第1話 平穏な社畜計画は水球とともに消える
「レオ様。お慕いしております」
どこからともなく、聞き慣れた、不愉快で甘ったるい女の声。
「あぁ、ソフィア。本当に君は可愛いよ」
そして、すっごく聞き馴染んだ若い男の声が続く。
「あぁ、誰にも渡したくない。君じゃないと駄目なんだ」
「あたしもです、レオ様」
ローゼルは、そーっと灌木の陰から声のする方を覗いた。
王宮の中庭の噴水近く。
そのベンチで男女が手と手を取り合って愛を囁き合っている。
「レオ様は、あたしの従姉ローゼの婚約者様。
選ばれることがないのは分かっております。
けれど、せめてこの想いを伝えることくらいはお許しください」
涙ながらに訴えるソフィア。
それに感動するように目を潤ませるレオーネ。
夜露に濡れる薔薇は、香しい匂いが庭園を包み込む。
月明かりに照らされた庭園で、二人は互いを見つめ合い、抱きしめ合った。
噴水を背景に悲恋の主人公ぶって愛を囁き合い、熱い抱擁と口付けを交わす二人。
なんだ、この三文芝居は。
ローゼルは呆然とした。
これはまさに、婚約者レオーネと従妹ソフィアが庭園で逢引している、つまり浮気現場というものだろう。
(あー、せっかくの酔いが一気に醒めた。
私、なんであんな奴の婚約者なんだろう)
今宵の舞踏会で、大好きなお酒を我慢するのは無理だったけど、他の令息にダンスを誘われてもレオーネの希望どおり全部断った。
一方的な、それも身に覚えのない『今世紀最大の悪女』なんて噂を信じる令嬢たちの嫌味にだって耐えた。
もう無理。
限界。
ローゼルは歌うように詠唱する。
「水よ―― 月影に揺らめき、静かに応えよ。
我が嘆きを映し、澄みし涙を空へと昇らせ、
すべての穢れを、 ひとしずくの祈りで洗い流して―」
この世界には魔法という奇跡の力がある――。
久々に使う魔法だ。
「ふふ」
ローゼルは、なんだか面白くなってきた。
湧き上がるウキウキ感に胸が高鳴る。
そして、ローゼルの狙い通り、噴水の水がぶわっと宙に浮きあがった。
綺麗に仕上がって、宙に浮く水球。
月光に神々しく照らされ、キラキラ光る。
やがて周囲の全ての水が集合体となり、大きな水の球となる。
レオーネとソフィアは、愛を囁き合うのに忙しいのか一向に気づいていない。
(これでも浴びて目を覚ましたら?)
皇帝陛下の御前である王宮で浮気なんて、恥晒しもいいところだ。
ローゼルは、水の球を二人の頭上から落下させた。
バシャバシャ。
派手な音を立てて水が降り注ぎ、二人は一瞬で濡れ鼠になった。
「キャー、なにこれ!」
「うわぁ!」
ソフィアとレオーネは突然の出来事に驚き、ヒステリックな悲鳴を上げる。
ローゼルはくすっと小さく笑った。
(ふん、ざまあみろってもんよ)
胸がすいた思いがして、その場を立ち去った。
背後ではまだ二人が大騒ぎをしている声が響いていた。
けど、ローゼルの足取りは軽い。
鼻歌を口ずさみながら、大広間に繋がる回廊へ戻る。
さて、もう一杯、美味しいワインを飲んでから帰ろうかな。
(そもそもこの国の法律は、皇族以外一夫多妻は認められていないんだから)
私は何も望んでいない――。
ただ静かに、心穏やかに暮らせればいい。
婚約も婚姻も、もうすべてが煩わしい。
仕事とお酒と、ちょっと美味しいものがあればいい。
ローゼルは長袖のドレスの手首を見た。
そこには痣があった。
明らかに誰かに痛めつけられた痕だ。
「へえ、なかなか乙なことをしてるね」
突然男のよく通る声が響いた。
ローゼルは、跳び上がるようにびっくりした。サッと手首を隠す。
振り返ると、回廊の太い柱の陰に背の高い男の姿があって、ギクリとした。
