思うままに、クロ
今朝、変な生き物が降ってきた。夏が始まる一歩手前のことだ。ぬるりと染み出すように自室の天井から出現したそれは、真っ黒の塊だった。
「む、む、む」
黒い塊は低音で鳴いた。抱えられる位の大きさである。光に透かして見ると宇宙が中にあるようで、よく分からない何かが渦巻いていた。
「む、む、む」
「お前はどこから来たんだ?」
「む、む、むむむ」
俺はスライムのようにゆっくりと動くそれを、クロ、と名付けた。出会ったばかりのクロに、興味を惹かれペットとして飼う事にした。
「クロ。お前の名前だ」
「む」
「母さん、おはよう。俺、こいつを飼うから」
朝食を食べに行くと、母は祖母を椅子に座らせているところだった。
「何を飼うって?」
母は見えていないようで、不思議そうな顔をしていた。
「早く食べてしまいなさい。学校に遅れるよ」
そういえばクロは何を食べるのだろうか。俺は朝食のウインナーを一本与えてみた。すると、ゆっくり触手のようなものが伸びてきて、ウインナーを取り込んだ。一応食べたのだろうか。
クロは少し動いてまた俺の足元で触手を伸ばした。今度はレタスを与えた。どうやら雑食らしい。
「上手いか?」
「むむ」
よく分からなかった。クロは十分なのかリビングをぬるぬる歩いて、祖母の体に張り付いた。
「ばあちゃん、大丈夫?」
祖母は答えなかった。祖母は耳がほとんど聞こえなく、認知症も進んでいる。いつも窓から外を見ていた。
俺は手早く食べ終え、祖母からクロをひき剥がし、高校へ行く準備をした
「クロ、ばあちゃんは食べ物じゃないよ」
登校中、クロに注意する。しかし、分かっているのか疑問である。クロは後ろをついて来ていた。よく見ると道端に落ちている死骸を食べていた。主に虫。もっと大きなものも食べるだろうか。
「む、むむ」
心なしか喜んでいるような気がする。大きめの蛾を食べた時だった。
一週間ほど観察するとクロの生態が分かってきた。まず、雑食である。肉、魚、野菜はもちろん虫なども食す。それと道端に落ちていても関係ない。むしろ、喜んでいる様だ。生食の方が好きなのかもしれない。
たまに生きている人や動物に張り付く。食べたりしないが、どういう意味があるのか不明。俺はその度に傍から見れば不審な行動をしなければならなかった。なにしろ他の人には見えないのだ。だから、引き剥がす時はそっと気付かれないように努めるのだった。
その他、目、口、鼻、耳などはない。物を感じる器官は見当たらない。身体全体が感覚器官のようである。
クロとの生活に慣れた頃、祖母が亡くなった。朝、母が祖母の寝室に行った時には、既に意識が無かったらしい。唐突の死であったが、葬式は手早く進められた。
「ばあちゃん、お前の事可愛がっていたな」
父はそう言い、涙を流していた。
確かにそうだった。母方の祖父母は俺が四歳の時に亡くなって、ばあちゃんといえば家で同居している父方の祖母の事だった。よく遊んでもらったり、おもちゃを買ってもらった。祖母の認知症が酷くなったのはいつだったろう。
家には多くの人が来た。元々、親戚が多かったらしい。知らない人が多分に居て、気が滅入った。
坊さんがやって来て、高低のある調子で御経が唱えられる。座敷の間で始まった葬式は、次第にすすり泣く声に支配されていった。
急に吐き気がした。気持ちが悪い。原因を探ると、この雰囲気のせいだった。皆、故人を悼む。綺麗に化粧を施された祖母。花や遺影を飾った祭壇。煙たい線香、御焼香。御経と泣き声の音楽。どこもかしこも彩られている。
これが死なのだろうか。おかしい。不思議と悲しくない。ただ、違和感だけが大きくなる。ざわざわと、せり上がって来る。
「むむむ」
クロが祖母の棺に近付いた。遺体を食べる気だろうか。それはいけない。
しかし、臭いを嗅ぐ素振りをしただけで、何も行動を起こさなかった。
「む」
クロは俺の膝へ乗った。動きが鈍い。線香の煙が苦手らしい。それにしても、生ものだろうに食べない。まあ、急に祖母が居なくなったら騒ぎになる。
