兎と亀と
兎と亀と人間と――
「って。おい、亀!」
元より赤い目を血走らせながら、兎が慌てて振り返った。
「何ですか? 兎さん」
応えたのは亀だ。重い甲羅を背負い、眠たげな目つきをしている。いかにも鈍そうだ。
亀は頭に鉢巻きを巻こうとして、何度も失敗していた。
「何ですかじゃねえよ。兎と亀だろ? 徒競走するのはよ。何だよ。何で、人間がしゃしゃり出てくんだよ」
兎が手元の紙片を苛立たしげに叩いた。どうやらエントリーシートの類いのようだ。兎と亀と人間のイラストが描いてある。
「さぁ? 私にはさっぱりです」
「けっ。まぁ俺様は、亀にも人間にも負ける気はしねえけどな」
「私だって負けませんよ」
「るっせえ! のろまなしゃべり方しやがって。そんな調子で、俺様に勝てる訳ねえだろ」
「兎さんも、油断大敵ですよ。その自信が足下をすくうかもしれませんよ」
「るっせ! るっせ! るっせえ! ん? ほら、見ろ。人間がきたぞ」
兎と亀が顔を上げると、人間が立っていた。頭に鉢巻きをしている。やはり兎と亀の徒競争に参加するようだ。
人間は腰を屈め、二人に向かって口を開く。
「……」
「何か言ってるみたいですね」
「おうよ。だけど、人間の言葉ってのは、分からねえな」
「……」
人間はにっこりと微笑んだ。
「まっ。俺様に挨拶がしたいんだろ。負けが最初から分かっている勝負に参加するんだ。恥をかく前に挨拶とは、殊勝な心がけだ」
「まあ、お互いフェアにやりましょう」
兎と亀がそう言うと、人間はにっこり笑ってスタートラインに向かった。
「お話にならねえじゃねえかよ!」
一等の旗を持った兎が、不機嫌そうに口を開いた。
「確かに私達では、兎さんの相手ではなかったですね。話になりませんでしたか?」
三等の旗の下で、亀が困ったように顔を上げた。
「違うって! お話になってねえって言ってんだよ!」
「どうしました。優勝したのに、不機嫌そうですね」
「おうよ! 兎と亀だから、お話になるんだろ? 普通はよ」
「はあ……」
「お話じゃあよ。兎の俺様が独走する。のろまな亀が後を追いかける。そこで俺様がだな、油断して昼寝の一つでもする。それが原因で負けてしまう。そうだよな?」
「そうですね、お話では。額に汗する者が最後は成功する。そういうお話です」
「それがよ。さぼりもしなけりゃ、のろまでもない人間が、黙々と追いかけてくるってもんだ。俺様、油断する間もなく、普通にゴールしちまったよ」
「でも、まあ勝負ですし。今回は兎さんも、額に汗して一等だった訳ですし」
「だけどよ……」
「ああ、人間が通訳連れて、きましたよ」
亀がそう言って振り向くと、猿を伴った人間が近寄ってきた。
「何々? この度はありがとうございました。だと。負けて何を礼を言ってるんだ?」
「そういうもんですよ。人間の挨拶は」
「それで。何々? 来年以降もぜひだと? まあ、いいけどよ」
「ええ。ぜひ」
兎と亀がそう応えると、人間はにっこりと笑って帰っていった。
翌年。兎と亀と一緒に走るマラソン大会が開かれた。
生意気だが可愛らしい兎。
のろまだが憎めない亀。
それらと一緒に走るその大会は、多くの人間の参加者を惹きつけた。
足に自信のある人間も、そうでない人間もそれなりに楽しめるからだ。
スタートともに、応援も含めた人間の喚声が上がる。
「リサーチだったみたいですね。去年の人間は」
子供に囲まれるように走る亀。周りの人間は走ることよりも、亀の様子に一喜一憂して喜んでいる。
「何だよ? 何で俺様を追いかけるんだよ!」
嬌声とともに大人に追いかけられる兎。皆が兎の後ろを追いかけては、追いつけないと大喜びしていた。
「真面目に額に汗してこつこつとやるのが、一番だって話だよな! 兎と亀のお話は!」
兎は逃げるように駆けながら、後ろに小さくなっていく亀に呼びかける。
「ええ。でも――」
亀は早くも息切れしながら、主催者のブースに振り返る。
そこには去年一緒に走った人間が、涼しい顔をして席に座っていた。人間は今年は一緒に走らなかった。この大会の主催者に回ったのだ。
去年額に汗して一緒に走ったこの人間は――
「頭の中で汗をかく人間には、勝てないってお話かもしれませんね」
とても満足げに札束を数えていた。