恋をするなら君と~仲良しで幸せな婚約者~
わたくしは婚約者のユーリイ様に早く会いたくて、下位貴族校舎の廊下を早足で歩いていた。
教科書やノートの入った重い鞄を片手に、帰宅していく生徒たちの間をすり抜けて先を急ぐ。
この王立学園は、校訓が『己の自主性を養う』。生徒は従者や侍女を連れず、自ら鞄を持って歩くの。
制服もないのよ。女生徒はドレス姿。男子生徒は騎士服の者もいれば、貴族らしい長い上着の首元にスカーフを巻いた者もいる。
わたくしは下位貴族校舎の一階に下り、校舎と校舎を繋ぐ回廊を通り、学習校舎に入った。
学習校舎の一階にある図書室には、伯爵令息であるユーリイ様がいるはずだった。
わたくしはオーク材の扉を開けて、急いで図書室に入った。かすかに紙とインクの香りがする。
図書委員のいるカウンターの前を素通りし、書架を横目に見ながら、図書室の奥へと向かう。
図書室の窓際には、樫の木でできた学習テーブルが並んでいるの。
わたくしとユーリイ様は、放課後になると、いつもその一つで一緒に勉強している。
わたくしは、学習テーブルの手前で足を止めた。
ユーリイ様は、まだ来ていない。
わたくしはゆっくり学習テーブルに近寄り、席についた。
教科書とノートを広げ、ペンとインクも出して、勉強の準備は完了よ。
わたくしは窓の外に目をやった。
冬が終わり、日差しがだいぶ春らしくなってきている。
庭園の花壇では、黄色や紫色のパンジーが咲いていた。
もっと暖かくなったら、チューリップが咲き始めるだろう。
「ユーリイ様は、まだかしら……?」
いつもなら、同時に到着するか、ユーリイ様の方が早いのに……。
わたくしは一人で勉強を始めることにした。
ユーリイ様のことが気になるけれど、わたくしは子爵令嬢なので、上位貴族校舎には入れない。
上位貴族も、下位貴族校舎には入れない。
以前、王太子殿下が男爵家の庶子に入れ込んで大問題になったことがあり、このような決まりができたらしいわ。
だから、わたくしとユーリイ様は、学習校舎や中庭などで会っているの。
――ユーリイ様、今日はだいぶ遅いのね……。
隣国語の単語をノートに書き並べながらも、考えるのはユーリイ様のことばかり。こんなことでは、単語なんて覚えられないわ……。
わたくしが小さなため息を一つ落とした時だった。
図書室の扉の開く音がして、軽快な足音がこちらに向かってきた。
「タチアナ嬢、待たせてすまない」
ユーリイ様は頬を少し赤くしながら、わたくしの前の席に座った。
「いいえ……、わたくしも、さっき来たばかりですわ」
わたくしはノートに目を向けた。
ユーリイ様のふわふわの短いハニーブロンド。空色の瞳。整ったお顔立ち。どれもが、わたくしにはまぶしすぎて、あまり直視できないの。
対するわたくしは、地味なダークブロンドの髪と、緑色の瞳。顔だって、そこまでかわいくないわ……。いたって平凡な下位貴族の容姿なの……。
「私のクラスのグラータ伯爵令息が問題を起こしたんだ」
誠実なユーリイ様は、遅れてきた理由を説明してくださるようだった。
「問題、ですか?」
わたくしはノートから顔を上げて、ユーリイ様を見た。
「ああ。婚約者のレガヴォール伯爵令嬢に向かって、『学園にいる間だけは、自由に恋愛させてほしい』と言い出してね」
「まあ……」
「グラータ伯爵令息は、どうも下位男爵クラスにいるライサ嬢に恋をしてしまったらしいんだ」
「ライサ嬢……」
わたくしにはライサ嬢なる方が思い出せなかった。隣の隣のクラスにいるはずなのだけれど……。
「登下校の時に見かけたらしい。ピンクブロンドの愛らしいご令嬢らしく……。あっ、いや、これはっ、グラータ伯爵令息の言葉であって、決して、私の考えではない。タチアナ嬢、勘違い、しないでほしい……」
ユーリイ様は慌てながら、顔をさらに赤くされた。
「はい……、わかりました」
わたくしもまた、顔を赤くしてうつむいた。
「それで……、レガヴォール伯爵令嬢が、『上位貴族と下位貴族で王立学園の敷地を分けるべきだ』などと言い出して……。話がどうなるか気になって、その場を離れられなかった」
「まあ……」
今でさえ、ユーリイ様とは放課後くらいしか会えないのに……。
敷地まで離れてしまったら……。
「王立学園の敷地を分けるより、婚約を解消する方が手っ取り早いということで、二人の間で話がまとまったよ」
「それは……、まあ……、そうですわよね……」
