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ホワイトアウト

ブラックアウト

作者: ちわみろく

ホワイトアウトの続編です。

読んでいただけたら嬉しいです。

ブラックアウト


 真っ暗だった。夏の夜の闇は深く滴るかのように濃い。

 ふっと明るくなる。直後に爆音が響く。どよめきが遠く聞こえる。

 今夜は花火大会だ。地元ではそれなりに有名で多くの人が見に訪れる。花火の間隔が開いている。もうすぐフィナーレか。

 成田肇はもう一度携帯電話を見る。


 冬山の資金を貯めるためにバイト三昧の夏休みで、あんまり一緒に遊べなかった。だから、今夜の花火大会くらいは一緒に来ようと約束してたのだ。

 携帯をいくら鳴らしてもすぐに留守番電話へ繋がってしまう。メールにもまったく反応が無い。

「羽田…。どこだ?」

悪友達も連れての花火見物。悪乗りの過ぎる連中が肝試しをやろう、などと言い出したのが悪かった。余り気乗りしなそうだった羽田は、それでも雰囲気を壊してはまずいと思ったのかすぐに承諾して、全員で神社のある小高い丘へ登って行った。花火客の混雑からは少し離れて、でも、花火はよく見えるという絶景ポイントを目指して暗い山道を歩く。

 それでも参道の入り口付近などはにぎやかで明るかった。人通りも多かったし、出店などもちらほら出ていたので安心したのだろう。意外に長い参道の中頃から、辺りが急に寂しくなり、そして、浴衣に下駄を履いていた羽田が弱音を吐き始めた。

「…ごめんね、ちょっとこれ以上は無理みたい。あたしここで座って休んでるから、皆行ってきていいよ?何かあったら携帯持ってるから連絡くれれば。」

 小さな外灯の下の、ボロいとしか言いようの無いベンチに座った羽田が、辛そうに膝を擦ってそう言った。

「ミスったなぁ。普通の服と靴でくればよかった。そしたら最後まで行けたのに。」

苦笑して目を細めると、俺に早く行け、と合図する。

悪乗り連中が、にやにやと笑ってさっさと行ってしまった。ごゆっくりーなどと余計なことまで叫んで。

「行かないの?」

羽田が顔を上げて俺を見る。

「…いくらなんでも、こんな寂しいところに一人で置いていけるかよ。」

俺は照れ臭いのを隠しながら、そっぽを向いて言った。

「大丈夫なのに。…でも、ありがと。気を遣ってくれて。嬉しいよ。」

 そう言って、また足元を擦った。

「…疲れたよな。来る途中自販機あったから、なんか飲み物買ってくるよ。何がいい?」

「うん、お茶かな。冷たいの。」

「…八月にあったか~いの自販機があったら逆に驚くぜ。すぐ戻るから、ここにいろよ。」

「わかった。じっとしてる。足が痛いから動けないし。」

そう言って、俺が冷たいお茶の缶を二つ手に戻ってきたとき、ベンチには誰もいなかったのだ。

 

 羽田ルイは、俺の彼女だ。昨年のクリスマス前に知り合って、付き合うようになった。

 男兄弟で男子校育ちで工学部の俺に取っては、女子という存在そのものが奇跡みたいに大切なものだが、その中でも特別なのが彼女だ。

 初めて会ったとき、余り縁の無い同世代の女の子相手にうまく話が出来なかった俺に、きさくに声をかけてくれた。まるで話題を合わせるように聞き上手で、俺は羽田の前では自然におしゃべりになっていったのを覚えている。

 そして雪ばかり追いかけている山男であることを知ると、引かれるかな、と思ったが、彼女はそれにも食いついてくれた。もしよかったらスキー教えてくれる?と言って、連絡先を交換したのだ。

