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10・郷愁

「斉藤、これを持ってゆけ」

 チリリン……と微かに音が鳴ります。

 私は横たわる木の幹に身体を擡げたまま、胸のポケットから昌美さんにもらった山吹色のお守りを取り出しました。

「これはきっとお前を守ってくれる。持ってゆけ」

「それはできん。それは、貴様の物だ」

「俺にはもう必要ない。持ってゆけ」

 私は静かに笑いました。

 昌美さんと交わした、あの静かな笑みでした。

 旭日を受けて緋色に染まる蒼穹そらが、艶やかに深い緑の木々に溶け込んで生命の息吹を滲ませていました。

 私たちは他の気配に気付きませんでした。

 少しずつ目覚め始めた森の囀りに、別れを承諾させる最後の会話に夢中で、警戒を怠ってしまったのです。

 私の意識が朦朧としていたせいかもしれませんし、斉藤は私に気をとられていたのかもしれません。

「なら、これを昌美さんに返してくれ……思いに応えられなかったと伝えてくれ」

 斉藤は、ようやく私の手からお守りを受け取りました。

 それを強く握り締めて「わかった。この約束は成し遂げてやる」

「鈴の音に気をつけろよ」

 私は再び声をかけると、誰にも見せた事のないような優しい笑みを浮かべました。

 こんな時にこんなにも優しく笑える事に、私は驚きました。

 これが、悟りというものなのでしょうか。

 森の陰影が色濃くなってきました。確かな陽射しが登り、地上を照らし出した証です。

 斉藤が静かに私から離れようとした時、周囲に人の気配を感じました。

 同じく何かを感じた彼も、私の数メートル先で反射的に身を屈めます。

 私は力を振り絞って辺りの気配を探りました。

 いる……何人かは判りませんが、かなり大勢がこの周囲を囲んでいるのがわかりました。

 雑木の隙間から僅かに見える斉藤に、私は目配せしました。

 ……俺がお取りになる……だから、お前は行け。

 生きて帰れ。

 私は木の幹に寄りかかったまま、ズルズルと身体を起こして立ち上がろうとしました。

 森の空気は静まり、不気味な人の気配だけが周囲を取り巻いていました。

 何処かから私の姿が見えているだろうか。

 私は腰の痛みを堪えて木の幹に寄りかかり、無事な左腕を小さく上げました。

 その時、チリリリン……と音が鳴ったのです。

 不気味な静けさに、それは明らかな人工の音として響きました。

 ほんの小さな鈴の音が、まるで蒼天に抜けるほどはっきりと響いたのです。

 銃声が三発轟きました。

 その音に驚いたのか、バサバサと鳥が飛び立ち、辺りで草木が激しく揺れました。

 私は、斉藤の頭が雑木に沈んでゆくのを微かに見ました。

 何時の間にか私は木の幹の傍に倒れていて、斉藤の姿を確認する事は出来ませんでした。

 しかし撃たれたのは私ではありません。

 遠のく意識の中で、私は異国の言葉を耳にしました。

 生い茂る木々の隙間から見える蒼穹は遠く、もう手が届かないのだと思いました。



 * * *



 私は米軍に捕獲されて手当てを受けました。

 二日後に目覚めた私は腰の怪我が酷く、治療には大分時間がかかりました。

 年が明けると、私はポートモレスピーにある病院から、バリへ運ばれました。

 その年の夏、戦争は終わりました。

 私の記憶は、目の前で倒れた斉藤の姿で止まっていました。

 人の記憶と言うのは不思議な物で、異国の敵兵に囲まれた過酷な捕虜生活よりも、斉藤にお守りを渡して別れを告げたあの瞬間の記憶の方が遥かに鮮明で、私の心から色あせる事が無いのです。

 生きようとした彼は銃弾に倒れ、諦めた私は生き残りました。

 私がお守りを渡さなければ、彼は生き残れたのだろうか。私の方が死んでいたのでしょうか。

 斉藤には妹と弟がいると聞いていました。

 戦争とは理不尽の塊で、些細なボタンのかけ違いが運命を左右します。しかし私はその運命を恨んだり嘆いたりしませんでした。

 私が飛ぶ傍らで、幾つもの命が消えてゆく様を見ていたせいかもしれません。

 あと数センチの差で撃墜された連中を、何人もこの目で見てきました。そしてそれは、敵機にも言える事なのです。





 私が本土に帰ったのは、乾いてささくれ立った風が吹き始める十月の終わりでした。

 大空襲を受けた本土は、様変わりしていました。広島と長崎に原子爆弾が投下された事は、終戦後に知りました。

 陸・海軍基地は米軍に引き渡されて、日本国軍は事実上の解体です。

 東京に降り立った時、私は途方に暮れました。

 何処に行けばいいのか判りませんでした。

 母親は東北の実家に疎開して、戻ってはいませんでした。私は母の元へ行こうと思いましたが、どうにも心にひっかかることがありました。

 内田昌美……彼女はどうしているだろう。本土空襲のさなか、彼女はどこで人命を救っていたのだろうか。

 母親には手紙を書き、私は横須賀に向いました。あそこへ行けば何か判るかもしれないと思ったのです。

 横須賀の海軍基地は米軍に引き渡されて駐留基地に変わっていました。

 海軍病院は国立病院とされ、一般の診療を始めていました。

 私は内田昌美さんを探しました。

 『どうか、無事に帰って来て下さい……』彼女が言った言葉。

 帰って来ました。私は帰ってきました。

 あの時私は答を返しませんでした。しかし、さよならの言葉も言いませんでした。

 心のどこかで運命に抗い、再びあなたに逢う事を願っていたのかもしれません。

 私は帰って来ました。生きて帰って来ました。

 あなたのくれた、鈴の音のおかげで……






次回、最終話です。

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