どうやら夜会参加者の貴族男性のようだ。
それにしてもやけに背が高く、体格の良い。
短く刈り上げた漆黒の髪。
男がゆっくりとローゼルに向かってコツコツと靴音を響かせながら近づいてくる。
「水の球か。やるね。
君、魔法、あんなにも上手に使えるんだね」
彼は愉快そうに、くっくっと肩を震わせて笑った。
ローゼルは魔法を使ったことを見咎められたような気がして頬をカッと赤く染めた。
男がローゼルの目の前まで歩み寄った。
月光がその顔を照らし、ようやく誰なのか分かった。
――ルシアン・クレインバール。
あの事件以来だ、正面から彼を見るのは。
令嬢たちが密かに騒ぐだけあって、彼の顔は整っている。
まさに物語に登場するような見目麗しい騎士。
ローゼルは、王宮内務官、いわば官僚だ。
あの事件以来、彼とは書類上で何度かやり取りを交わしたことはあるが、これといって特に接点があったわけじゃない。
書類に不備があっても急ぎの書類以外は、彼の部下や軍部の同期の書記官に渡して修正してもらっていた。
仕事中に王宮の廊下ですれ違う彼は、気骨ある軍服という風貌だ。
けれど、今夜はなんとなく雰囲気が違う。
彼も夜会ゲストとして招かれたようで深い紺色の礼装を纏う。
長い裾のデザインは高い身丈の彼に映えて似合っていた。
普段以上に美しく凛々しい、気品に満ち溢れたその立ち姿は思わずどぎまぎさせられた。
「はしたないところをお見せして申し訳ございませんでした」
ローゼルはぺこりとお辞儀をした。
「いや、あれは彼らに非がある。
だって、あの男、君の婚約者だろ?」
平然と言うルシアンに、ローゼルは急にカッと羞恥心が込みあげてきた。
婚約者に浮気されるのは、惨めで憐れなことだ。
ましてや直接婚約者に文句を言うのではなく、魔法でこっそり嫌がらせをして憂さ晴らしをするなんて、陰湿で陰険だ。
「はい、そのとおりです。
彼は私の婚約者です」
「やはりね」
ローゼルは情けなくなってドレスをぎゅっとつかんだ。
「すべてはあの男が悪いのだからしかたないだろう。
一泡吹かせて痛快だ」
「え?」
ローゼルはきょとんとした。
「ほら、こんなに可愛い婚約者を放っておいて、他の女に現を抜かしてるんだぞ。
少しでもぎゃふんと言わせたくなるのが人情だ」
「ぎゃ、ぎゃふん……」
「だいたいそんな男の誘いに乗る女も女だな。
あれぐらいの罰は当然だろ。
というよりも甘い、甘すぎる処罰だ」
ローゼルよりもルシアンの方が憤っているようで、ローゼルはぽかんとした。
そして、あのルシアン・クレインバール卿から「可愛い」って言われた。
シンプルかつダイレクトな常套句。
美形が言うと、その威力は恐ろしいほど発揮する。
ローゼルは徐々に鼓動が爆音のように鳴り始めて、身体が熱く火照り出したのを自覚した。
(落ち着いて、これは社交界によくある美辞麗句というものよ)
ローゼルが何度もそう言い聞かせていると、やがてルシアンが踏み込むようにして一歩ローゼルに近づいた。
「俺はね、君のしたことを咎める気もない」
はっきりというその強い言葉に、何故かローゼルは強烈に胸を揺さぶられた。
ルシアンはローゼルのハーフアップの下ろしている髪をそっと一房つかむ。
「むしろ、いい加減パーティーには飽き飽きしていてね、面白いモノを見せてもらって感謝しているぐらいだ。
ありがとう、ローゼル・イースティリア嬢」
彼の爽やかな柑橘系の香水が漂う。
耳の奥に絡みつくような甘く低い声音。
ゆったりとした話し口調。
熱を孕む視線に、ローゼルはその色気に戸惑った。
「でも、よかったのか?