 嬉しかった。初めてゲットした女の子の携帯番号。バイト先の人でもなく、親でもなく親戚でもない。大学の事務のおばちゃんでもない。

 バレンタインにはチョコをくれた。呼び出された日は少しだけ期待していたが、彼女は二つのケーキの箱を持っていた。

「これから学校で実験なんでしょ?お友達と食べてね。あたしがバイトしてるケーキ屋さんのだから美味しいよ。」

白い方の箱を示して、手渡してくれた。俺は嬉しくて天にも昇る心地だったが、あえてクールを装って受け取る。

「へえ、ケーキ屋でバイトしてんだ。いいね。」

ピンク色の箱の方を両手でささげるように持って、羽田は恥ずかしそうに付け足した。

「こっちは、あたしが作ったんで、味の保証は出来ないけど、よかったら食べて。」

 人生で初のバレンタインチョコで、しかもケーキ。それも手作りなんて。

 とにかく俺は照れまくった。嬉しかったし、それに感動もしていた。

 なんて気の利いた子なんだろうと思った。俺のみでなく悪友の分まで用意してくれるとは。おかげで俺は野郎ばかりの辛く長い実験作業を、甘いケーキと悪友達の感謝の言葉と共に過ごせたのだ。

 彼女の手作りも、とても美味しかった。

 料理うまいんだな、と感心した。

 羽田は外見はとても地味だった。ぱっと見ておしゃれな女子大生、という感じはしない。化粧も薄く最低限しかしていないだろう。履いている靴はいつも黒の革靴かスニーカーだ。俺に会うためなのかはわからないが、いつもスカートをはいてきてくれるが地味だった。物凄く美人とか、可愛い子だとかそう言うタイプでもない。それでも女っ気のない生活を長年してきた俺には充分眩しかった。なにより、一緒にいると友人のようで余り肩肘を張らなくて済む。割と陽気な性格だし優しい気遣いの出来る子で、不器用な俺には本当に有り難かった。地味な子だから、浮気とかの心配もなさそうで気が楽だった。

 だが春になり夏が近付き、羽田は薄着になるほど目立つ外見になってきた気がする。寒い間は厚着をしていたから気がつかなかったんだろうか。それとも、彼女自身が変わったのか。

 背は割と高いほうで、薄着で見るとびっくりするほどスタイルが良かった。もっとはっきり言うと胸がでかくてくびれていて、脚が長い。普通に隣りを歩いているだけでも、ノースリーブのシャツを着た彼女を見るとどぎまぎしてしまう。

「…その、そんな薄着で大丈夫なのか。世の中にはだなあ、スケベな男がたくさんいてだな…。」

親父臭い口調で思わず言ってしまったことがある。

「何言ってんの。あたし全然もてなかったから、そんな目で見られることなんか無いよ。でも、成田君が着るなって言うんならやめるよ?」

「いや、俺は目の保養でいいんだけど…ホラ、暑くなるとおかしな奴が出てくるからさ。」

「あはは。心配してくれるんだ。じゃあ、やめるね。」

 きっとおかしな奴というのは俺のことなのだろう。羽田は俺に言われたせいか、暑い日でも露出に気をつけた服装になっていった。いつも上着を軽くはおっていて、少しだけ俺は安心した。

 バイトや学校の実験などで毎日のように会うなんて事は出来ない。それに彼女は一人暮らしだが俺は自宅通いである。女の子と一夜を過ごすなんて夢のような出来事はまだまだ夢だった。

 だから、バイトしていっぱい稼いで冬休みにはたくさん彼女と雪山で過ごしたいと思っていた。

ゲレンデだと俺は少しだけ自分に自信が持てた。普段は冴えない貧乏学生だけど、雪の上ではそれなりにカッコいいほうなんじゃないかと勝手に思っていたからだ。それに、羽田に教えてやれる。ものしり顔で人に薀蓄をたれるのは楽しいし、羽田はとても素直だ。野球のルールを教えるのさえ、楽しかった。ミットとグラブの区別も付かなかった彼女が今はキャッチボールの相手をしてくれる。

 

