11・ともしびの果て
最終話です。
『私』の想い出は完結します。
秋は確実に深まっていました。
焼け野原の東京には紅葉に茂る樹木さえ乏しく、焦げて朽ち果てた並木の跡だけが点々と見えるだけでした。
それは瓦礫に埋もれ、よく見ないと見落とすほどです。
都心の国民学校は空爆の直撃を受け、生徒数百人と共に大地に没しました。学校のような大きな建物は、恰好の爆弾投下目標になったに違いありません。
それでも僅かな時間の経過と共に、人の息吹は蘇えり始めていました。
私は来る日も来る日も内田昌美という女性を探しました。
来る日も来る日も人の命を奪い、硝煙に塗れて飛んだ南海の暮らしを思えば、それは私にとって貴いことでした。
私は彼女を探す為に生きました。
戻らない日々を想うより、閉ざされなかった未来を私は見ていました。
彼女が見た未来に私も立つ事ができる。
それだけが私を支える朴訥な想いだったのです。
しかし私はふと考えてしまいます。
内田昌美などという女性は、本当は存在しないのではないかと。私が生き延びる為に想像した、私の中だけの幻だったのではないかと。
斉藤に手渡したお守りは、母がくれたものだったのではないかと考えて、記憶を辿っては彼女の白い温もりと、あの時の紅涙を思い出すのです。
私は蒼穹を飛びながら、幻想に苛まれていたのでしょうか。
そうでないのなら、何故昌美さんは見つからないのでしょう。
私は自分の罪を打ち消す為に、人の命を救う憂いで荘明な女性を造り上げ、斉藤の死の責任を彼女のお守りに託したのでしょうか。
私は何時彼女と出会い、何時別れたのでしょう。
どうせなら、私の目の前で灯火を消した斉藤も幻ならいいのに。いや、この戦争が幻だったなら……
しかしそんなはずは無くて、この焼け野原の大地は全てを物語っています。
そして私は確かに戦火の蒼穹を飛び、彩雲を潜り抜け大地を見下ろし、引き金を引いたのです。
喝采も賞賛もない、輝くだけの蒼い虚空の中で……
その冬、私は雪の降る東北へ行きました。母が疎開したまま住み着いた山間の古い集落は、樹木が生い茂り平和に満ちていました。
畑で採れる作物のおかげで食料には困らないらしく、寧ろ東京の人間より豊かな暮らしに映りました。
米兵の姿を一人も見かけない日本の風景が、私が母国にいることを強く指し示し自覚を促しました。
子供たちが野原を駆け回り、雪面には多くの足跡がありました。
父親は群馬の工場に住み着き、何れ母もそちらへ行く予定なのだと聞かされました。
当然のように私も一緒にと誘われましたが、私には使命があります。
それは既に、私の中で使命として個別の意志となっていたのです。
冬の野良仕事は大変でしたが、腹いっぱいの食事と暖かい布団は一時の静養に私を留まらせるには充分でした。
白化粧を施す山々の静寂した風景は、決して暗たんとしたものではなくて寧ろ昌美さんの静かで清楚な姿を思い出させるのでした。
キンと澄み渡る空気は、私の思いを遠く何処までも運んでくれるような気がしました。
雪どけが始まる頃、私は再び横須賀へ向いました。
再開した個人病院なども増えて、私は一軒一軒回って昌美さんの消息を訊いて歩く日々を続けました。
しかし、彼女の消息は判らないままでした。
彼女の実家である世田谷の米問屋も探しましたが、焼け野原の東京でそんな事は無意味でした。
何時の間にか私は横浜の工場で働くようになってそこに根を下ろし、月日だけが消えない想い出と共に時を刻みました。
米軍のGHQも撤退し、後に高度経済成長が日本を取り巻くと、戦後の復興は目まぐるしい勢いで発展を遂げました。
私は時の流れと共に人一人探すことに疲れ、私自身の人生を歩んでいました。
結婚はしませんでした。
新幹線が開通し、ジャンボ旅客機が上空を行き交う国で、私は朽ち果てていきます。
それでも彼女の想い出は薄れる事はなく、最近はより鮮明に思い出すことも多いのです。
おそらく、今入院しているこの病院の匂いが彼女の香気と折り重なってあの残像を蘇えらせるのでしょう。
白衣に包まれた白く輝く月光のように静かに微笑む笑顔を。
