後編
「ハヤト様、こちらへどうぞ」
執事のおじさんが戻ってきて、今度は俺を二階へと連れていった。
会いに来てくれるんじゃなくて、会いに『行く』のか。
なんだか身分の差のようなものを感じてしまって、少しばかり居心地が悪い。
「こちらでございます」
一番奥の扉の前で、執事さんはピタリと止まり、優しくノックをして部屋の中へ問いかけていった。
「お嬢様、ハヤト様をお連れいたしました。失礼してもよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
優しく可憐な声が扉の向こうから聞こえる。
想像してたよりもずっと、可愛らしく綺麗な声だ。
ミウはどんな人なんだろう。
これからミウに会えるのかと思うと、緊張と期待とで手のひらにじっとりと汗が滲んでいってしまう。
「おじゃまします」
遠慮ぎみに声をかけて一礼しながら部屋に入っていくと、光射すその光景に思わず目を奪われてしまった。
「ハヤトさん、はじめまして。ミウと申します」
部屋の中にいたのは、優しい笑みをたたえた女の子。
鎖骨のあたりまで伸びた亜麻色のやわらかそうな髪。
グリーンを帯びた茶色の瞳に、透き通るほど白い肌。
華奢な身体に真っ白なワンピースをまとい、薄桃色の羽織を肩からかけていて。
彼女の姿は人とは思えぬほど、それはそれは美しかった。
まるで、あの坂道にあった桜のつぼみみたいだ。
儚くて、柔らかい薄桃色と、まじりけのない綺麗な白。
「あの……ハヤトさん?」
ついつい見とれてしまい、反応を失った俺に対して、心配そうにミウは語りかけてくれる。
「……はっ、ごめん。ぼんやりしちゃって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。暖かくて良い天気ですし、わかります」
口元に手を当てて、くすくすと彼女は笑う。
あぁ、こんなふうに笑うんだ。
手紙の中だけの存在だったミウ。
ミウに会えて、いままで知らなかった彼女の姿や一面を見つけられるのが嬉しくてしょうがなかった。
「ハヤトさん、ヒントもないのに私がここにいるって、よくわかりましたね」
「お屋敷の工事が始まった途端、手紙来なくなったらそりゃわかるよ」
俺が笑うと彼女も笑う。
「言われてみれば、そうですね」
昔から知っているようだけど、初対面の女の子。
文字で語ったことはあっても、話したことは一度もない。
そんな彼女と言葉を交わすたびに、どこか懐かしくて、温かくて、優しい気持ちが溢れてくる。
これまで感じたことのないほどの、やわらかくて、穏やかな、不思議な感覚で心が包まれていく。
もっと話したい、そう思った俺はミウに、どこの高校に行っているのかを尋ねてみることにした。
だけど、質問をした途端、彼女の表情に寂しげなかげりが見られていって。
その変わりように、あたふたと動揺してしまう。
ハヤトさんと同い年ですが高校には行っていません、と困ったように笑いながら語ったミウは、無言のままうつ向いてしまったが、意を決したかのように顔を上げていく。
「高校に行っていない理由……ハヤトさんにとって、面倒な話かもしれませんが、聞いていただけますか?」
――・――・――・――
「ミウ。それ本当、なの……?」
「私も嘘や夢であれば良かったのにと、何度願ったことか。ですがこれは現実なのです」
彼女の語った言葉。
それは、残酷な真実。
神様はなんてひどいことをするのだろう。
伝えるべき言葉を見失い、ただただ立ち尽くすしか出来なかった。
「ごめんなさい、こんな話をしてしまって。聞いてくれてありがとうございました。これまでハヤトさんと文通できたこと、春休みが終わる前にこうやって会えたこと、本当に嬉しかったです。ありがとう」
そう言って笑う、ミウの笑顔がとても儚くて、悲しくて。
そんな彼女に言えたのは、本当に大したことない言葉だけ。
「これまで、とかじゃなくて……これからもまた、俺と文通してくれませんか……? 春休みが終わって家に帰っても、夏を越えて冬を迎えても、桜色の手紙があるかぎり、俺は通い続けるから」