 俺は多分凄く羽田が好きなんだろう。好きになっていったんだと思う。最初は、”初めての彼女”に舞い上がっていただけかもしれないが、今は本当に彼女に夢中だ。

 三月に一緒に言ったゲレンデで羽田に言われたことが今も忘れられない。

「貴方の重荷になりたくないから、別れよ。」

後ろからカナヅチか何かで頭を叩かれたようなショックだった。

 そう言われてはじめて知ったのだ。思っているだけでは駄目なのだと。

 結局別れずに済んで、今もつきあっているが、それ以来、俺は出来るだけ彼女の都合に合わせるようになった。

 好きなだけでは駄目なのだ。ちゃんと言葉や行動で示してあげなければ、こんなにも相手を不安にさせてしまう。

 確かにそうだ。羽田はいつもそうしてくれたし、だからこそ成田肇は彼女を疑ったことなど一度もなかった。いつ振り返っても、彼女は自分に笑ってくれたから。

 けれども自分は照れ屋だし不器用だし、気の利いたことなど言えない。

 出来たことといえば、自分の悪友に彼女を紹介したこと。親が自宅にいるときに、自分の部屋に

招待したことくらいだった。お袋は上機嫌でお高いケーキを出してくれた。親父は彼女が帰った後に嬉しそうに笑って、お前に彼女が出来て本当にほっとした、と呟いた。

 この程度のことで彼女の不安が霧消するとは思わなかったけれど、何もしないよりもずっといいと思った。

 羽田はいつも自分に一歩譲ってくれる。まるで甘えることを知らないみたいに。

 しっかりしていて、前向きで、凄く気がつく娘で、俺には過ぎた彼女。

 しかも料理もうまいのだ。

 もう、メロメロと言っていいくらい惚れている。照れくさいので、口には出せないけど。


 その大好きな彼女が、もう一時間も見つからない。

 悪友達にも連絡して探してもらっているのだが、まだ誰もみつけた様子は無かった。

 初めて見た浴衣姿がとても綺麗だった。俺の彼女に何度か会っている悪友どもさえ、一瞬溜息をついていたのを俺は見逃さなかった。どこぞの性質の悪い奴にでもナンパされてたり、最悪連れて行かれてしまったのだとしたらどうしよう。

 汗で携帯が滑る。走りながら羽田を呼ぶ。でも見つからない。

 履いているジーンズも汗で塩を吹いて白くなりそうだ。シャツもぐっしょりと濡れていた。

 気に入っていたリーバイスも、すっかりダメージ仕様だった。

 一際大きな爆音と、夜空に散った赤い枝垂桜。美しいが、みとれてなんかいられない。きっと最後の花火だろう、終了のアナウンスが入っている。

 一緒に見たかったのに。綺麗だね、って言いたかったのに。羽田の方が綺麗だよって臭い台詞で笑わせようと思ってたのに。

 その時、急に女性アナウンサーの声が変わったのがわかった。迷子の呼び出しをする、あれだ。

「…ルイ様のお連れ様、いらっしゃいましたら至急本部テントまでお越しください。繰り返し…」

 途端に携帯がなる。悪友の伊丹からだった。

「このアナウンス、ひょっとして…。」

「行ってみよう。なんで大会本部なんかにいるのかはわからないけど…。」

俺は伊丹に他の仲間と合流するように頼んで、山道を駆け下り、本部テント前へ向かった。

 花火会場を去ろうとする人ごみに逆らって動くのはとても大変だったが、どうにか本部テントまで行き着くことが出来た。たくさんの職員や大会運営委員の人たちが忙しく立ち働いている。後片付けをはじめるのだろう。その中でマイクをもって立ってい浴衣の女性に話しかけた。

「あの…さっきの…アナウンスの…羽田ルイの連れです…。」

汗だくで呼吸も戻らぬまま俺はどうにか言った。すると女性はマイクのスイッチを切ってそれを置いた。

「何か、身分証明できるもの持ってる?」

「は、…ハイ。えっと運転免許書とかでいいですか。」

 俺は尻ポケットから財布を取り出し、免許証を見せた。

「…成田、肇さん。貴方、お友達?」

「…は、はい。その、ルイは俺の…彼女で。」

「番号控えさせてもらうわね。…ちょっとね、彼女怪我しちゃってて。歩けないみたいなの。」

浴衣の女性は行き交う職員を書き分けるようにして俺をテントの裏側へ連れて行った。

 三人の警備員らしき制服姿に護られるように、羽田はパイプ椅子に座って足に包帯を巻かれていた。後ろには扇風機が回っていて、手にはジュースが握られている。中々快適そうだ。