その後、つつがなく火葬に移った。火葬場は町を離れた山の麓にあった。
「それでは、最後のお別れを」
祖母は棺に入れられ、花や生前大事にしていた物と共にある。
俺はクロと一緒に、祖母が焼き上がり骨になる間、周囲を散歩した。
森林に囲まれ、どこかで鳥が鳴いている。ふらふらと、農道に出る。脇には水路があり舗装された道路は端がひび割れていた。
「クロ、ほら」
死体を見つけた。蛇だった。上にはハエが何十匹も止まっている。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ……
羽音が幾重にも層をなし、背筋か寒くなる。だが、なぜか違和感を覚えない。
俺は今日、二つの死を目の当たりにした。一つは祖母、一つは蛇。これらの違い。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ……
蛇の体は、ハエ達に食われている。死んだからだ。祖母は、燃やされている。死んだからだ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ……
道端の食事会は、死を死として自然の摂理に適ったやり方で葬っている。死ねばまた食物連鎖の輪へ帰って行く。祖母も帰るのだろうが、それを生きている者達が繋ぎとめる。思い出を残し、死者の美談を語り、誰も悪口を言わない。知っている人がいなくなるまで続く。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ……
「む、む、むむむ」
ぶぶぶうぶ……
羽音が止んだ。クロがハエごと食べてしまったからだ。
「うまいか?」
「む」
クロは短く鳴いた。
学校で自習時間があった。祖母が亡くなって、一カ月が経とうとしていた日だ。
外では蝉が鳴き、クロはアリやミミズ、蝉の死骸をよく食べていた。
「おい、的当てしようぜ」
誰かが言った。見る見るうちに五人ほどのグループが作られ、的当てが始まる。的は気弱な一人の男子生徒だった。止める者はいない。皆、どこかで楽しんでいる。だから、傍観している。
「や、やめてう」
口を開いた時、ちぎった消しかすが上手く入った。的となった男子生徒は不味そうに吐き出す。
次第にエスカレートし、顔に円が描かれた。一応水性らしい。
「何で、こんなこと」
泣き出した。しかし、彼が助けを求める事はないだろう。気が弱いから、遊んでいるだけだよね、と言われれば黙ってしまう。誰からも見て見ぬふりをされる。仲が良いもんな、これで覆い隠せる。素晴らしき友情。
「リアクション、面白すぎ」
そう、彼は面白いのだ。だから、自然と周囲に人が集まる。
俺は夢現の中、そう思った。果たして本当の事かは知らない。独自の考察を入れたまでだ。本人達は別の事を考えている事もある。
ふと思い出したのだが、クロは的になっている彼にも、くっ付いていた。確か、引き剥がす時、ビクビクと怖がられたのを覚えている。
「もう、嫌だよ……」
彼はそう言った。
実は彼とよく会話する仲である。なぜだろう。
「そう」
「死にたい」
「勝手にどうぞ」
言葉にする人は十中八九、自殺しない。不慮の事故にも意外と会わない。本当に死にたい人は口に出さず、ひっそりと死ぬ。だから、まさか学校の屋上から飛び降りるとは思っていなかった。
彼は俺の目の前に落ちてきた。放課後の事だった。クロは隣でネズミの死骸を食べていた。
この学校の屋上は閉鎖されているはずだが、どうにかして開けたのだろう。彼はかなり本気だったのか。すると、彼との最後の会話は、死にたい、となったのか。彼は止めて欲しかったのかもしれない。
「そうだったの?」
反応はない。
右腕が不自然に曲がり、額からは止めど無く血が流れ出す。
彼も祖母のように飾り立てられるのだろう。勝手な思い出付きで、良い生徒でしたなどと言われ、生者の涙で覆い尽くされる。
「む、む、む」
クロが彼に近付いた。興味を示している。
「食べるの?」
「むむむ」
