中にいるの、知ってるよ
ある夜、奥野は突然、ドアを叩く音を聞いた。
コンコンコン。
「誰だ?」
少し苛立ちながら玄関へ向かう。
部屋を間違えたか、どこかの酔っ払いだろう。
奥野はドアスコープを覗いた。
誰もいない。
ノックの音も同時に止んでいた。
まるで何事もなかったかのようだった。
聞き間違いだったのだろうか。
そう思った、その時。
ドアスコープの端を、赤い影が一瞬だけ横切った。
奥野は勢いよくドアを開けた。
人気のない廊下には、誰の姿もない。
「……ん?」
床に、うっすらと濡れた跡があった。
靴跡だ。
玄関から階段の方へ続いていたが、途中で途切れている。
まるで途中で消えてしまったかのようだった。
奥野は不思議そうに建物の外を見た。
「おかしいな……今日は雨なんて降ってないのに」
首をかしげながら部屋へ戻る。
ベッドに入ったあとも、どこからか水の滴る音が聞こえ続けていた。
その夜、奥野は赤い靴の夢を見た。
翌日の夜。
再び玄関からノックの音が聞こえた。
コンコンコン。
そして次第に激しくなり、誰かがドアを力任せに叩いているような音へと変わっていく。
ドンドンドンドンドンッ!
奥野はびくりと肩を震わせ、警戒しながら玄関へ向かった。
右手にはスマホを握り、いつでも警察に通報できるようにしていた。
ドアスコープへ顔を近づける。
やはり誰もいない。
ぺたっ。
水をたっぷり含んだような足音が、少しずつ遠ざかっていく。
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ。
「……行ったのか?」
奥野は安堵し、その場にへたり込んだ。
ドンッ!
突然の轟音に、全身が跳ね上がる。
震える手で、もう一度ドアスコープを覗いた。
廊下には、人の気配すらなかった。
「ねぇ」
だが、女の声だけが、ドア一枚隔てた向こう側から囁くように聞こえてきた。
「中にいるの、知ってるよ」
その夜、奥野はほとんど眠れなかった。
まどろみの中で、赤い靴がゆっくりと水の中へ沈んでいくのが見えた。
眠っては目を覚まし、それを繰り返しながら、ようやく朝を迎えた。
奥野は慎重に部屋を出て、会社へ向かおうとした。
「……え?」
鍵を持った手が空中で凍りついた。
ドア一面に、無数の暗赤色の手形が残されていた。
小さな手形だった。
子どもか、女性のもののように見える。
奥野は魂が抜けたような足取りで会社へ向かった。
「どうした? 顔色悪いぞ」
同僚が心配そうに声をかける。
奥野は無理やり笑みを作った。
「大丈夫です。ただ寝不足なだけで」
どうやってこの一日を乗り切ったのか、自分でも分からなかった。
奥野はふらつきながら帰宅し、ドアを開けて中へ入る。
そのままドアを閉め、ソファへ倒れ込んだ。
意識は、そのまま闇へ沈んでいく。
ぼんやりとした意識の中で、またあの場所へ戻っていた。
どこからか、泣き声が聞こえる。
ドンドンドンドンドンッ!
激しいドアを叩く音で、奥野は飛び起きた。
彼は自分の部屋へと駆け込み、ドアに鍵をかけた。
布団の中で体を丸め、耳を塞いで震えた。
ドアを叩く音がピタリと止んだ。
それに伴って聞こえてきたのは、はっきりとした足音だった。
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ。
水をたっぷり含んだような、重い足音がゆっくりと近づいてくる。
コン、コン。
静かなノックの音。
奥野は震えを抑えられなかった。
顔から血の気が引いていた。
その音は、ドアの内側から聞こえてきた。
コン、コン。
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