「白土さん。今日からお隣入りますよ」
朝の検温と血圧測定の場で、無邪気に笑みを浮かべる看護婦が言いました。
平和しか知らない幼さを残すこの娘の笑顔は、明るい代わりに深みと安らぎは無いように思えます。
それはきっと、私の偏見なのでしょうけれど。
昼になって、ガタガタとストレッチャーが私のいる病室に運ばれてきました。
隣とは、私の隣のベッドと言う事です。
四人部屋のこの病室には元々二人しかおらず、その一人は先週息を引き取りました。
隣人様は暫くカーテンで閉ざされていましたが、夕方になって開きました。
毎日見るクリーム色の変わらぬ風景の中で、窓から入る僅かな風と人の動きだけが空気を揺らすのでした。
私は隣の女性患者を見ていませんでした。
気配は感じていましたが、そちらに顔を向ける事は失礼千万だと思い、食事の時にでも挨拶を交わせばいいだろうと思っていました。
廊下を歩く足音が、パタパタと部屋の前を横切ってゆきます。
「白土さん……じゃありませんか?」
不意に声がしました。
私は天井を見上げたままその声を幻聴だと思いました。
何故ならあまりにも間近から聞こえたその声は、長年私が捜し求めていた声に酷似していたから……
「失礼ですが、白土幸夫さんでは?」
再び声がしました。隣のベッドからでした。
ゆっくりとした、穏やかに静かで通る声です。いや、私にだけ通る声で聞こえたのかもしれません。
私は枕に頭を沈めたまま、ゆっくりと振り向きます。
身体を起こして咄嗟に振り返る動作は、今の私にはもう不可能なのです。
視線は天井からゆっくりと部屋の壁を滑り落ちて点滴パックが見えた後、隣のベッドへ到達しました。
彼女も首だけをこちらに向けて、静かな笑みを私に向けています。
私の朽ち果てた顔をマジマジと見据えて彼女は
「帰って来てくれたのですね」
その静かな笑みの顔ばせの主が誰なのか、私にもひと目で判りました。
長い年月が彼女にも確かな年輪を刻ませてはいましたが、それは同じ時を刻んだ私には見えていなかったのだと思います。
澄んだ眼差しと安堵を導く静かな笑みは、あの頃と何も変わってはいません。
「はい……帰ってきました」
既に声は出せないはずの私の口が動き、確かに言葉を発しました。
昌美さんは小さくゆっくりと枕の上で頷きました。
あの時と同じように紅涙の雫が一筋、彼女の瞳から零れ目尻を伝います。
窓からか入る風が、西陽に照らされた白いカーテンをゆっくりと揺らし時間は静かに、私がゼロ戦に乗っていた時の10分の1ほどの速度で緩やかに流れていました。
遠い日々の熱い風が、硝煙の匂いを脳裏に運んできます。
あの頃の記憶の中で硝煙の匂いは、消毒液の匂いと表裏一体なのです。
三日後、私は彼女に見取られています。
意識が遠くなる中で、視界には彼女の優しさに満ちた愁いな顔だけが映っていました。
家族のいない私には、見取ってくれる者などいないと思いました。
しかしそれは、斉藤やあの時散っていった多くの仲間と同じなので、特に悲しくはありませんでした。
長い静養を終えた老兵が、ただ仲間のもとへと帰るだけです。
私は朽ち果てる最後の瞬間で、彼女を見つけることができたのです。
彼女がどんな人生を歩んだのかは判りません。
誰も見舞いに来ない様子を見ると、もしかして昌美さんも一人だったのかもしれないし、幸せに満ちた暮らしの終末、ご主人は先にに亡くなっているのかもしれません。
そんな事はどうでもいいのです。
ただ見つめるだけの、水面に映る月のようなあの瞳の愁いは、私の帰りを待ち続けていたのだと思います。
彼女が握る私の手から、あの時と同じ冷たい安らぎが注ぎ込まれて、私はそれを感じるだけで充分に満たされるのです。
遠い日の回想が脳裏から薄れて灯火は小さく揺れ、細く静かに……三日月が息を潜めて山の向こうへ沈むようにゆっくりと、私は消えます。
私は、消えゆく光彩の中で再びあの音を聞きました。
生死を一瞬で分け隔てたあの音。
陽光の煌く熱帯の静けさを高々と駆け抜けた音。
スタンレー山脈の頂まで響いた、あの玲瓏なる鈴の音を。
― 了 ―
最後まで読んでいただき、ありがとう御座いました。