07.Please,once again
小さな頃から病気がちだった虹に、ある日八雲がこんなことを言った。
『虹!陸上やろうぜ!』
当時、虹は小学四年生で、八雲は中学二年生。中学一年の時に陸上部に入部した八雲は、部内でも有力な長距離選手だった。
『陸上…?』
『そう!これから毎週、俺とランニングしよう!』
虹をなるべく外に出さないようにする両親と真逆で、八雲はいつも虹を連れ出してくれた。両親はもちろん反対した。
『大丈夫、俺が守るよ』
八雲はいつもそう言って、虹に外の世界を見せてくれた。
ランニングと言っても、最初は公園まで走って、水を飲んで遊んで、帰りは手をつないで歩くだけだった。それだけでも、滅多に外に出られなかった虹にとっては夢のような時間だった。
八雲とのランニングは月に1回程度、何年も続いた。だんだん本格的なランニングになって、虹が中学に入る頃には公園にも寄らなくなった。
陸上部に入った虹の得意分野は高跳びだった。体力の消耗が激しくないからと、両親は安心していた。
『───八雲、支度終わった』
『お、じゃあ行くか』
高校に入学して一年、春休み。始業式の1週間ほど前の平日。
相変わらず呪いだの何だののグッズで溢れた八雲の部屋に、ジャージに着替えた虹が顔を出す。
『…また増えた?呪の人形』
『呪い言うな、増えてねーよ』
これは、八雲が虹のために集めた妖怪払いのグッズ。虹は生まれつき妖怪を寄せ付けやすく、ランニング中も何度か変な人に絡まれた。
八雲はその度、手書きの不思議なお札を使ってそれを追い払い、妖怪について教えてくれた。妖怪は人の姿で人に近づいて化かす。もしくは、喰らう。
八雲のおかげで虹に被害は無かったが、八雲が怪我をすることが何度かあった。それでも八雲は、虹を外に連れ出した。
『大丈夫、俺が守るよ』
呪文にも似た台詞とともに。
その日も、いつも通り家に帰れると思っていた。
八雲の背中に追うように走る。長距離専門の八雲に追いつくのは難しく、毎回自然と距離ができた。信号を渡った先で、八雲が足踏みをしながら振り返る。
信号が青なのを確認して、虹は少し速度を上げた。その瞬間───
『───虹!!!』
一瞬だけ交差点の真ん中を見た八雲が、突然虹に向かって駆け出す。
驚いた虹が立ち止まるのと同時に、八雲の両手が虹の体を強く押し飛ばした。
『!?』
その時の八雲の顔はよく覚えていない。橙色の夕焼け空と、目の前を通り過ぎて行く大きな影。
それがトラックで、聞こえた鈍い音がなんだったのか、理解するのに時間がかかった。
『八雲…?』
トラックが突っ込んだビルのガラスが割れる音、辺りを埋め尽くす甲高い悲鳴。
尻もちをついていた虹は、ふらふらと立ち上がって道路脇に転がる八雲に近寄った。
血が出ている、服から滲み出て、コンクリートに染み込んでいく、石の隙間を伝って広がる。腕から、足から、頭から、赤い液体が、歪な形の水溜りをつくる。
『…八雲、八雲っ』
八雲の傍に膝をついて、虹は彼の体に触れた。
抱き起こし、血に濡れた頬を拭う。
『っ…虹……』
八雲の目が、僅かに開いた。片目が溢れた血で真っ赤になっている。
『ごめん、な…』
彼の瞳から涙がこぼれた。
(謝るな、泣くな、───置いていくな)
どの言葉も声にならない。こらえられない嗚咽だけが漏れる。
『文都を…頼れ』
『っ、…』
もう喋るな、そう言いたいのに声にできなかった。
『あいつなら…』
『…っ、八雲…っ』
たったひとこと、口から出たのは縋るような声だった。
『っ…ごめんな、おまえ…っ、ひとりに───』
八雲は無理をして微笑んだ。止まらない涙を、瞳いっぱいに湛えて。
『嫌だ、八雲…』
虹は首を振った。落ちた涙が、八雲の頬を濡らす。
二人の涙は混ざり合い、冷たい頬を伝って、地面に咲いた赤に埋もれた。
誰が呼んだのか、すぐに救急車とパトカーのサイレンが聞こえた。
虹と八雲は気付けば人に囲まれていた。
『……』
救急車に運び込まれていく八雲を、虹は立ち尽くして見つめた。抱き上げた腕に伝わる熱が、少しづつ冷める感覚が消えない。
野次馬が沢山いる、事故現場を目の当たりにして、みんな怯えた顔をしている。
そんな中、無表情に虹を見つめる長身の男がいた。黒いコートを着て、黒いマフラーで口元を隠している。
『!』
目が合うと、男は右手でそっとマフラーを下げる。
現れた口は、耳の近くまで裂いたように大きく、不気味な笑みを浮かべていた。
『っ!!』
咄嗟に虹が足を踏み出そうとすると、男は再びマフラーで口を隠してその場を去った。
『……』
妖怪だと、すぐに分かった。人の形をしていても滲み出る邪悪さ、今まで出会ってきたものと同じ、けれどもっと強い力を感じた。
虹が妖怪に取り憑かれたのは、事故があった次の日だった。
夢に、八雲と同じくらいの背格好をした男が出てきた。
(八雲…?)
声を掛けても、その男は振り返らない。追いかけて手をつかむと、触れ合った場所から黒い靄が溢れ出した。
『!?』
靄は虹の体を包み込み、強く締め付けられるような感覚に、虹は目を覚ました。
『…っ』
朝の光が差し込む、見慣れた自分の部屋。しかし見慣れない男が自分に馬乗りになっていた。
少し伸びた銀の髪に埋もれて、顔がよく見えない。男はゆっくり体を下ろし、虹を抱きしめた。
その瞬間、重たかった男の体が急に軽くなり、虹の体をすり抜けていく。
『!!?』
虹は体を起こし、ベッドを振り返った。しかし何者もいない。
『……』
数秒後、今の男はすり抜けたのではなく自分と同化したのだと分かった。
自分の中に、何かが入り込んだ。
それから数日、両親は八雲の葬儀でばたばたしていた。虹も手伝っていたが、何度か意識が途切れ、気づくと両親が怪我をしていることがあった。
妖怪の仕業だということにはすぐ気付いたが、対処法など思いつかない。何かないかと八雲の部屋に入ると、また意識が途切れた。
次に目が覚めたのは、全く見覚えのない部屋だった。
『起きたか、虹』
穏やかな声とともに、虹が寝ていたソファの脇に膝をついたのは、露里 文都だった。
文都は八雲の友達で、よく家に遊びに来ていたから面識があった。
文都は部屋の隅にいた妹を紹介し、しばらくこの家に泊まれと言った。
そして、虹から妖怪を祓う方法を考えてくれると言った。
(…もう、なんでもいい)
数日間で溜まった疲れのせいか、虹は何もかもどうでもいいと思った。
どうせ両親も、めんどくさい方が残ったと思っているだろう。八雲の代わりに虹が死ねば良かったと。
(もう、疲れた)