「成田君!ごめんね!携帯落としちゃって…!あっ…つっ!」

成田の姿を見つけるなり立ち上がろうとしたが、痛みの余りまた椅子に座る。蝶の柄の浴衣が汚れていた。泥にまみれた下駄が椅子の下に揃えて置かれている。

「大丈夫か?…見つかって、よかった。…どうしたかと心配したぜ…。探したんだぞ。」

俺はやっと肩を撫で下ろした。汗がまたどっと噴き出した気がする。

「…たまたま警備の人が通りかかって、助けてもらったんだよ。」

警備の人が一人進み出てきて、俺の前に立った。低い声で名乗って、簡単に状況を説明してくれた。

 羽田が一人でベンチで待っていたとき、三人組の若い男が通りかかってナンパしたらしい。それを断ったら、彼女の足が悪いことを見て取って強引に連れて行こうとした。もちろん羽田は怒って抵抗したが一人だったらそのまま連れて行かれてしまったかもしれない。その後どうなっていたかなどは想像したくも無かった。運よく三人の警備員が巡回中で、羽田を助け出してくれたらしい。

「怒ってもみあったときに、携帯落っことしちゃって、暗くて見つからないし…。」

警備員は巡回中なので成田を待っているわけにも行かず、怪我もしていたので本部まで連れて来て手当てしてくれていたんだという。

「傷害容疑で警察に…。」

「いいです、そこまでは。元々足痛かったし。」

羽田はそんな怖い目にあったというのに淡々としている。逆に成田の方が怒りたくなった。

「そいつら警察に突き出してください。俺も一緒に行くから、許しちゃ駄目だ、そんな連中。」

「んー、踏まれて滑って転んで、捻挫しちゃっただけなんだけど。」

「それでも駄目だ。」

「別にそこまでじゃ…ナンパされたけどさ。強引に腕を引っ張られて、それであたしが頭に来て相手を下駄でふんずけたの。相当痛かったと思うよ?向こうはビーチサンダルだったからね。それでお返しに踏まれたから滑って転んだんだ。その拍子に、向こうの一人の足をひっかけちゃって、向こうもすっころんで、たまたまあたしの上に転んだから襲われてるように見えたんだよ。」

そこまで言ってから羽田はちょいちょいと俺を呼んだ。耳を貸せということらしい。

「…大きな声じゃ言えないんだけど、うちの大学の子なんだよ。警察沙汰はマズイよ~。あたし顔知ってるもん。だからさ、ここは穏便に…お願い。」

「お前の学校は女子短大だろ。」

「併設した大学部の子だよ~。向こうもあたしの顔知ってたんだよ。だから声かけてきたんだと思うんだ。本当に、お願い。あたし二学期から学校行けなくなるのヤダよ~。」

 こそこそ言ってる割には、どうも筒抜けらしく警備員も困っているようだ。被害者本人が届け出ないと言っている以上、勝手に警察に行くわけにも行かない。

 羽田の言う事もわからないでもない。警察沙汰になったら停学処分、悪くすれば退学にさえなるだろう。万が一噂にでもなれば、原因を作った羽田だってなんだかんだ言われてしまう。

「本人達もまずいと思って謝ってるから~。ね?」

 俺は少し考えて、その三人に会わせて貰えないかと頼んだ。すると、反対側のテントで大人しく座っていた三人を警備員が連れてきてくれた。相当意気消沈しているようで、こちらを見ることもしない。

「…すいませんでした。」

一人が小さな声で謝った。そいつは足が泥で随分汚れている。

「知ってる子だったんで、ちょっと調子に乗っちゃって誘っただけなんです。本当に、無理に連れ

て行くとか言うつもりはなかったですから…。」

「怪我させちゃったのも、はずみで、本当に怪我をさせるつもりなんかなかったんですよ。」

口々に言い訳みたいに事情を話し始める。どこまで本当なのかは判断しようもないが、警察沙汰にされることは恐れているようだ。それに、恐らくは親に知られるのも…。

俺は、警備員の人に耳打ちした。

「三人全員の身分証明とってますか?」

「ああ、割と素直に差し出したよ。保険証だの、学生証だの、免許証。」

「コピーとってますよね?」

「逃げられちゃ困るからな。」

「…じゃ、羽田もああ言ってるし。釈放してやってください。」

「いいんかい?」

「…本人がいいって言うんですから。しょうがないでしょう。」

三人はようやくテントから出ることを許され、とぼとぼと歩いていった。

俺は悪友達に連絡を取り、事情を話して、先に帰ってもらうように頼んだ。羽田は落ち着いているが、今更友達と盛り上がる気にもなれないだろうし、何より足を医者に見せたほうがいい。

