08.Please,once again
「───杜村くん、入ってもいい?洗濯物取り込みたいんだけど」
燈一朗を見送り、夕飯の支度をある程度終えた小夜湖は、洗濯物を取り込み忘れていることに気付いた。
文都は今日もらった台本を必死に読みふけっていた。この時の文都に家事を頼んでも何もしてくれない。
仕方なく、二階の部屋で唯一ベランダのある両親の寝室に来たのだが。
「…?」
中にいるはずの虹から返事が返ってこない。
「入るよ…?」
寝ているのだろうかとドアを開けると、ごつんと何かが扉に当たった。
「!?」
ドアのすぐ近くの床で、虹が寝転がって爆睡している。小夜湖はそーっと部屋に入り込み、ベランダに出た。
手早く洗濯物を取り込み始めるが、虹が目を覚ます様子はない。
「……」
洗濯物を全て取り込み終えて、小夜湖は洗濯カゴを片手に、虹の横に膝をついた。
小さく体を折って横になる虹の眉間に、深いシワが刻まれている。若干茶色がかった髪を撫でると、まぶたがぴくりと動いた。
「杜村くん…?」
虹の瞳が薄っすらと開き、そこから涙がこぼれる。さまようような彼の手が、小夜湖の左腕をつかんだ。
「ごめん…なさい……」
「??」
うわ言のように、虹は何度も謝る。何に謝っているのだろうか。
「杜村くん、陰陽師の人なら帰ったよ」
小夜湖は右手でカゴから乾きたてのタオルを取り、虹の涙を拭った。
「…?」
虹がゆっくりと目を開けて、小夜湖を見る。
「明日は杜村くんの家に行くって言ってた。杜村くんに取り憑いてる妖怪、祓ってくれるのかな」
「……」
虹は気だるげに体を起こし、 小さく唇を動かした。
「いらない」
「え?」
「祓ってほしいなんて、思ってない」
虚ろな目は、どこか遠くを見つめていた。
「これは、八雲の霊だから」
「霊?」
「俺をかばって死んだ八雲の、恨みだ」
「……」
そんなことない、そう言いたかった。けれどこれ以上は安易に踏み込んではいけない。
「…夕飯、もうすぐできるから降りてきてね」
小夜湖はそれだけ言って立ち上がり、部屋を後にした。
夕飯ができて数分、絶対に降りてこないと思っていた虹がリビングに現れた。
「杜村くん!」
小夜湖は驚いて立ち上がり、急いで虹のご飯と味噌汁を注ぐ。
「……」
ダイニングテーブルに座った虹は、向かいに座る文都を見て首を傾げた。普段は気さくな彼が、まるで虹に気づいていないかのようなスルーっぷりである。
「あ、台本もらってすぐはだいたいこんな感じだから」
「あぁ、そうか、仕事…」
小夜湖が説明すると、彼はすぐに納得した。どうやら文都の俳優業については説明しなくても知っているらしい。
小夜湖は虹の前に、お茶とごはん、それから味噌汁と焼き魚を置いた。
「いただきます」
虹は礼儀正しく手を合わせ、食事を始める。いつも何も言わないが、口には合っているのだろうか。
(大丈夫かな、いつも完食だし)
今度、好物を聞いてみようと思った。
夕飯を終え、小夜湖は洗い物に取り掛かる。文都はさっさと自分の部屋に戻ってしまった。
「露里」
シンクの前で腕まくりをした小夜湖に、同じく腕をまくった虹が歩み寄る。
「俺がやる」
「えっ、いいよ、杜村くんはお客さんなんだし」
「…俺にも何かさせてくれ」
「……じゃあ、洗い物お願いしようかな」
捨てられた犬のような表情で言われ、小夜湖は断ることができなかった。
虹に洗い物を任せて、部屋の隅に置かれた洗濯カゴを持ち上げる。リビングの床に座って、洗濯物をたたみ始めた。
吐息は聞こえない、けれどお互いの物音は聞こえる。微妙な距離で、虹と小夜湖は言葉を探した。
「あ、そうだ。杜村くん」
小夜湖が声をかけると、虹は顔を上げる。
「好きな食べ物、教えて欲しいな。今度つくるよ」
「……」
虹は少しだけ、迷うように視線を泳がせた。
「…焼き魚。特に塩サバ」
「!!」