「ありがとう」
ミウは何度も何度もそう言って、幾度もまばたきを重ねていく。
そのたびにきらきらと光りながらこぼれ落ちていく雫が、まるで水晶のように輝いていてとても美しいと、そう思った。
そしてこの時、俺の中で一つの夢が生まれた。
無謀な挑戦かもしれない。
間に合わないかもしれない。
ひょっとしたら、俺から離れていく友だちもいるかもしれない。
だけど、もうこのままでいるのは嫌なんだ。
強くて儚く悲しい女の子、ミウに会ってしまったから。
彼女の苦しみを、夢を、知ってしまったから。
いつか彼女が苦しい思いをしている時に、助けてあげられるように。支えてあげられるように。
そのために俺は――
――・――・――・――
日が傾いてミウの部屋を出る時、オレンジ色に染まった彼女を見ながら、俺は自分の決意を語った。
「俺、夢が出来た。苦しくて、険しい道だけど頑張るから。だから……」
うまく言葉に出来なくて、もごもごと口ごもってしまう。
「どんな夢かは存じ上ませんが、ハヤトさんならきっと叶えられると信じています。夢を叶えることを諦めないで下さい。どんなことがあっても夢は絶対に逃げません。私はあなたが夢を叶えるまで応援しています、ずっと……」
口ごもった俺に対して、彼女は微笑んで言葉をくれる。
その言葉はどこか自分にも言い聞かせているようにも見えて。
見た目は細く儚いのに、彼女の瞳と言葉からは力強さを感じられた。
俺もミウに負けるわけにはいかない。
絶対叶えるんだ、俺の夢を。
あぁ……いま思い返してみれば、俺は自分の本当の想いをちゃんと伝えられていなかった。
俺が立派に成長して君のもとに行くまで待っていて欲しいってこと。
もし、君が恐れていたことが起こったとしても、俺は君から離れていかないってこと。
ちゃんと伝えられていたら、いまこんな思いをしなくて良かったのかな……?
この時の俺は、無責任に夢を語れるほど子どもでもなくて、残酷な現実と向き合えるほど大人になりきれてもいなかったんだ。
――・――・――・――
「隼人、ありがとなぁ。おかげでばぁちゃん安心して過ごせたよ。またおいでなぁ」
玄関の前で、目を潤ませるばぁちゃん。
今日は春休み最終日。
思った以上に盛りだくさんだった十数日が終わり、いよいよ家に帰る日がやってきて。
「ばぁちゃん、大袈裟だって。泣かないでよ、また来るから」
「今年は受験生だし、身体には気をつけるんだよ。隼人の進む道は険しいけど、ばぁちゃんはめいっぱい応援してるからね」
「ありがとう。父さん母さんを説得するのは大変そうだけど、頑張るよ。ばぁちゃんも身体に気をつけて。腰も大切にしないとさ。それじゃ、またね」
ばぁちゃんに向かって大きく手を振って別れ、懐かしい我が家へと向かう。
ほんの少しの寂しさを抱きながら歩いていくと、いつもの坂道が目にとまった。
「わぁ……すげー」
立ち止まり、思わず声に出してしまった。
坂道をおおうように咲き誇る満開の桜。
薄桃色の花で出来たトンネルと、風が強く吹くたびに舞い落ちる無数の花びら。
花々の隙間からのぞく、澄んだ青色の空。
見とれてしまって、ただただその場に立ち尽くした。
そんな満開を迎えた桜たちの中で一つだけ色が異なり、花びらを散らす速度の速い木があった。
それは、あの早咲きの桜の木。
「やっぱり今日もない……か」
ぽつりと呟いた言葉はすぐに風の音にかき消され、虚しさだけが残る。
ミウと会ったあの日以来、桜色の手紙は姿を消し、その代わりにとでも言うように周囲の桜が次々と色づいていった。
彼女は『これまで』文通できたことが嬉しかった、と言っていたからきっと、俺から離れていくことを選んだんだ。
前向きに過ごしているように見えても、悲しい結末を頭のすみで描いて、誰かとの続きを紡ぐことを恐れているのかもしれない。
親しくなればなるほど、別れの時が辛くなるから。
いまは離れてしまうかもしれないけど、大丈夫だ。
俺たちはまた会える。
きっとまた、思い出を語り合える。
そう自分に言い聞かせて坂の上を見ると一人の少女が立っていた。
あれは……ミウ?