「車持ってくるから、…いや、タクシーに来て貰おう。車なんか明日とりにくればいい。」

「大丈夫だよ。病院行くほどじゃないって。」

「駄目だ。これは俺も譲らないぞ。とにかく医者に見せるんだ。」

「だって、そんなことに付き合ってたら成田君遅くなっちゃうよ。ご両親心配するんじゃない?」

「…大事な彼女が怪我したってのにほっておけるか。病院着いたら電話だけするから。」

電話でタクシーを呼んだ。混雑しているので時間はかかったが、どうにかきてくれたので夜間診療の病院まで頼んで付き添った。

 花火大会の影響でもあるのだろうか、夜間診療は結構混雑していた。病院の待合室で隣りに座って待っていると、羽田が軽く頭を傾けて、

「ごめんね…折角の花火大会がこんなことになっちゃって…。」

申し訳なさそうに言った。

 短く切った髪に、小さな髪留めを挿している。赤い花の飾りだった。すっかり着崩れてしまった浴衣が恥ずかしいらしくなんども裾を直している。

「お前が悪いわけじゃない。そもそも肝試しとか言い出した奴が…。」

「ごめんね。…実は、今日のあの大学の子、先週誘われてたんだ。それで断っちゃってたから、今日会ってなんでここにいるんだよ、みたいな感じで…。本当にごめんね。」

 薄化粧した顔がうつむいた。落ち込んでしまったらしい。

 俺はどうしていいかわからず自分の膝を見つめた。自分の彼女がナンパされたのは面白くない。まして一度断っているのに更に誘ってきたと言うのも気に入らない。やっぱり警察につきだしゃ良かったと後悔している。

 でもそれは羽田が悪いわけじゃない。原因かもしれないけど、彼女のせいではないのだ。

「あ、あのな…花火、綺麗だったな。」

「…あ、うん。あんまり見る余裕無かったけどね。綺麗だったよね。」

「おおお、お前の方が綺麗だけどな。」

 彼女が顔を上げる。小さく笑って口元を押さえた。

「成田君、どもってるよ。あはは…無理しちゃって…。」

「無理なんかしてない。…ずっとそう言いたくて言えなかっただけだ。邪魔されたから。」

「本当?」

「本当。ベタだけどな。浴衣もすっげー似合ってる。汚しちゃって、ごめん。」

「ありがとう。凄く嬉しい。頑張って自分で着たんだよ。一応着付け習ったから…。」

「そう言えば、部活で着るんだって言ってたもんな。茶道部だっけ?」

「うん。文化祭に来てくれたらご馳走する。ちゃんと振袖でね。」

「え、俺とか行ってもいいの!?部外者でも!?」

「大歓迎です。よかったら学校の友達も連れてきてね。たくさん来てくれると嬉しいから。」

なんとなく暗い会話だったのが、また明るくなった。羽田は本当に明るい性格だと思う。いつまでもぐずぐずしないのだ。笑った顔が、たまらなく可愛かった。

「…し、してもいいかな。」

「何が?」

「キスしたいんだけど。」

「い、今?ここで?たくさん、人いるよ?」

 羽田が目を白黒させる。一体何を言い出すんだ、という顔だった。

 だって、可愛いから。今したいから。思うだけでは駄目だから。言葉と態度で示さなければ。

「…は、はじめてするのに、ここでいいの?」

「今、したい。」

 俺は引かなかった。

 日頃何も出来ない俺は、今日ばかりは絶対に後には引けない思いで彼女を見つめた。凄く照れくさかったけど、恥ずかしかったけど、彼女が怪我をして妙なテンションになっている今なら、出来る気がした。