塩サバというとついさっき、夕食に出したばかりだ。
「うまかった」
それだけ言うと、虹は視線を食器に戻して洗い物を再開する。
「…いっぱい焼くね!」
「いや、量は普通でいい…」
嬉しくて、小夜湖の口元が自然と緩んだ。思った以上に喜ぶ彼女に、虹も自然と微笑む。見られてしまうのは恥ずかしくて、虹は下を向いた。
「…なぁ、露里」
「ん?」
下を向いたまま、虹がぽつりと小夜湖を呼ぶ。
「さっき、ごめん。変なこと言った」
「あ…」
とっさに返答が思い浮かばず、小夜湖は手を止めた。なかったことにしてしまおうと勝手に思っていたが、虹は相変わらず律儀だ。
「夢を、見たんだ」
いい夢でないことは、先程の彼の寝顔から十分にうかがえた。
「八雲の夢だった」
洗い物をする水音に混じって、虹の小さな声が部屋に響く。虹は夢の内容をかいつまんで小夜湖に話した。八雲がどんな人間だったか、どんな最期を迎えたのか。
話すことで、記憶から少しでも薄れてくれればいいのに、そう思った。けれど言った後で後悔した。
「そっか、杜村くんはお兄さんが亡くなる瞬間を見たんだね」
気づけば、小夜湖の瞳から涙が溢れていた。
「!?…ご、ごめん!」
虹は急いで水を止め、手を拭いて彼女に駆け寄る。
「ごめ、なさい…私、っ…」
堪えようと歯を食いしばっても、止めどなく零れ落ちる。
「ごめん、こんな話、聞きたくなかったよな…ごめん」
どうすればいいか分からなくて、小夜湖の前に膝をついたが何もできなかった。彼女はぶんぶんと首を振る。
「違うの、私…お父さんとお母さんがどんな風に死んだか知らないから」
そう言われて、虹は目を見開いた。なぜ気づかなかったのだろう。この家に来て、あの寝室を与えられた時に文都に聞いたのに。
小夜湖の両親が死んだのは、彼女が中学3年生の冬。まだ一年と少ししか経っていない。癒えない傷が、彼女にもあったのに。
彼女の傷を、抉ってしまった。
「ごめん、露里…」
虹はまだ畳まれていないタオルを手繰り寄せ、恐る恐る小夜湖の顔を拭う。
「…ふふっ、さっきのお返し?」
一瞬だけ、小夜湖は可笑しそうに微笑んで見せた。それでも、涙は止まらない。
「ごめん。俺があんな話したから」
「杜村くんは悪くないのに、私が勝手に泣いただけだよ」
「いや、俺は…」
自分のことしか考えていなかった。他人に押し付けようとして、他人の傷に素手で触れた。
「俺のせいだ」
「……」
小夜湖は首を振る。優しい人だねと言って、虹の胸に顔を埋めた。
「!?」
「ごめん、もう、こんな顔見ないで」
涙交じりの声が、虹の服に吸われてくぐもった声に変わる。
戸惑いながら、虹は小夜湖の肩に触れた。小さな体は凍えるように震えていて、虹はそのまま彼女の体を抱きしめる。
どうか、これ以上の悲しみが訪れませんようにと。
「…?」
不意に、小夜湖の体から力が抜ける。首をかしげるように顔を覗くと、すやすやと寝息を立てていた。
「!?」
驚くほどの寝つきの良さ、まるで幼児だ。
(え、これ…どうするんだ)
虹はとりあえず彼女をソファに寝かせ、洗濯物の残りをすべて畳んだ。
その後、洗い物を済ませ、自分の部屋から持ってきたタオルケットを小夜湖にかけた。
「……」
泣き腫らした目元に残る涙を、指先で掬う。女子を泣かせでしまったことに、ひどく後悔した。優しい彼女に、恩返しすらできていないのに。
明日もきっと、小夜湖は何事もなかったように笑うだろう。虹がどれだけ傷つけても、すぐに笑ってしまうのだろう。
(…無防備に寝てるし)
"優しい人だね"という彼女の言葉は、ある種の壁。その先へは、踏み込めない。全ては、友達に向けられる優しさと同じ。
もし、小夜湖にとって特別な人ができたら、彼女はどんな表情を見せるのだろう。傷つけたら、きっともっと本気で傷つく。笑顔になれば、それはきっと花開くように美しいのだろう。