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裏切りの刃

 月の光が届かない、新月の夜。


 響都城の一室にて奇妙な会話が繰り広げられていた。


「命を長らえることと、世界を存続させること。より大きな視点で考えればもちろん優先させるべきは後者だが、しかしあくまで個人の主観で考えるとしたら、それはやはり前者を優先させるべきだとは思わないか?」


 酒を片手にゆったりとした口調で語りかけているのは城の主、松平容保。


 白い着物を着流して、若干だらしない姿勢で酒をあおる。


 語りかける先には誰もいない。


 容保がいる部屋には、ただ静寂のみが存在する。


「たとえばの話だ。己が愛した唯一の女が世界にとっての毒だったとする。その女を殺せば世界が救われる。この世界そのものか、愛する女か。どちらかを選べと言われたら、どうする?」


 しかし容保はお構いなしに語り続ける。


 壁の向こうに、天井の裏に、どこかにいると確信している誰かに向かって。


「答えは人によって違うだろう。世界のために愛する女を切り捨てる者もいれば、たった一人のために世界を敵に回す者もいる。ただ一つ言えることは、どちらを選んだとしてもそいつ自身には何の未来もなくなるという事だ」


 語り続けて、語り聞かせる。


「つまりそういう運命に嵌ってしまった時点で、そいつには未来を殺す以外の選択肢は残されていない」


 自分自身か。


 世界そのものか。


 どちらを選んだとしても、その未来には死がつきまとう。


「さて、そこで質問なのだが、お前自身はどんな未来を望んでいるんだ? 殺す未来か? それとも生かす未来か?」


 語りかける声は、どこか空虚だった。


 障子の向こう側から、黒装束に身を包んだ斑鳩が現れる。


 答えを返すために。


 頭部には布を巻いていないので素顔を晒している。


 斑鳩は容保を暗殺しに来たはずなのだが、素顔を隠すことはしなかった。


 自分自身として、相手と向き合って、そして殺す。


 自らの意志で人を殺せないままの斑鳩は、そうすることでしか覚悟を決められない。


「……俺は、あいつの存在しない世界は許さない。あいつの存在しない世界が存在し続けることを許さない」


 そして正面から容保を向き合う。


「会うのはこれが初めてだな、芹沢斑鳩」


「俺を、知っているのか」


 斑鳩という名前だけならば不自然ではないが、芹沢という苗字まで知っているとなると話は別だ。


 歳三のことも、天牙の民のことも、そして斑鳩のこともかなり深いところまで知っていることになる。


「意外そうな顔をするなよ。余のあの女に対する執着はすでに知っておるのだろう? だったらあの女の周りについて徹底的に調べているのは当然だ」


「………………」


「むしろ気になるのは情報源か? 少なくとも正規の響都隠密からの情報ではないがな。その辺りまで教えてやる義理はないが、まあ余個人にも色々とあるとだけ言っておこうか」


「………………」


 斑鳩は二本の短刀を構えたまま、容保へと近づいていく。


「余を殺しに来たのか?」


「そうだ」


「余を殺したところであの女の破滅は避けられんぞ。余があの女を生かしているからこそ、天牙の民は存在を許されている。余を殺せば余の臣下は止まらない。すぐにでも天牙の民への総攻撃を開始するだろう」


 化け物と呼ばれる種族への恐怖は、そう簡単には消えない。


 かつて総攻撃を仕掛けた時、圧倒的な数の差にも関わらず人間側の犠牲が大きすぎた。


 天牙の民はそれだけの力を持っている。


 人間ではなく化け物としての力。


 それがいつ再び自分たちに向けられるか分からない。


 あの闘いに参加した兵士達はみんな同じ事を考えている。


 一日でも早くあの化け物達を根絶やしにしなければと。


 それを辛うじて踏みとどまらせているのは容保の命令だからだ。


 容保が歳三への執着を見せたからこそ、天牙の民は生き残ることを許されている。


 その容保を殺してしまえば、天牙の民に対する歯止めはきかなくなる。


 あとは完全なる滅ぼし合いが待っているだけだろう。


 響都領主・松平容保。


 土方歳三を追い詰め、壊そうとしている斑鳩にとっての敵は、間違いなく天牙の民を守る最後の防壁なのだ。


 だが、


「関係ないね」


 斑鳩は即答した。


 天牙の民の命運も、歳三の破滅も。


 全てを顧みず己の願いのために動くと決めたから。


「あいつが一人で耐え続けなければ守られない存在なんて、滅びてしまえばいい。あいつ一人が不幸になる世界なんて、俺は許さない。その先にあいつ自身の破滅が待っているとしても、俺は最後まであいつを守る」


「なるほど。大した覚悟だ」


 容保は逃げない。


 己を殺しに来た暗殺者を目の前にして、自分では絶対に敵わない存在と対面して、それでも無様に逃げ回ったりはしない。


 もとよりこの程度で逃げるような神経の持ち主ならば、歳三と二人っきりになったりしない。


 殺される覚悟で歳三を壊そうだなんて、思いついたりはしない。


 容保はいつでも殺される覚悟を決めている。


 己の命を代償に、己の人生を愉悦で満たしている。


「余とお前のあの女に対する立ち位置は対極にあるわけだな。お前はあの女を愛し、余はあの女を壊す。そして今こうやって対峙している。ああ、この状況はなかなかに面白い」


「……あんた、本音はどこにあるんだ?」


「ん? 何のことだ?」


「トシのことだよ。トシを壊したいと言いながら、別にあいつを憎んでいるわけでもないんだろう? 人間側のリスクも自分の命も省みずあいつに執着する本当の理由は一体何なんだ?」