あのまま二人がお揃いで水浸しでは、あらぬ噂が早々と広まるよ」
「ああ、そういえば」
冷静になってみると、そのとおりだ。
つい魔法の水の球をぶっかけたけど、お揃いの水浸しではあの二人が一緒にいたことを自ら広めてしまったことになる。
考えなしだったのは自分の方か。
でも、後悔してない。
むしろ気分はスッキリしたし、結局のところ遅かれ早かれ二人が逢引していた話は広まる。
「まあ、そうですね。
でも、いいんです。
むしろスカッとしましたから」
「ほう。余裕だね」
「そんな、余裕とかじゃなくて……。
これを機にあっちから婚約破棄を願い出てくれたら、ラッキーだなと思っているくらいです」
ローゼルは肩をすくめた。
そうすれば、今後ソフィアに変な絡まれ方はしないだろうし、レオーネだって好きな女性と結ばれてみんなハッピーだ。
このまま「妊娠しちゃったの」とかで結婚すればいいのになあと、不謹慎ながらも心底願う。
ああ、早く婚約破棄したい。
ローゼルはうんざりする。
「あははは!」
突如、ルシアンが豪快に大笑いするので、ローゼルはぎょっとした。
「あ~、いいね、その潔いところ。
君は早々と婚約破棄を望んでいるわけか」
「あまり大きな声では言えませんが、はい、さっさと彼と縁を切りたいです」
ハッキリと言い切るローゼルにルシアンはますます愉快そうに肩を揺らして笑う。
「俺の見込んだとおりのご令嬢だ」
「え? 見込んだ?」
ローゼルは首を傾げた。
「ああ。まったくもったいない。
こんなにユーモア溢れる女官を放っておくなんて。
愚かな男だな。
俺なら君にそんな寂しそうな顔をさせないのに」
小さな声でルシアンが呟き、ローゼルの髪を指先で弄ぶ。
心臓が早鐘を打つ。
距離が近い、近すぎる。
「私は、全然寂しくないです。
私が気難しい顔をしているのは……興が冷めたからです。
美味しいお酒を飲めれば、私はご機嫌です」
ローゼルは平静を装い、口を尖らせた。
「へえ。言うねぇ」
「あっ、すみません、言い過ぎました。
酔っ払いだと思ってお許しください」
「あはは、全然構わないよ。
じゃあ、俺はその可愛いご尊顔を見れるよう努力しないとな」
ローゼルは頬を分かりやすくぼっと赤く染めた。
また「可愛い」って言った。
レオーネから毎回「可愛げがない」と言われているのに。
(いや、だから、落ち着け、私。
これは社交辞令というもの。真に受けてはならない)
高鳴る胸の鼓動を必死で押さえながら、ローゼルは何度も反芻する。
期待したら駄目。
望んではいけない。
だいたい顔が良い人って、それだけで得だ。
美辞麗句と分かり切っている台詞なのに、凄まじい攻撃力がある。
それに、きっと私はふだん殿方から褒められることに慣れてない。
だから、その単語ひとつで舞い上がってしまうんだろう。
「ローゼル・イースティリア嬢」
ルシアンがローゼルの髪から手を離し、少し身を屈ませた。
そして、手を差し出す。
ローゼルは目をぱちくりさせてルシアンを見上げた。
「是非とも俺と一曲踊っていただけませんか?」
ローゼルは周囲をきょろきょろした。が、回廊には誰もいない。
「私とですか?」
「ああ。他に誰がいるんだ?
俺はちゃんと名前を呼んだよ」
「えっと……」
「ほら、踊ろう。イースティリア嬢。
婚約者がよその女と一緒にいるんだ。
君だって他の男一曲ぐらい踊っていた方が少しは気が紛れるだろ?」
「まあ、そうかもしれませんが……」
「ファーストダンスは、ウルーム伯爵子息とすでに踊ってはいるんだろ?」
「ええ、一応婚約者なので」
「じゃあ、建前上問題ない」
ローゼルが返事をする前に、ルシアンがローゼルの手を颯爽と握った。
その一瞬、ルシアンは何かに気づいたように眉をひそめた。
それにローゼルはぎくりとした。
(……痣を、見られた?)
けれど、ローゼルの心配をよそに、ルシアンは華やかで屈託のない笑顔を浮かべる。
繋がれた手の温もりと、向けられる真っ直ぐな甘やかな熱。
それらが混ざり合い、抗いようのない甘さとなって彼女の顔を薔薇色に変えていった。
「さぁ行くぞ」
ルシアンは、キラキラ輝く煌びやかな大広間までローゼルを連れて繰り出した。
ローゼルは彼の強引さには驚いたが、手を引くその手は優しくて、なんだかこそばゆい。
「キレイな手だ」
ルシアンはそっと手の甲に口付けを落とす。
今まで感じたことのない甘美な疼きが体を駆け巡った。
官能的とさえ思ってしまう甘くて熱を孕んだ眼差し。
ルシアンはローゼルの腰に手を添え、ぐっと自分に引き寄せた。
吸い込まれそうになる瑠璃色の双眸に、ローゼルは酔いしれる。
華やかな大広間に入ると、タイミングよく新たな曲がかかった。
「これはちょうどいい」
彼の手がますますローゼルの腰を引いて、共にくるりと回転する。
ぐっと距離が縮まって、ルシアンのあまりにも美麗な顔が近くなった。
甘く胸が昂ぶった。
美しさに気圧されて、言葉が出ない。
ルシアンの瞳から目が離せない。
ローゼルは深く囚われて瞬きすらできなかった。
体が熱い――。
差し出された手を取った瞬間、ローゼルの『平穏な社畜計画』は音を立てて崩れ去った。
――これが、後にローゼル自身の人生をひっくり返す恋の始まりだとは、まだ気づいていなかった。