一旦、クロを取り押さえる。彼の右ポケットが異様に膨らんでいたからだ。もしかすると、遺書かもしれないので取り出す。乱雑に詰め込まれたそれは、ノートを三枚破ったものだった。一杯に書きなぐってあった。一枚は俺に宛ててだった。
実は、彼に呼び出されて人気のない校舎裏にきたのだ。このような意図があったとは。
「クロ、食べちゃだめだ。彼はちゃんと死にたいって。イジメられた奴らに復讐したいんだってさ。ほら、一人残らず書いてあるよ、名前が。俺はどうするべきかな? やっぱり、誰かを連れて来た方が良いよね?」
「むむ」
クロは大人しかった。
とりあえず、職員室に行き担任に知らせた。担任はひどく取り乱していた。女性で、普段は雰囲が穏やかなので、その落差は大きかった。あまりにショックだったのか、担任は保健室に連れていかれ、代わりに別の教師が対応した。
結果的に、彼は死んではいなかった。手当が早かった事と、地面が湿っていた事が、彼が死ななかった原因だそうだ。
幾度か多くの大人に話を訊かれた。面倒だったが、一応本当の事を話した。彼がイジメを受けていた事、放課後呼び出された理由、うんぬんかんぬん。
「どうすべきかしら……」
担任は疲れ切っていた。彼の両親への謝罪、原因追及、今後どうすべきかの検討。
「さあ」
「先生は大変ね」
まだ若く、経験に乏しいのだろう。生徒の前で、それを言うのはどうかと思う。だが俺は聞き流した。確かに疲れているのだろう。
「あまり無理をしないでください」
それだけ言った。
担任が俺を彼の友達だと思ったらしく、何度かお見舞いに行ったかどうか訊かれた。
「これが病院の地図と、病室番号ね」
行く気は微塵もなかったが、近くに用事があったので、ついでに立ち寄った。その時、彼は飛び降りて数日ぶりに目を覚ました。
彼は顔に擦り傷があった。曲がっていた右腕にはギブスがはめられている。
「人を呼んだ方がいいね」
コールボタンを押そうとした。たまたま彼一人だったのだ。
「まって」
「何?」
クロが空を飛んでいた。ふわふわと浮いている。
「学校はどうなっている?」
彼は冷静だった。
「そうだね……。君の書いた遺書を元に、ごたごたしている。まあ、俺も正直に言ったし。停学じゃない? あの人達」
「そっか」
彼はほくそ笑んだ。気味が悪かった。
「ねえ、君は死ぬ気あったの?」
彼は間髪いれず答えた。
「あったよ」
「今は?」
「どうだろ」
クロが彼の肩に座っていた。
「死なないの?」
「え?」
俺は彼に近付いた。
「失敗したね。けど、今度は成功すると良いね。手伝ってあげるよ」
彼の首に手をかけた。幸い、彼は個人病棟。邪魔をする人がいない。
「クロに食べさせてみたいんだ」
「う、くあ」
彼は目が飛び出さんばかりに瞼を開き、口から泡を吐いて、俺の腕を掴んでいる。赤くなって、紫になって。次第に抵抗の力は弱まり、俺は呼吸が荒くなる。
興奮していた。
この手のひらに感じる鼓動。自分の意思一つで消したり、生き延びさせたり出来る。暖かい命。愛おしく、馬鹿らしく、脆く、儚い一度きりのもの。
馬乗りになり、彼は抵抗を許されなかった。
良いじゃないか、彼は死にたいんだ。
「クロ、食べな。彼は復讐しても、しなくても死にたかったんだ。そう言っていただろ。元々、遺書が無かったら、クロに食べてもらうつもりだったし」
彼は最悪の死に顔だった。穴という穴から排泄物が漏れ出し、舌も目も引っ込まない。
「臭い」
「む、むむ」
クロは彼を飲み込み始めた。体積が何倍にもなり、すっぽりと彼の体を覆う。あっと言う間に、黒い塊がベッドの上に形成される。二三分内側で、もごもご、聞こえたが静かになった。
「むむむむむ」
食べ終わったのか、クロが元の大きさに戻った。彼は居なくなっていた。
「美味しかった?」
「むむむ」
喜んでいるように見える。黒い塊が小刻みに振動していた。
「むむむむむむむむむむむ」
何かの信号のようだった。クロを抱きかかえ、病棟を出た。しばらく俺も振動していた。
するとクロが脱皮した。皮は薄くて布の様な手触りだ。クロは一回り大きくなり、皮は残さず食べる。人間はかなりの栄養があったのか。