「………………」


 斑鳩には分からない。


 どこまでも虚無でしかない容保の心情は、満たされたいと願う存在には理解できないのだ。


「……なるほど。つまりお前は余にこう言いたいわけだな? 『本当はお前も歳三を愛しているのではないのか』と」


「……違うのか?」


 どんなに酷い目に遭わせたとしても、結局のところ容保は歳三のことも、歳三が守りたいと願っている天牙の民のことも守っている。


 その真意はそういうことではないのだろうか。


 単純な斑鳩はそう考えてしまう。


 しかし、


「はははは! いいな! お前の頭は単純で羨ましい! 余があの女を愛しているだと!? 最高だ! 最高の冗談だよ、芹沢斑鳩!」


 斑鳩の質問は、想いは、嘲笑で返されてしまう。


「……何がおかしい?」


 斑鳩には理解できない。


 今ここで自分が笑い者にされている理由が分からない。


 お互いのあり方が対極過ぎるが故に、容保のことを理解できないのだ。


「……くくく。いや、大したことではない」


 腹を抱えながら容保は笑い続ける。


 こんな愉快なことはない、とでも言いたげに。


「なあ芹沢。お前は人が人に執着する理由が愛と憎悪だけだと、本当に信じているのか?」


「なに……?」


「世の中には大した理由もなく、ただ快楽と愉悦のために他人に執着できる人間もいるということだよ。余のようにな」


「………………」


「あの女は面白い。余は自らの虚無を知っているが故に、あの女の抱えている歪みには惹かれるんだよ。あれを壊すためならこの命だって惜しくはない。命を懸けた人生最大の愉悦と快楽。そういうものにこそ存在する最果て。余はそれが見たい」


「何を言っているのか、まるで分からない……」


「そうだろうな。お前や土方のような奴には分からないだろう。分かってもらいたいとも思わない。だがそんなことはどうでもいい。余はあの女を愛しているわけではない。あの女を手に入れたいという気持ちはあっても、それは余自身の愉悦と快楽のためだ。強いて言うなら玩具を欲しがる子供と同じ感情だよ」


「………………」


 その言葉を聞いて、斑鳩の短刀を持つ手が震えた。


 それは怒りか、憎悪か、それとも――


「そんな事のために……全てを巻き込んだのか……」


 歳三も、天牙の民も、己の臣下も、響都の街そのものも、すべてこの男の感情一つで弄ばれている。


 全ての物が等しく無価値で、全ての者が等しく無意味。


 松平容保にとっての世界は、そこで完結している。


「そんな事にしか全てを巻き込む理由がないのだよ。すべてが等しくくだらないこの世界で、あの女の絶望と苦悩だけが唯一余を楽しませる。言わば人生で唯一の娯楽なのだよ」


「………………」


 ああ、確かに対極だ、と斑鳩は確信する。


 この男と自分は絶対に相容れない。


 歳三のことだけではない。


 在り方そのものが相容れない。


 目の前に在るというだけで堪え難いほどに。


「もういい。喋るな」


 これ以上容保の言葉を聞き続けることは、斑鳩には耐えられなかった。


 耳障りで、不快で、腹立たしい。


「あんたを生かし続けるとトシのためにならない。だからここで死んでもらう」


「ふん。まあいいだろう」


 容保は死んでもらうと言われても特に慌てることもなく、傍らに置いていた刀を手を取る。


 戦闘能力が高いわけではないのだが、それでも最低限の剣術は身に付けている。


 その程度では斑鳩に敵わないことを自覚しつつも、容保は正面から斑鳩と向き合った。



 ――決着は、一撃だった。


 たった一撃で斑鳩は容保の刀を打ち払い、そして短刀をその喉に突きつける。


「………………」


「………………」


 しかしそこから動けない。


 この手を少しでもずらせば容保の命を奪えるのに、その手が震えて動かない。


「……人を、殺せないそうだな」


「………………」


「土方のためなら出来るとでも思ったか? だが結局はこの有様だ」


 容保は短刀を喉に突きつけられたまま、それでも不敵に微笑む。

 

「うるさい……!」


 殺そうとしている。


 殺したいと願っている。


 殺してやると渇望している。


 それなのに、身体が言うことを聞いてくれない。


 斑鳩は己の不甲斐なさを呪った。


 肝心な時に、この手はどうしようもなく役立たずだ。


「お前のような半端者に土方を変えられたかと思うと、実に不愉快な気分だな」


 まるでお気に入りの玩具を穢されたかのように、容保は溜め息をつく。


「うるさい! うるさい! 俺はもう二度とあいつを苦しめたりしない! あいつを壊そうとする奴は俺が殺す! そう決めたんだ!」


 斑鳩は無理矢理に激情を起こし、その感情任せに短刀を振り下ろそうとする。


 己の意志ではなくただの暴走の結果として、容保を殺そうとしている。


 それでは根本的な解決にはならないと分かっていて、それでも守りたい人をこれ以上傷つけないために短刀を振り下ろす。


「え……?」


 しかし、その刃が容保の命を奪うことはなかった。


 斑鳩の腹部から銀色の牙が生えている。


 刀身は長く、深々と斑鳩の腹を貫いているそれは、


「…………ぐっ」


 短刀を握ったままその場に片膝を突く斑鳩。


 その前に刀は斑鳩の身体から抜かれる。


 その衝撃と痛みに再び斑鳩が呻いた。


 腹部から溢れ出る血を目にして、斑鳩は周りの筋肉を可能な限り張り詰めさせる。少しでも出血を抑えるために。


 首だけ後ろを振り返ると、そこには見覚えのある姿があった。


「すみませんね、斑鳩君。いま容保公を殺させるわけにはいかないんですよ」


「山南……敬助……」


 斑鳩の腹を貫いたのは新撰組総長、山南敬助だった。


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