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金木犀の香る頃

作者:

それは今から五年ほど前のこと。

そう、人の世界で言えば。

柔らかな記憶が、僕の頭を掠めていった。



------------


カタカタカタ……――

革の鞄に入った書物が揺れる独特の音。

それは、空から降り注ぐ木漏れ日と共に、僕を覚醒へと導いた。


真っ先に目に飛び込んだのは、まるで香りがそのまま色になったかのような橙。

むせ返るような金木犀の香。


もうそんな季節か、と重い身体を奮い立たせた。

落ちようとする瞼を擦りつつ見やれば、ちょうど道の向こうから、飛ぶように駆けてくる赤いランドセルが目に入る。


いや、正確にはランドセルを背負った少女だ。

どうやら音の源は彼女のようであった。


もうすっかり耳に馴染んでしまった聴きなれた音。

実際のところ、幾年も経たわけではないのに。


やがて冬を迎えようかという季節の風は、もう既に冷たくて、その冷気に少女の頬はほんのりと染まっていた。

ぽってりとした、白くて柔らかそうな肌に薄桃色。それがどうにも、紅白の大福を思い起こさせて、ふふ、と思わず笑い声が漏れた。

「なにをわらってるの?」

それはちょうど、少女が金木犀の木の前に差し掛かった時だったものだから、うっかり聞こえてしまったらしい。てっきり、そのまま通り過ぎるものだとばかり思っていた僕は、少なからず驚いた。

「やあ、もう視えるのかい?」

「そりゃあ」

 もう満開だもの。少女は短い身体に付いた首を垂直に傾けて、金木犀の木を仰いだ。

「おそかったね。ねすぎじゃないの? 妖精さん」

 咎めるような口調で、少女が言った事を、そうだなあ、と肯定するわけにもいかず、僕ははたと困ってしまった。

 言えるわけがない、あの音がしないと目が覚めないだなんて。

 こんな怠慢、下手をすれば冗談で済まされない事になるのだけれど、実際のところ、影響は些細なものなのだから、今こうして許されている。少しの我儘くらい、別に言ったって構わないのだろう。

「でもよかった。香夜、待ってたのよ。今日は遊んでくれるんでしょう?」

 少女は嬉しそうに微笑んで、期待に満ちた目を向けてきた。

 僕が返事をしようと口を開くより先に、まん丸の目を更に大きくして、ぱっと飛び跳ね、思いついたばかりの妙案を嬉々として発した。

「そうだ! ねえ、一緒に学校に行こう。そうすれば夕方までずっと遊べるでしょう?」

 行こう行こうと催促され、強引に腕を引かれて、僕は慌てた。

小学校も中盤に差しかかるまでに成長した少女は、童の格好をした僕の身長をとうに越えていたので、うっかりすればそのまま引っ張られて行ってしまう。

しかし、そんな物質的な道理よりも、絶対的な原理によって、それは不可能であったが。

「ま、待って! 僕は行けないんだ」

「どうして?」

 とたんに、しゅんとしなびてしまった笑顔に、ちくりと罪悪感を感じたけれど、こればっかりはどうすることもできないから、僕は精一杯謝るしかなかった。

「ごめんね。ここでなら、いくらでも遊んであげるから。ね、いつものようにここで遊ぼう?」

「……わかった」

 意外に聞き分け良く諦めてくれたので、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 香夜を悲しませるような事はしたくなかった。喜ぶ顔さえ見ていられればそれで良いと控えめな願いしか持っていなかった。

さらさらと柔らかい髪に手をやって、ふわふわと撫でてやる。

とたん、くしゃっとほころぶ顔。

香夜はこうされるのが好きだった。今よりもっと小さい頃から。

ころっと機嫌がよくなった少女は、学校への道を走り出していったが、しばらくも行かないうちに、手を拡声器代わりにして、僕の方を振り返った。

「じゃあ、おばあちゃんにおやつ作ってもらって持ってくる! 何がいい?」

「…大福が、食べたいな」

 走る少女の顔を見て、僕はまた、ふふ、と微笑んだ。





 香夜は僕にとって、唯一であって、特別だった。

糧のいらない花であっても、あの少女だけは掛け替えのない、いわば拠り所となっていたから。

それは、彼女に僕が見えたからとか、そういう理由じゃなくて、きっともし、香夜に僕が見えなくっても、金木犀を見上げる香夜の笑顔だけを見て、癒されて、それで満足だったんだと思う。

 ……たぶん、その方が良かった。



 



 月日が経つのは残酷だ。冬が過ぎて、春が過ぎて、夏が過ぎて、幾度目かの秋も変わらず迎えられるだろうなんて、どうして思っていたんだろう。

 香夜は十二になっていた。

 おままごとも、人形遊びも、かくれんぼも、いつの間にかしなくなった。

だんだんと、世の中に疑問を持って、何が大事なことか知って、他者の存在を意識して、いつまでも成長しない僕を気味悪く思って、もう、今までいたところから片足がはみ出てしまった。

 だから香夜は、もう僕の手を引きもしなければ、木の上にいる僕を見上げもしない。

 来年からは、余所の町の中学校に上がって、この木の前を通ることすらなくなるんだろう。

 僕は僕で、香夜がいなかった数年前に戻って、毎年毎年、二週間やそこらの退屈を我慢するんだ。ただそれだけのこと。




 香夜は、今朝も、ランドセルを鳴らして走っていく。僕が立っている金木犀の横を、素知らぬ顔で通り過ぎていく。

 その姿が、角を曲がって消えるまで、ただじっと見つめていたけれど、結局最後まで、少女は僕に気付かず行ってしまった。だからきっと、これが最後。

 しかたなしに、見上げた木は僅かに橙の花を残すだけで、青さを失った葉が寂しげに揺れている。

 僕は、微かな残り香を吸い込むと、ゆっくり目を閉じた。



 ――学生鞄は大人しい。

薄れゆく意識の中でそんな事を考えて、少し胸が詰まった。































金木犀キンモクセイ】…

モクセイ科の常緑小高木。中国原産の観葉植物で、古くから庭木とされる。

雌雄異株。日本のものは全て雄株で結実しない。

(広辞苑より抜粋)



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