亜麻色の髪と白いワンピースの後ろ姿と、ひらひらと舞い散る白い桜の花びら。
くるりとこちらへと振り向いた少女は、俺を見て穏やかに笑った。
口をパクパクと三回ほど動かし、そしてもう一度微笑んでいった。
困ったような幸せそうなような、不思議なその笑顔……。
「ミウ……何? 聞こえないよ」
俺が呟くように言うと、ぶわりと強い風が吹き付け、舞い散る花びらたちと共にミウは静かに姿を消してしまった。
「何だったんだ、いまの……」
さっきの少女は明らかにミウだった。
だけど、ミウのはずはなくて。
「あぁ、幻か」
ミウのことを気にするあまり、彼女の幻を見てしまったんだ。
だけどよかった。夢でも幻でも、彼女の姿を一目見られたから。
決意を強く固めることが出来たから。
君のいる風景は、とても綺麗だった。
いつかまた、いまみたいな景色が見たい。
優しく笑う君と、美しい満開の桜、そして澄んだ空の青。
そのためにも、頑張るんだ。
次にミウが桜色の手紙をくくりつけたら、届けようと思っていた空色の手紙。
幼い子どものように夢を語り、大人のように現実的に夢を叶える方法を書いた、俺の決意が込められた手紙。
ミウの前では話せなかった言葉がつまった手紙。
それが入ったカバンを強く握りしめ、坂の上へと向かって行った。
だけど……その手紙を木にくくりつける日が来ることはなかったんだ。
――・――・――・――
――あの日から、いつまでも俺の夢は叶わぬまま。
――もう全てが手遅れなのかな? 君にはもう会えないの?
あれから一体、何回春を越えたことだろう。
何度桜色の手紙を確認しに行ったことだろう。
俺は高校時代に描いた夢を叶えていた。
それはハタから見れば、だけど。
睡眠時間や遊ぶ時間を削り、勉強漬けの毎日を送り、友人との関わりもぐんと減ってしまって、ようやく手にした資格。
スーツの上に白衣をまとい、首には聴診器を下げ、左手には診察道具の入った大きなかばんを抱えていた。
誰よりも勉強し、誰よりも頭を下げて教えを請うて得られた脳外科医としてのこの腕。
夢をつかむことの出来なかった、この腕……。
「あ、どうも。中町です、診察に来ました」
大きな門の前のインターホンに向かってそう話しかけていく。
「中町先生、お迎えに上がりますのでそちらで少々お待ちください」
インターホンのスピーカーから聞こえてくるのは柔和な老齢の男性の声。
いまは玄関から入っているけど、高校生の頃は裏口から入ったんだよな……。
木のトンネルを越えて、庭で執事の佐野さんに出会って。
そこからミウに会ったんだ。
でも、もう彼女はどこにもいない。
「お休みの日でしょうに、ありがとうございます。先生のご活躍、耳にしておりますよ。まだお若いのに本当に頭が下がります」
ロマンスグレーの髪をした穏やかな執事、佐野さんが深々と頭を下げていった。
あの日から、ちっとも変わらない礼儀正しさと穏やかさに昔を思い出し、心が苦しくなる。
「確かに俺は、多くの命を救ってきました。でも、本当に救いたかった人は救えませんでした。俺の夢は……叶えられなかった」
「中町先生、そんなにご自身を責めないでください。もう昔のこと、先生が医師になる前のことです。心を痛める必要はないのですよ」
佐野さんは、ぽんと優しく俺の肩に手を乗せて微笑んだ。
その言葉に涙がにじみ、視界が揺らいでいった。
屋敷の中に入り、あの日のようにゆっくりと階段を上り、一番奥の部屋へと向かう。
「お嬢様、中町先生がいらっしゃいました。失礼してもよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
