敵機に向けて、今度は7,7ミリと20ミリ弾を同時に打ち込むと、尾翼の破片が飛んで、胴体は火炎に包まれました。
しかし、戦闘空域では息つく暇もありません。
その時、右後方から機体に衝撃が起こりました。
何が起きたのかは、すぐに解りました。
再び敵機に狙われているのです。
後の風防が割れて身体に痛みを感じましたが、私は必死でフットバーを踏み込み操縦桿を倒してバンクを振ります。
高度はあまりありませんが、降下しながら旋回しました。高度は千メートルを切っていたと思います。
直ぐに逆向きにバンクを振り操縦桿を少し引き込みます。
降下速度の速いP‐36が私の下に入りました、
一端距離をとろうとした時、味方機が私を狙っていたP‐36を撃墜してくれました。
辺りを見渡せば圧勝でしたが、ゼロ戦も二機撃墜されました。
それでも、ゼロ戦二機の撃墜に対し、P‐36は十機撃墜。残りの五機は離脱して消えました。
しかし、そのままラマン航空基地を襲撃します。離脱したP‐36の残り五機には出会いませんでした。
降下して森の上スレスレに敵地へ侵入すると、航空基地の滑走路にはB‐17が三機見えました。
対空砲火はほとんどありませんでした。
低空飛行のまま交代で機銃掃射するとB‐17は三機とも炎上し、司令塔も壊滅させると作戦終了です。
自分の攻撃で誰かの命が消えることは考えません。そんな事を考えていれば、自分がやられてしまします。
正直お国の為……などと言う意識はあまりありませんでした。
戦果をあげることは、純粋に自分の成すべき事を遂げた達成感に他なりません。あとは、同僚を死なせない為、自分が飛び続ける為に努力するしかないのです。
基地に戻ってから気付いたのですが、私の脇腹を弾がカスっていました。右肩は弾丸が貫通して、飛行服の上着は血で真っ黒でした。
南国の木は青々と瑞々しく茂り、海の色は淡い水色でした。
バリ島にいた私の部隊は、航空隊ジャワ島集結の命を受けて移動しました。
あっと言う間の進出でした。
ある時米軍の輸送機が低空で接近し、そのまま着陸態勢に入りました。
みんなはまさかの行動に度肝を抜かれ慌てふためきました。
「打て打て!」誰かが叫んでいました。
みな、あまりの突然で大胆な出来事に攻撃を忘れていたのです。
陸軍部隊が機銃掃射を開始しました。
輸送機の慌てるパイロットの姿が目に浮かびます。
彼らは、あまりに速かった日本軍のジャワ島進出に気付かなかったのです。
何かの都合で緊急に着陸せざるおえない事態だったのかもしれません。
まだ米軍基地があると思って、悠々と着陸態勢に入ったように見えました。
いきなり機銃を浴びせられて気付いた輸送機は、慌ててタッチアンドゴー宜しくと、機首を上げてエンジンを唸らせました。
それはあっと言う間の出来事で、機影は瞬く間に小さくなって行きました。
滑走路の真ん中に車輪をひとつ落として……
「マヌケな奴もいるもんだ」と誰かが笑いました。
ゼロ戦航空部隊は何も出来ずにただその様子を、口をあんぐりと開けたまま見届けただけでした。
私はと言えば、先週の作戦で負傷し、肩と腰に包帯をグルグルと巻いたまま、静養を強いられていました。
南国の女性たちは肌の黒い魅力的な笑顔を燈す。緑に近い黒髪は、満ち溢れた生命力を感じさせるほどに力強く輝くのです。
私はそんな色黒の彼女たちを見ていると、何故か対照的な白い女性の笑顔を思い出すのでした。
内田昌美さん……ふと思い出しました。
航空部隊も増え侵攻範囲も大きくなった今、本土の病院はどのような状態なのか想像もつきません。
あののんびりとした陽射しの下で過ごした日々の中で嗅いだ消毒液の匂いは、硝煙にまみれた戦場とは対照的なのです。
何もかもが対照的な世界の中で、久しぶりに嗅いだ消毒液の匂いが彼女を思い出させたのかもしれません。
彼女の冷たい手のひらの感触が蘇えり、私の脚にムズムズと感覚を伝えます。
そして私は、再び本土へ帰る事になるのでした。
「白土幸夫二空曹は、内地勤務を命ずる」
私は内地へ戻って、軍病院で治療する事になったようです。他にも内地を離れて戦線生活が長い連中は、本土へ戻る事になりました。
半分は内地、そして残り半分は他の戦地へ行くのです。
ラバウル……これから最戦線基地になるであろう、ラバウルへ向う戦友に手を振って、私は同僚たちと輸送貨物船に乗り込みました。
桟橋から仲間が手を振ってくれました。
彼らが向うラバウルを私は知りませんでした。
その中で仲の良かった十数人は、二度と会う事はありませんでした。
戦時の話しは、事実のエピソードを元に構成していますので、史実の著書などでお目にかかった事柄が含まれている場合がありますが、全てフィクションとして取り込んでおります事をご了承下さい。