05.Beginning of spring
信用するとか、しないとか。
どれが嘘で、どれが本当で、誰が誰を騙してるとか。
そんな、途方も無い案件はこの際なかったことにして。
もう、考えるのはやめよう。
杜村 虹という同級生をしばらく家に泊める、ただそれだけだ。
でも、もし文都に危険が及ぶようなら、どんな手を使ってでも守る。自分にできることはそれだけだ。
「…これで、よし」
月曜日の朝。
小夜湖は二人分の弁当を包み終え、エプロンを脱ぐ。
時刻は7時。もうすぐ家を出て部活の朝練に行く時間だ。部屋に荷物を取りに行くついでに、虹に弁当を渡そう。
そう思って小夜湖が廊下に出たとき、ちょうど虹が階段を下りてきた。制服を着て、陸上部指定の大きなエナメルバッグを左肩に背負っている。
「あ、杜村くん、これお弁当…」
「食堂で買うから」
小夜湖が差し出しかけた弁当を、彼はぴしゃりと断り、足早に玄関から出て行った。
「なんなの…」
せっかく弁当を作ったというのに。昨日の深夜、わざわざ文都と二人で彼の家まで必要なものを取りに行ったというのに。
「何様だこらあああああああ!!!」
小夜湖の朝一番の叫びは、二階で爆睡する文都を起こすこともなく、誰もいない廊下に吸われて消えたのだった。
「虹ー、食堂いこー」
「おう」
四限目が終わり、昼休みになった。
賑わいだす教室で、虹は教科書を机にしまって立ち上がる。
「今日はロコモコ丼の日だよー」
うきうきしているクラスメイト、陽川 眞夏と並んで廊下に出た。
眞夏とは去年も同じクラスで、虹の数少ない友達のひとりだ。口数が少なく、陸上部員以外と滅多に話さない虹に、眞夏だけは入学当初から話しかけてきた。
眞夏は誰に対しても分け隔てなく明るく、顔が広い。そんな彼がなぜ虹のような無口な生徒といつも行動を共にしているかは謎である。
「ろっこもっこー♪」
そんなことを思いつつも虹が眞夏本人に尋ねないのは、彼のこの馬鹿っぽい雰囲気が心地良いからだろう。
券売機の列に混じりながら、虹は食堂の中を見渡した。時間が早いからか、まだ席はたくさん空いている。
「ああっ!!」
虹がよそ見をしていると、すぐ横で眞夏が声を上げた。
「なんだよ…」
「ロコモコ、売り切れた!」
そう叫ぶ彼の手には、ロコモコ丼の券が握られている。
「僕ので最後だった…」
「いいよ、俺は違うのにするし」
虹がそう言った時、近くの席に座る女子生徒の会話が二人の耳に入ってきた。
「なんで、弁当2つ?」
「あっ、こっちは杜村くんの分で…」
「モリムラ?誰?」
ポニーテールの女子と、栗色のショートヘア。二人は向かい合って座っているため、ポニーテールの方しか顔が見えない。
しかし、背中しか見えない彼女の前には、見覚えのある弁当の包みがあった。
「……」
虹はふらりと列を抜け、彼女たちの方へ歩き出す。
「良かったら、ひとつ食べる?」
「いや、あたしも自分の弁当あるし」
「だよね…」
近づいてくる虹に見向きもせず、二人は会話を続ける。
「…?」
やがて、ポニーテールの女子が虹に気づいて顔を上げた。
同時に、虹は小夜湖の隣の椅子を引いて静かに座る。
「杜村くん!?」
突然現れた虹に驚いて、小夜湖が肩を跳ねさせた。
「…悪かった、朝」
弁当の包みはピンクと青の色違い。おそらく自分用は青だろうと、虹はそれを自分の前に置いて包みを開ける。
「ちょっと虹!いきなりどこ行くの!」
虹を追いかけてきた眞夏が、女子二人を見て首を傾げた。
「?」
「眞夏くん?」
状況が分からなさそうな眞夏に、小夜湖が声をかける。どうやら知り合いらしいが、顔の広い眞夏のことなので別段驚くことでもなかった。
「どーゆーこと?なんで虹が小夜湖ちゃんの弁当食べてるの?」
「…おまえ、さっさとそれ頼んで来い」