このやりとりもあの日のよう。
でも、中にいるのは君じゃない。
かちゃりと音を立ててドアが開いていく。
中で待っていたのは、亜麻色の髪に透き通るような白い肌の美しい女性。
白いワンピースに、桃色のカーディガン。
こんなところまであの日のままだ。
「中町先生、お忙しいなか来てくださってありがとうございます」
にっこりと笑った彼女から放たれる言葉。その言葉が俺を苦しめる。
姿はミウそっくりだけど、ミウじゃない。
彼女は……桜庭美雨。
手紙も俺のことも知らない女性。
もちろん、他人である俺のことをハヤトとは呼んではくれない。
「記憶は、戻りませんか?」
「ええ、病院で手術が終わって目覚めたところからしか記憶がないのです。早く取り戻したいのですけれど……」
「焦らずに、じっくり取り戻していきましょう」
嘘をつけ。俺が一番焦っているくせに。
心の中でそう自嘲する。
「ありがとうございます」
そんな俺の心の中などわからない桜庭美雨は、優しく笑った。
その笑顔も、声もあの日のままだ。
桜庭美雨は、ミウの妹だとか、そういうことではない。
十年近く前に、ミウは突然記憶を失ってしまった。
俺が高校二年生だった春休み最後の日、ばぁちゃんちから実家に帰った日のこと。
昼ごろに発作が起きて、そのまま脳の緊急手術になったそうだ。
彼女は俺に連絡を取らなかったんじゃなくて、取れなくなっていたんだ。
それまでの彼女は、記憶を失う可能性のある手術だから、と脳の手術を拒否し続けていた。
いつかはしなければいけない手術。大きな発作が起きたらせざるを得ないその手術を……。
ミウは、ずっと決心がつけられなかったと話していた。
全てを任せたいと思えるような医者に会えなかったし、彼女にとって外での生活ができないことより、記憶を失うことの方が恐ろしかったからだ。
そんななか、ミウが見知らぬ誰かと文通をしようと思ったのは、手術の決心をつけるためだったようで。
外の景色を知り、生活を知り『記憶をなくしてでも周りの人と同じように外の世界で生きたい』と思えるように、文通を通して外のことを知ろうと考えた、とかつて彼女は語っていた。
そして、あの日……ミウからこの話を聞いて以来、俺の目標は医者になること、になった。
いや、それだけじゃない。ミウを救えるほどの腕を得て、彼女の記憶を失わせずに手術を成功させること、それが俺の夢だった。
だけど皮肉なことに、ミウは俺が医者になろうと決意を固めた数日後にはもう、いなくなってしまっていて……。
俺の知らないうちにミウは、美雨という別人になってしまったんだ。
「桜庭さん。今日は俺、車で来ているので海に行きませんか?」
そう言うと「海ですか、いいですね」と嬉しそうに彼女は笑った。
失った記憶を取り戻すために俺が脳外科医として出来ることは何もない。
何もないが俺はこうやってこの数ヶ月間、治療という名目で彼女を連れて歩いていた。
刺激を与え続けることで、記憶が戻るかもしれないという奇跡を信じていたから。
「車で出かけるのは初めてですね」
助手席に乗り、シートベルトを肩から掛けていく美雨。
「そうですね、これまでは近場を散歩する程度でしたから」
「海で何をするんですか?」
彼女は首を傾けて尋ねる。
「手紙を届けるんです。届くことのなかった最後の手紙を」
「海の近くに住んでる人へ届けるのですか?」
「いいえ、違うんです。俺の用事につきあわせてしまってすみません」
美雨を見て微笑むと、彼女は不思議そうな顔で可愛らしく首をかしげていた。
しばらく車を走らせると、海に着いた。
