06.Beginning of spring
日が暮れていく、4月の午後6時前。
最終下校時刻を直前に、小夜湖は荷物を持って部室を出た。虹との待ち合わせ場所、図書室に向かって廊下を歩く。
「……」
影を伸ばす夕日に目を細めながら窓の外を見ると、まだ練習中らしい陸上部の部員たちが運動場に見えた。その中に、虹の姿を見つける。
小夜湖は窓際に寄り、運動場の様子を見下ろした。各種目ごとに分かれているようで、虹たちのそばには高跳び用のマットとバーがあった。
ちょうどこれから虹が跳ぶらしく、彼はバーを見据えて駆け出す。片足で踏み込み、空中でひらりと体を反らした。
時を止めたような刹那、細身の体が宙を舞う。どこにそんな跳躍力があるのかというと、彼は着痩せする体質で、きちんと筋肉はついている。腹筋なんかにはなかなか陸上部らしさがあった。
「…っ」
小夜湖はぶんぶんと首を振って、思い出しかけた彼の裸を振り払った。
次に小夜湖が運動場見たときには、すでに虹の体はマットに着地していた。バーはびくともしていない。何センチくらい飛んだのだろうか、そんなことを考えながら、小夜湖は窓から離れて図書室に向かった。
最終下校時刻間際の図書室は静かなものだった。普段が騒がしいというわけではなく、人の気配を感じない。人の立てる物音がしない静けさ。
小夜湖は図書室に入ってすぐのおすすめコーナーから小説を一冊手に取り、手近な席に座った。
ぱらぱらとページをめくると、タイムリーなことにその本には妖怪なるものが登場した。妖怪、人の目には映らない、怪奇現象を起こすもの。
さらに、妖怪を祓う陰陽師も出てきた。妖怪を視る特別な力を持ち、霊力を使って妖怪を退治する。
(妖怪か…)
文都から聞いた、虹には妖怪が取り憑いているという話。衝撃的すぎて忘れがたい話だ。
「───露里」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
制服に着替えた虹が、すぐ隣に立っていた。ボタンを留めていないブレザーに、普段はつけているネクタイがない。急いで来たのだろうと容易に察することができた。
小夜湖は虹を見上げたまま、読んでいた小説の内容を思い出す。彼に取り憑いている、見えない妖怪に目を凝らした。
「遅くなって悪かった」
不安げに、虹の表情が揺れる。
「あ、ううん、全然…」
やはり妖怪などというものは見えなくて、小夜湖は本を閉じた。席を立ち、本を棚に戻す。振り返ると、小夜湖の鞄とヴァイオリンケースを持った虹がいた。
「ありがとう」
荷物を受け取り、二人は並んで図書室を出る。終始無言で、何を言おうか考えたがどの言葉も声にはならなかった。
二人は無言のまま昇降口に差し掛かり、それぞれのロッカーを開けて靴を履き替える。隣のクラスなので、相手を見失う距離ではない。そのまま再び横並びになって、静かに帰路に着いた。
「───ただいまー」
伸し掛るような空気に、背負ったリュックが異常に重たく感じた帰り道。家に帰ると、少しだけ気が楽になった。
「おかえりー」
リビングから文都の声がして、挨拶をするべく虹が扉を開ける。小夜湖はその後ろに続きながら、玄関にあった見慣れぬ靴をちらりと見た。
「お邪魔しています」
予想通り、リビングには見慣れぬ靴の持ち主であろう見慣れぬ青年がいた。ダイニングテーブルに、文都と向かい合って座っている。
真っ黒な髪は前髪がまさかのパッツン切りで、耳たぶ辺りまであるもみあげもパッツン。なのに後ろはごく普通の切り方。それが意外と似合っているのは、中性的な顔立ちのせいだろうか。
それとも、この異様な格好のせいだろうか。
「初めまして、陰陽師を生業としています。柚桐 燈一朗と申します」
自己紹介をしてお辞儀をする彼の服装は、明治時代の軍服を思わせるような縦二列ボタンの真っ黒い上着に、同じ色のズボン。
しかし、そのコスプレまがいの格好が似合ってしまうほど、彼は美形だった。
「陰陽師…?」
しばらく間を置いて、虹がぼそりと呟く。燈一朗の視線が、刺すように虹に向けられていた。
「ああ、俺が依頼した」
文都がそう言って立ち上がると、燈一朗は自信に満ちた目で僅かに口角を持ち上げる。
小夜湖は虹に刺さる視線をどうにか払いたくて、なんでもいいからと口を開いた。
「じゃあ、その人には杜村くんに取り憑いている妖怪が見えるの?」
「いいえ、今は見えません」
燈一朗の視線が、小夜湖に向けられる。
「な、なんでですか」
釣られて敬語になりながら、小夜湖は彼の視線を受け止めた。
「憑依している状態の妖怪は視認できません。分離させれば見えますよ、あなたにも」
「??」
その言葉に、小夜湖は首をかしげる。
「妖怪は、誰にだって見えていますよ。気づいていないだけです」
「……」
そう言われて、小夜湖は妙に納得した。そもそも妖怪が人の目に映らないなどと、誰が定義したのか。誰でもない、妖怪を知らないものの偏見だ。
小夜湖がさっき読んだ本の著者も、妖怪を知らなかったのだ。だからそれを非現実的な物質にした。
「───っ」
ひとり頷く彼女の隣で、虹が燈一朗から逃げるように踵を返す。何も言わずに、彼は部屋を出て行った。すぐに階段を上っていく音が聞こえた。
「杜村くん…」
虹がここに居たくない気持ちはよく分かった。燈一朗は、異様な雰囲気を放っている。
いよいよ信じざるを得なくなってきた現状を、両手いっぱいに溢れた非現実を。
飲み込む覚悟を、決めるべきだ。
「───俺はこれで失礼します、明日は杜村さんの家を見に行きますね」
そう言って、燈一朗は文都にお辞儀をする。
「よろしくお願いします」
文都は出口に向かい、ドアを開けた。燈一朗が微笑みながら、開けられたドアから廊下へ出る。
「お邪魔しました」
玄関で革靴を履いた燈一朗が、持っていた白い羽織を着た。真っ白い生地に、下の方は大きな花柄。丈が膝辺りまでのその羽織は女物のように見えたが、やはり彼には似合っていた。
逃げ出すようにリビングを出た虹は、自分の部屋に入ると閉めたドアにもたれかかった。
「……」
正確には、自分の部屋ではなく、文都が虹に与えてくれた部屋。8畳ほどのその部屋は文都たちの両親が使っていた部屋だと聞いた。家具は両親が亡くなってすぐにすべて書斎に移し、そこを物置にしたためこの部屋に残っているのはベッドとローテーブルのみ。存在感のあるダブルベッドはひとりで寝るには広すぎて、虹はいつも端に寄って眠っている。
虹は心臓の鼓動を抑えるように息を吐き出した。電気を付けていない部屋は薄暗く、視界をぼやけさせる。
「…はぁ」
陰陽師が来てくれたのは、虹にとってはすごくありがたいことだ。なのに居心地が悪かったのは、きっとこの罪の意識のせい。自分のせいで死んだ八雲への償い。
(これは、相応の報いだ)