「わかった。」

 羽田が恥ずかしそうに顔を赤らめてから、また顔をあげてこちらを見る。

すっかり口紅も落ちてしまった柔らかな唇に、俺は軽く自分の口を重ねた。すぐに離れる。こんな

一瞬のキスなら、周囲の人もほとんど気付くまい。

 俺は照れくささを隠したくてすぐに口を開いた。彼女の顔を見るのも照れくさい。

「あのな…ルイって呼んでもいいかな?」

そう言われて初めて、羽田もお互いに名前で呼び合っていないことに気がついたみたいだった。

「いいよ。名前で呼ばれると、彼女っぽいね。…あたしを名前で呼ぶ子って友達でもいないの。」

「え、じゃ、皆なんて呼ぶんだ?」

「羽ちゃんって呼ばれてるよ。」

 羽ちゃんかぁ…それもなんか可愛いな。

「羽田さーん、第二診察室へどうぞ。」

看護師が彼女を呼ぶ。俺は慌てて彼女に肩を貸し、立ち上がらせた。一緒に診察室にはいる。


 タクシーで彼女のアパートまで送って行った。歩けない彼女ために一緒にタクシーを降りる。

彼女のアパートは俺の自宅からそう遠くない。徒歩でも帰れる距離だった。

「散らかってて恥ずかしいけど、上がってく?」

部屋の鍵を開いた彼女が気軽に聞いてくる。

 時間はもう11時を回っていた。夜遅く女の子の部屋に上がりこむなんて男のやることじゃない。とは思ってはいても、羽田の、警戒心の欠片もない笑顔を見ると、つい頷いてしまった。それに足も心配だ。

「大丈夫か?」

部屋に上がってのこのこと這いながら電気を点ける羽田を見てなんとも情けない気持ちになる。

ぱっと灯りがついて、彼女のワンルームがようやく明るくなった。ついでにエアコンも入れてくれたらしく、空調の音が聞こえ始めてわずかな風を感じた。

「うん…とにかく、着替えないと。」

「手伝ったほうがいいか…?って、まずいかな。ごめん。」

小さな玄関で靴を脱ぎ、彼女の後を追う。

「無理するなよ。痛いんだろ、痛み止めが効いてくるまで休んでればいいじゃん。」

 屈んで羽田の肩を軽く叩く。爪が少し浴衣にひっかかって、彼女の肩が出てしまった。

 綺麗な肩。うなじからのラインが華奢で色っぽい。少し汗ばんでいるからこそぞくっとするような艶があった。

 思わずその肩に手を伸ばしてしまう。すべらかな肌にひきつけられるように。

「あっ…。」

慌てて羽田が振り返った。

「ご、ごめっ…。何もしない。下心があるわけじゃないからっ…!」

襟を正して、恥ずかしそうに座りなおした羽田がもう一度こっちを見た。恥ずかしそうに、でも、どこか悩ましそうに。

「そ、そうだよね。…成田君はそんな人じゃないし…。」

「ごめん。」

「あたしに、そんな気を起こすわけないもんね…。」

悲しそうにそう呟いた。

「い、いや…。起こすよ?俺だって男の子ですから!!だけど…こんな、お前の弱みに付け込むようなのはやばいだろ!」

「弱ってるからこそ、慰めて欲しいと思うのはおかしいかな。」

「は、はねっ…ルイ。」

「一人になるのが怖いと思ったら変かな。」

「ルイ。」

「怖かったんだ。本当は…。」

 平気な振りをしていたのか。

 あんな暗い場所に一人で残され、一度は断った相手に無理強いされそうになって。怪我を負って。いつも回りに、俺に、気を遣ってくれる彼女は、そうするしかなかったのかもしれない。そんな思いをさせてしまった俺は最低な奴だった。彼女の恋人である資格なんかないってくらいの馬鹿野郎だ。

 怖かったのならそう言ってくれればいいのに。心細いからどこへも行くなと、そう頼ってくれればよかったのに。…それが出来ない、俺の、彼女。

 それが出来ないのは俺のせいだ。俺が頼りないから。俺がいつも彼女に気を使わせてばかりいる

から。

 困ったように苦笑してこっちを見た羽田は髪飾りを左手で丁寧に外した。小さく溜息をついて、

天井に設置されたエアコンの緑のランプを眺めた。

「やっと効いてきたみたいだね…涼しい。ほっとするね。冷蔵庫になら何か冷たいものくらいあると思うんだけど。」

「あ、ああ。わかった。俺自分で持ってくる。お前もいるだろ?」

「ありがと。あのね、コップはレンジの上の棚の中。」

俺の半分くらいしかない高さの小さな冷蔵庫を開くと、ガラスのピッチャーにお茶らしき液体があった。使いかけの野菜や、五つ残った卵など、自炊してる様子が窺える冷蔵庫の中身に、俺は少しばかり期待する。いつかまた手料理をご馳走してもらえることを。