よく海釣りをしたあの海だ。
「潮風が気持ちいいですね」
長い髪をたなびかせて美雨は笑うが、俺を見てすぐに身をすくめていった。
それは、俺が真剣な顔で彼女を見つめていたから。
「桜庭さんは……」
そう声をかけると、彼女は小さな声で「はい」と返事をしていく。
「十六・七歳頃の春に文通をしたことは覚えていますか?」
覚えているはずがない、それをわかっていて問いかける。
目を伏せて、彼女は呟くように答えていく。
「いいえ……わからないです、忘れてしまって。ですが、手紙は大切に箱にしまってありました。ハヤトさんという男の子と文通をしていたようですね。とても明るくて優しい男の子のようでした。私も思い出したいのですが……」
「俺は、ハヤトという男を知っています。彼は……ミウさんのことが好きだったんです。いつも優しい言葉と元気と喜びをくれる、強くて儚いミウさんのことが好きで好きで」
俺の横顔をじっと見つめる美雨。
それにかまわず、俺は話を続けていく。
「ある日ミウさんに会って彼女の苦しみと夢を知った彼は、一つの決断をしました。彼女を救うために脳外科医になろうと思ったんです。記憶を無くさないで手術が出来る程の腕を持つ医者に。本当に単純ですよね」
美雨は、はっとした表情をして俺を見て、自分の口元を両手で押さえていった。
「高校三年生に入ってからハヤトは血のにじむような努力をして、ようやく脳外科医になりました。医者になってからも、休む時間も削りただただ腕を磨く日々を送りました。そして、先月あなたの家を訪れ、そして記憶を失ったあなたに出会った」
「……っ、中町先生ごめんなさい、ごめんなさい……何で思い出せないの……!?」
俺が文通相手のハヤトだと気付いた美雨は口元を両手で押さえ、ぽろぽろと涙をこぼしながら、記憶を失くしていることを何度も謝っていく。
「泣かないで。君に謝ってほしいからこんな話をしたわけじゃない。俺は、あの時届くことのなかった手紙を届けて、前に進みたいってそう思った。ミウを失くして以来、俺の時間は……奇跡を願うばかりで止まったまま。夢だって、諦められずにずっと引きずったままだから」
しゃくりあげている美雨の髪を優しく撫でたあと、俺は大きなかばんからそれを取り出した。
「中町先生、それは……?」
「紙飛行機だよ。これは、俺の決意が書かれたミウへの最後の手紙。これを海に向かって飛ばそうと思う。どこかへ消えてしまったミウへ、俺の想いが届くように。そうしたら俺はもう、君にミウを重ねるのはおしまいにするんだ」
「中町先生……?」
俺の話す内容がつかめないのか、美雨は首をかしげていく。
「君はこれまでつらい思いをしてきたと思う。記憶がないのに、周りは過去の君の記憶があるのだから。桜庭美雨らしくない行動をとれば、周りは悲しんだり、落ち込んだりしていたんだろう? そんな周りの姿を見て君は、周囲の言葉から桜庭美雨を想像して、周囲が知る桜庭美雨という少女を演じながら生きてきている。違う?」
俺の言葉に涙腺が壊れてしまったのか、美雨はぼろぼろと大粒の涙をこぼし始め、声をあげて泣きだしていった。
「私、どうしたらいいのかわかんないんです。記憶も戻らないし、桜庭美雨がどんな人だったのかもわからない。周りが求めているのは彼女であって、私じゃない……っ」
「もうそんなに頑張らなくていいよ。演じる必要なんてない、ありのままの君でいい。俺も想いをいなくなったミウに届けて、止めていた時間をちゃんと進めるから」
美雨に向かって微笑んだあと、きらめく朝の海に向かって青色の紙飛行機を飛ばしていった。
透き通る青空と群青色の春の海。