虹は低い声でそう言うと、弁当のふたを開けて両手を合わせた。
「ちょ、僕の席とっといてね!」
眞夏は急いでカウンターへ駆け出す。見送りもせずに虹は弁当を食べ始めた。
「あの、杜村くん…?」
突然の出来事に、小夜湖は言葉が見つからず、不安げに虹を見つめる。
虹はばつが悪そうにその視線を受け止めたが、すぐに目線を弁当に落とした。
「だから、朝…あんなこと言って悪かった」
「……」
ぽかんと口を開けた小夜湖の目が、不安から驚きに色を変えていく。
「弁当、あ…ありがとう、ゴザイマス」
「…ふふっ」
頬を染め、眉間にしわを寄せながら絞り出された言葉に、小夜湖は無性におかしくなって吹き出した。
睨むように二人の様子をうかがっていた司も、安堵したように口の端に笑みを浮かべる。
「───で」
その時、だんっと音を立てて眞夏が虹の向かいにトレーを置いた。
「なんで虹が小夜湖ちゃんの手作り弁当もらってるのかな」
彼は興味津々といった様子で虹の顔を覗き込む。
「別に。事情があってしばらく露里の家に泊まるだけだ」
「えぇえ!?」
眞夏が大声を上げ、飛び上がらんばかりに驚きを露わにする。
「大声を出すな」
虹はそう言ったが、広く騒がしい食堂で眞夏の大声に振り向いた生徒は少なかった。
「な、なんでそんなことに」
「……」
何も答えずに、虹は押し黙る。しばらく答えを待っていた眞夏は、やがて肩をすくめてロコモコ丼を頬張り始めた。
「………」
虹からしてみれば、人に話すような話でもなければ信じてもらえそうな話ですらない。きっと、誰かに本当の事情を話すことは無いのだろうと小夜湖はひとり頷いたのだった。
終業のチャイムが鳴り響く校舎。
生徒たちは、下校やら部活の準備やらで各々教室を出て行く。
「こーう!」
足早に教室を出た虹の隣に、眞夏が並ぶ。
「今日も部活?」
「あぁ」
呼び止められたときから、声で眞夏だと分かっていた虹は振り向きもせず言った。
「でも、その前に…」
すぐ隣、2年C組の教室前で、虹は足を止める。タイミングよく出てきた陸上部員に声をかけた。
「なぁ」
「ん?杜村?」
声をかけられるのが珍しかったのか、その男子生徒はきょとんとする。
「露里、いるか?」
「いるんじゃね?呼んでこよっか?」
短く会話をすると、男子生徒はUターンして教室へ戻っていく。
横でそれを見ていた眞夏は、首をかしげるようにしながら虹を覗き込んだ。
「小夜湖ちゃんに用事?」
「…さっきから思ってたんだが、おまえなんで露里のこと知ってるんだ」
虹は追及を回避するように、質問に質問を返す。
「なんでって、オケ部の小夜湖ちゃんでしょ」
「……もうひとりは。ポニーテールの」
「一緒にいた子?柔道部の萩原さん、めっちゃ強いって有名だよ」
「ふぅん…」
萩原とかいう有名人は分かるとして、何故小夜湖を知っているのかが答えになっていない。公立高校では珍しいオーケストラ部は人気で、部員も何十人といる。知り合う機会が思いつかない。
「───杜村くん」
そんな会話をしていると、教室から荷物を持った小夜湖が出てきた。
「露里」
「どうしたの?あ、弁当箱渡しに来てくれたの?」
「違う、それくらい自分で持って帰る…そうじゃなくて」
明るくよく喋る小夜湖はどことなく眞夏に似ているが、妙に話しづらいのは慣れていないからだろうか。
「帰り、部活終わったら…図書室で待ってる」
「え?なんで?」
「家の鍵、持ってない」
「あ、あー、そっか」
小夜湖は何故かと尋ねた自分の失言を恥じるように、開けた口に手を当てた。
「分かった、図書室だね」
そして、にっこり笑って頷く。
隣で面白そうににやけていた眞夏が何か言い出す前に、虹はその場を立ち去るべく踵を返した。
重たいエナメルバッグはいつもより更に重たく感じて、虹は思わず普段の歩き方を忘れそうになった。