「ほら、起きなさい」
肩を揺すられた。繊細な女性のか細い手の様だ。
「あれ」
学校の教室に居た。どうやら授業中に眠ってしまったらしい。ただ、優しい事で有名な英語教師だった。加えて担任である。見逃してくれるだろう。
「ほら、シャキッとしなさい」
それだけだった。
「では、次のページを」
授業が再開された。
クロが黒板の隅にいた。教室を見渡している。
はて、何か夢を見ていた気がするが思い出せない。体に熱っぽさが残り、叫んで全力疾走したくなった。
「むー、むー、むー」
クロが聞いた事のない鳴き方をした。彼を食べた時もおかしな動きだった。
「むー、むむむむむ」
そういえば彼が居なくなった事に、誰も違和感を覚えないようだ。むしろ忘れているように思える。
「うお、きも」
窓際の生徒が言った。窓一面にイナゴが張り付いていた。
このところ、世界各地で異常事態が起きていた。豪雨、積雪、日照り、動植物の大量発生。
明らかに、地球全体がざわめいていた。クロが振動するように。
「むむむむむむむ」
クロが先導しているのか、それとも釣られているのか、日を追うごとに不可解な行動が増えていた。
加速して飛んだり、グルグル回ったり、俺の食べようとする物を勝手に食べてしまったり。
それは気温が下がり、雪が舞い始めるまで続いた。
相変わらず、世界は狂っていた。昨日は気温が十度程だったが、一気に氷点下まで下がる。未だ気温が二十度を下回らない国もあるらしい。その国は例年だと、雪が降っても、おかしくない温度まで下がるというのに。
「む、む」
クロが腕の中で暴れる。
「どうした?」
「むむむ」
空が震えていた。灰色の雲に埋め尽くされ、寒々しい景色がひび割れようとしている。
「むー、むー」
「おお」
クロが飛び立った。俺の頭上で旋回する。
俺は近くの公園に来ていた。
「むー、むー、むー」
クロの上にある雲が渦を巻き始める。雲の中では雷が発生しているようだ。時折光と轟音が確認できる。
「むー、むむむ」
旋回したり、振動したりを繰り返すクロ。それには何の意味があるのだろう。
「むむむ、むー」
「寒いから帰らないか? クロ」
鳥肌がたち、身を震わせた。
「む! む!」
急にクロが強く鳴く。
「あ、れ?」
渦巻いていた雲の中心に穴が開く。
「なんだクロ、これを待っていたのか」
「むむ」
クロは俺の頭の上に乗っていた。
光が差し込んだ。柱のように俺とクロを照らす。
「綺麗だな」
そして、大量のクロが下りてきた。沢山のクロが四方八方に散り、とんで行く。厳密に言えば、クロ、は頭に乗っている奴だけなのだ。
あれはクロの仲間。
「他の人達もペットにするのかな」
「む」
クロは疲れ切ったように鳴いた。
「どうして、殺したの?」
あの彼が俺の部屋に座っていた。だが、知っている。これはクロの新しい芸だ。取り込んだ物を再現できる。このところ、クロが頻繁に彼となって表れるのだ。
「だって、死にたかったんだろう? だから、別に殺したって構わないはずだ」
彼は俺のベッドに寝転んだ。
「いやいや、死にたくなかった。何故君に殺されなければならないんだ。馬鹿らしい。勝手にやってしまって、おかげでこの有様だ。君も早くこっちに来なよ。気に入らない。君がそうやって生きている事が我慢ならないんだ。当り前だろう? 不当に君に殺されたんだ。加害者を恨むのは当然の事だ。ほら、何か言えよ。黙っているんじゃない!」
彼はベッドの上で跳ねた。
「止めてくれよ。ベッドのスプリングが壊れる」
「やだね。ぶっ壊してやるよ!」
ますますベッドは軋む。彼は跳ねすぎて天井に頭をぶつけた。
「ははは、ぶつけてしまったよ。痛くない。死んでいるんだもの! 痛くない! あはははは!」
狂ったように笑い、頭をぶつけ続けた。
「あはははは! あはははは! あはははは! 傑作だよ。君も早く来い! 楽しいぞ」
いつまで彼は居座るのか。唾が飛んできて甚だ不快である。
「早く帰ってくれ」
「やーだ。君を困らせるんだ」
「消えてくれ!」