水平線に向かっていくように、空色の紙飛行機は風に乗ってどこまでも飛んでいく。
その様子を、俺と美雨は並んで静かに眺めていた。
やがて紙飛行機は徐々に水平線へと交わり……青色の景色に溶け込むように消えていった。
「中町先生」
「ん、何?」
「さっきの手紙、何が書かれていたんですか?」
「絶対医者になってみせるってことと……んー、あとは内緒」
「内緒って、そう言われると気になります」
拗ねたように頬を膨らます美雨。
「ははっ、その顔リスみたい」
「もう! ごまかさないで下さい!」
彼女は口をへの字に曲げて可愛らしく怒っていた。
――・――・――・――
「あ、そうだ。あともう一つ、君に見せたいものがあるんだ。すごく綺麗な景色があってさ」
そう言って俺は美雨をそこに連れて行った。
車を止めて、歩いて目的地へと向かう。
あの春の日、何度も通った桜の咲く坂道へ……。
「わぁ……すごい」
目をキラキラと輝かせて美雨はその景色を見つめていた。
あの日と全く変わらないその景色。
舞い落ちる無数の桜の花びらと、薄桃色の桜のトンネル。
昔と変わらず早咲きの白い桜は、ひと足早く葉をつけ始めていた。
「中町先生、すごいですよ!」
彼女は坂道を駆け上がっていく。
「ちょっと、あんまり体強くないんだから、無理は……」
無理はいけない、そう言いかけて言葉を止めた。
これは……いつか見た光景と同じ。
綺麗な桜の下で佇む美しい女性。
亜麻色の髪をたなびかせ、白いワンピースをまとった後ろ姿。
ひらひらと舞い散る、白と薄桃色の花びら……。
俺があの日望んだ景色がそこにはあった。
俺を見て優しく笑う美雨と、美しい満開の桜、そして青く澄んだ春の空。
彼女の記憶は失ったまま。
だけど、このままでもいいだろ?
夢を叶えることはできなかったが、俺の望んだ景色が見れた、それで十分じゃないか。
そう思いながら、俺も美雨のもとまで駆け上がる。
俺が彼女のもとに着くと、美雨はにこりと笑って優しく話していった。
「中町先生は、さっき夢を諦められないって言ってましたが、夢は諦めないで下さい。どんなことがあっても夢は絶対に逃げません。私はハヤトさんが夢を叶えるまで、ずっと応援していますから」
「美雨、その言葉……それにいま、ハヤトさんって……」
「え? あれ、何でなんでしょう。無意識のうちに出てしまって……あれ、おかしいですね……」
澄んだ瞳から、ぽろぽろと真珠のような涙をこぼしていく彼女。
あぁ、そうか。
いなくなってしまった君は……ちゃんとここにいた。
記憶がなくても美雨はミウなんだ。
美雨の中に、あの日の君を見つけたよ。
桜の下で静かに消えたミウが話した短い言葉が、長い時を越えたいま、ようやくわかった。
ミウ、君はあの時……『またね』と、そう言ったんだろ?
俺は一人うつむいて一粒雫をこぼし、小さくうなずいた。
大丈夫、俺たちはここでまた会えたのだから。
君の記憶が戻ろうと、戻らまいと、きっとこれからも美雨とたくさんの思い出を作って、ずっと一緒に語り合える。
――・――・――・――
きっともうこれからは、ここで桜と空の色をした手紙を見ることはないだろう。
そのかわりにまた来年も再来年もその先もずっと、ここでこの青空と咲き誇る桜の花を一緒に見よう。
紙飛行機で飛ばした言葉、最後の手紙に書かれた決意と俺の想い。
『どんなことが君に起ころうとも、俺はずっと君のそばにいる』
あの時、届けられなかった言葉を――――
いま君に届けるよ。
今は無きエッセイ村で書かせていただいたお話です。
プロットは子猫夏様よりいただきました。