「…紅茶なんだ。いい?」

 コップに注いで、彼女に手渡し自分も一気にあおるように飲んだ。アイスのストレートティーはうまかった。

「うまいなぁ。これ、はね…ルイが作ったんだろ。」

「普通の、市販の紅茶を煮出しただけだよ。銘柄も特に無い、普通の紅茶。」

「お前ってなんでも出来るんだな。…バレンタインのケーキもうまかったし。」

「なんでもなんて出来ないよ。普通だよ。一人暮らししてれば、最低限料理くらいはするようになるだけ。」

「俺のお袋なんか麦茶だってペットボトル買ってきて、廊下に箱のまま置きっぱなしだぞ。」

「買う方が高いもん。…お金ないし。」

あはは、と笑う。お互い貧乏学生だった。

「…あの、さ。明日は何か予定あるか?」

「午後からバイトがあるだけ。1時から4時。成田君は?」

「俺も午後からバイト。二時六時。…朝は忙しくないんだな。じゃあさ、こうしないか?」

「なあに?」

「俺に今日、この部屋の鍵を貸してくれ。…お前が寝付くまでずっとここにいる。お前が完全に眠ったら、鍵をかけて家に帰るよ。で、明日の朝、またここに鍵を届けにくるからさ。」

「行ったり来たり大変じゃない。いいよ、そこまでしなくても…。あたしなら大丈夫だから。」

 また遠慮している。遠慮なのか?それともそこまでされたら迷惑なのか?羽田の表情だけではわからない。いつもなら俺はそこで引き下がるけれど、今夜は少しだけ強く出てみる。

「迷惑じゃないなら、そうさせてくれよ。…俺だって、その、できるだけ傍にいたいんだ。泊まるわけにはいかないから、せめてそのくらいはしたい。」

 少し驚いたように細い目を見開いた彼女が、睫毛をぱちぱちとさせた。細くても愛嬌のある目が、俺は結構気に入っている。あの瞼にちゅーしてみたいな、などと時々妄想したりもする。

 地味な顔立ちだが、特に目立つような欠点もない容貌なのだ。驚くと、随分目が丸くなるんだな、等と思ったりもする。小さな口が特に好きだ。今日初めて触れた、あの唇が可愛い。

 やがて羽田は傍らに置いていた小さなバッグを膝の上に置いて、ポケットから子猫のキーホルダ

ーが付いた鍵を取り出し、俺に差し出した。

「…失くさないでね。」

「心得ました。…何時までに来たらいい?」

「…11時に来てくれたら、お昼一緒に食べられるかな。明日は…親子丼でも作るつもりでいたんだけど成田君食べる?」

「ああ、大好き。卵とろっとろのがいい。」

俺は心の中で小躍りする。憧れの、彼女の手料理って奴。

「半熟がいいんだ。わかった。明日作るよ。」

「楽しみにしてる。」

「今日は…もう休んでもいい?」

少し躊躇した後にルイはそう呟いた。疲れているのだろう、だが、俺に気を使って寝たいといえなかったのだ。

「布団敷いてやるよ。押入れん中か?…いいから、俺にやらせろって。」

恥ずかしそうにまたうつむいた羽田は、また顔を上げて、彼女の背後のクローゼットを指で示した。

それから今度は南向きの窓を見て、

「真っ暗だね。…カーテンしめなきゃ。」

と呟いたので、俺は先にそちらを済ませた。

 小さな部屋は俺の部屋と同じ八畳くらいだと思う。そこに彼女の寝具を用意しててきぱきと敷く。

 羽田に肩を貸して布団の上に腰を下ろしてやると、目が合った。たまらなく照れくさくて、俺は

目をそらしてしまった。

「ありがと、成…肇くん。」

 優しい声ではじめて俺の下の名前を呼んだ彼女は、また嬉しそうに笑った。



fin






最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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