escape ~妖精伝承~
誰かに呼ばれて、町はずれの森へと向かった。
自分を呼ぶ声は、遥か遠くから響くような、とても近くで囁かれるような、地の底から呻いてくるような、白銀に覆われた空、そこから降ってくるような不思議な声だった。
――あなたは誰なの? 声さん。どうしてわたしを呼ぶの? 声さん。
どこからか声が聞こえてくる。声は、自分を不思議と惹きつける。それが、なぜ呼ぶのかはわからない。
――森へ行けば良いの? あなたは妖精なの?
厚さがあるだけの、ぼろぼろな衣服を纏って馬屋を出る。外に出ると、そこは吹雪で覆われていて、人の歩みを遮ろうとしていた。
けれど、それに構わず白銀の世界へ飛び出す。
声が自分を呼ぶ理由はわからない。それでも、声の下へ行かなければ。なぜだかそう思った。
冷たい風が氷雪を乗せて、体を打ち付けてくる。自分の体を抱きしめながら、吹雪の中を歩く。
辺りから、遠吠えが聞こえてきた。腹を空かせた狼達が、獲物を求めている。彼らに見つからないよう祈りながら、声の下へ進む。
――声さん、待ってて。
吐息が混ざって、大気を白く染めては風へと混ざり消えていく。自分が歩くと、そのつど足跡が生まれ舞い散る雪でそれらも。
そのことに一抹の感傷を抱きながら、声の導きに従い白銀の中を歩く――。
しばらくすると、視界に森が入ってきた。
葉は全て散っていて、緑はない。けれど遠目で、その枝先で何かが光っているのがわかった。
森の中に入って、その正体に気づく。
枝に雪がまとわり付き、光を反射している。樹木に張り付くその氷は、さながら雪の花とも言えた。
枝を覆い尽くす花によって、雪の樹海が作り出されている。
そこからこぼれた落花を踏みしめながら、森の更に奥へと進んでいく。
空気はより凍てつき、体温を外と肺の内から奪っていく。
森の中心近くに辿り着くと、どこからか声が聞こえてきた。
静かに、耳を澄ませる。
それは、いままでの声に似ていた。でも、いままでと違って、確かに〈音〉として耳に届いてきた。
白い壁。
気づけば、密度の高い雪の風が、周囲で荒れ狂っている。
それが、一斉に自分に向かって流れてきた。
……。
目をつむって、風が収まるのを待つ。暴威が過ぎた後に、ゆっくり周囲を見やった。
『――』
視線の先には、木と雪だけがある。
――?
だけど、目の前には何かがいる。そう感じた。
――居るの?
汚れた衣服を握りしめながら、目の前の空間に話しかける。
――声さん。わたしを、どうして呼んだの?
沈黙を保ちながら、返事を待った。その時間は、数秒程度にも、あるいは、数時間もの長さにも、感じられた。風花が舞い散る音だけが、場に響く。
何も見えない、何もないはずの空間から、声が届く。
――声さん? わたしが、欲しいの……?
慎ましい胸の中に、何かの感情が灯った。
がらんどうを見つめ、唇を動かす。
――声さん、声さん。
いや、違った。それは初めからあったものだ。
〈人〉の気配はそこにはない。しかし、そこに向かって言った。
――……いいよ。
自分を呼ぶ理由。それは、わかりきったことだった。
――わたしをあげます。……でも、痛いことはしないで、約束。
全てを隠すように、白い、白い、吹雪が蔽い尽くして。
吹雪いた後には、雪の花だけが取り残された。
北欧に住む一人の奴隷の少女。
彼女は、白銀の中へと囲われて、がらんどうにさらわれた。
冬童話2013参加作品。
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