思はず声を荒げてしまった。
「死にたいから自殺したんだろ。だったら、最後まできちんと死なないとダメだろ。甘い事を言っているんじゃない。死ぬなら死ね! 死んでしまえ!」
近くにあった単行本を投げた。本は彼の体をすり抜け、後ろの壁に当たった。
「死ぬ気はなかったさ。ちゃんと計画まで立てたのに。君が来るようにしたり、死なない様な落下点を探したり。まさか、あそこまで傷を負うとは思わなかったけれど、死ぬ事はなかった。君が殺してしまったんだ」
薄気味悪い笑みが迫る。彼は俺の眼前に迫り、生臭い息がかかった。口角に唾液が白く固まっていた。
「黙れ!」
彼を渾身の限り殴り飛ばした。意外にも拳は彼の頬を捕らえ、鈍い痛みが伝わってくる。殴る方も傷を負うのか。
「痛いなあ。あまり怒らないで。調子に乗り過ぎたよ。……じゃあ」
彼はクロに戻った。
「むむむ」
そうか、クロを殴ってしまったのか。
「ごめん」
「むむ」
クロを撫でた。
何度か脱皮を繰り返してかなり大きくなっていた。もう、抱えられない。
「お前はこれからどうするんだ?」
「むむむむ」
相変わらず、よく分からない奴だ。
もう世界が終わるのではないだろか、と少々恐怖に駆られるが、何故だろう、心が安らぐ。
天からやって来たクロの仲間は、各人々のペットになったようだ。
……いや、違う。殆ど持て余してクロの仲間の影に怯えている。多くの人々が普段通りの生活をしようとしない。無気力に家に居る。
「クロ、お前は楽しい奴なのにな」
「むむ」
「それともお前の仲間は怖い奴らなのか?」
「むむ」
鳴き声の意味が理解できない。
「母さんも、父さんも寝てばかりだし。ああ、腹が減った」
どこかに買い物でも行こう。
「お前も何か拾って食べるといい」
俺とクロは近くのスーパーへ出かけた。途中、人っ子一人いない。
平日だが、学校が機能しないので家に居るしかなかった。生徒も教師も皆、来ないのだ。
「大げさだなあ」
この分だと、どこの店も開店していない事もある。
「宇宙人なのか? だからって、やる気を無くす必要はないのに。仲良くやろうよ。結構、愛嬌もある。餌だって、そこらへんに落ちているのを、勝手に食べるから手間がかからない」
独り言は空しく消えていった。
「むむむ」
クロが驚いたように鳴く。
目の前に担任の英語教師がいたからだ。
「あら、こんにちは」
先生はそう言った。頭にはクロの仲間を乗せている。クロより小さかった。
「どうも。先生はお散歩ですか?」
「ええ、この子が出たいと言うから」
先生はそれを撫でた。
「何という名前なのですか?」
「プルよ。プルプルしているでしょ?」
プルは若干震えていた。
「あなたのは?」
「俺のはクロと言います。黒いでしょ」
「大きいのね」
「ええ、沢山食べますから」
「いいなあ。何を食べさせるの?」
「死骸とか。大きければ大きい程いいです。例えば、人間とか」
先生は別段驚く様子を見せなかった。
「へー、そう。あ、近所に死にそうなおじいさんがいたわ。あの人にしましょう」
「ああ、でも葬式をやると食べませんよ」
「詳しいのね。気を付けるわ」
先生はスキップしながら、どこかへ行ってしまった。
「俺らも行こうか」
「む」
静かだった。ひたすらに静かだった。こんなにも、空が綺麗なのを見た事が無い。最高の世界だ。
「なあ、クロ」
「む」
「頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」
「む」
同意したと見なして話を進める。
「俺が死んだらさ、すぐに食べても良いから。葬式はいらん。誰からの記憶からも抹消してくれ。あいつと同じ様に。そして成長するんだ。他の奴らを飲み込むくらいにな。……約束だぞ」
「むー、むー」
遠吠えをしているようだ。誓いの雄叫びと解釈する。
「立派な返事だ」
クロを抱きかかえ、つくづくと眺める。酷く愛おしい。
「さあ、行こう。何を食べようか」
クロが居る。それだけで、生きているのが素晴らしく感じられた。ああ、きっとどこの誰よりも俺は幸せだ。