グラータ伯爵令息は三男で、レガヴォール伯爵令嬢は跡取り娘。グラータ伯爵令息は婿入りされるご予定だったはずよ。
グラータ伯爵令息は、安定した未来をお捨てになるほどに、ライサ嬢がお好きだったのね……。
「ああ……。グラータ伯爵はお怒りになるだろうし、ライサ嬢のお気持ちもあるだろうが……」
「そうですわね……」
わたくしとユーリイ様は、実家の領地が隣り合っているの。
ユーリイ様のご実家の領地には広い森があり、わたくしの実家の領地には大きな川が流れている。
森で伐採された木々は、川を使って各地へと運ばれていく。
ユーリイ様は伯爵家の跡取りで、わたくしの実家は兄が継ぐ。
両家が末永く良好な関係を保てるように、わたくしとユーリイ様は婚約したの。
「それで……、その……、タチアナ嬢」
ユーリイ様はなにかを言いかけて、やめてしまわれた。
わたくしが顔を上げると、ユーリイ様はテーブルを見ておられた。
「なんでしょうか……?」
ユーリイ様の前には、まだ教科書もノートも出ていない。
――ユーリイ様……。
今日はきっと、ユーリイ様はもう勉強するどころではないだろう。
わたくしは自分の教科書やノートなどを鞄にしまった。
そうしている間も、ユーリイ様はずっと黙っておられた。
「ユーリイ様、中庭の噴水の横で、タンポポが咲いておりましたのよ」
わたくしはユーリイ様に幸せになってほしい。
だって……、ユーリイ様が大好きだから……。
「ああ、やっと咲いたのか」
ユーリイ様が顔を上げて、わたくしを見た。
「ええ。見に行きませんか?」
わたくしがほほ笑みかけると、ユーリイ様も「行こうか」と笑ってくださった。
図書室には図書委員もいれば、他の生徒たちもいる。
ユーリイ様がなにを言おうとしたのかは、わからないけれど……。
それはきっと、人目のないところで聞いた方がいいお話だろう。
わたくしとユーリイ様は席を立ち、図書室を出て、中庭に行った。
ユーリイ様は並んで歩く時、いつもわたくしの鞄を持ってくれて、歩幅も合わせてくださる。
中庭には、他の生徒の姿はなくて――。
噴水の横のタンポポは、一輪だけ鮮やかな黄色い花を咲かせていた。
「かわいいな」
「そうですわね」
わたくしはユーリイ様と並んでタンポポを見ていた。
「それで、タチアナ嬢……」
「はい……」
また、ユーリイ様は黙ってしまわれた。
そんなに、なにが言いにくいのだろう……。
「私たちは、婚約して長い」
「はい」
わたくしたちが生まれた時に、親同士が決めた婚約。
領地は隣だったけれど……。
お互いの領地館の間には、広い森と川があった。
わたくしたちは王立学園に入学するまで、ほとんど会ったこともなかった。
「それで、だな……」
「はい」
「そろそろ……、ターニャ嬢、と……」
「はい?」
ターニャ嬢……?
「愛称で……、呼ばせてもらえたらと……」
わたくしは隣に立っているユーリイ様を見上げた。
ユーリイ様は顔だけでなく、首や耳まで真っ赤にされて、わたくしとは反対方向の空を見上げておられた。
「あ、あら……。はい……。あの……、はい……」
わたくしは両手で顔を覆った。わたくしだって、顔から首や耳まで真っ赤のはずよ。
わたくし、てっきり、ユーリイ様にも、どなたか、お好きなご令嬢ができたのだ、と思ったのに……。
「心配で……」
「心配、ですか……?」
なにを心配することがあるの……?
「私は伯爵家の出だ……。上には、公爵家や侯爵家がある……」
「はい」
「自由に恋愛などと言って……、いつ……、公爵令息や侯爵令息が、ター、タチアナ嬢に、近づくか……。わかったものではない」
「なに、なにを、おっしゃるのですか……。そんな……。そんな心配……、ご無用ですわ……」
わたくしはライサ嬢という方の容姿を知らないけれど……。
ピンクブロンドなんていう珍しい髪色で、しかも愛らしい方なのでしょう……?
わたくしとは目立ち方からして、だいぶ違うと思うわ。
「だから、その……、ター、タチアナ嬢。なにか、困ることが……、あったなら……。すぐ……、すぐに、私に言ってほしい」
「わかり……ました……」
困ることなんて、きっとないと思うけれど……。
「では、今日は……、もう……、帰るとしよう」
「そう、そうです、わね」
ユーリイ様が離れていく気配がした。
わたくしは顔を覆っていた手をどけて、ユーリイ様の背中を追いかけた。
「ユーリイ様」
わたくしはお礼を言うために、ユーリイ様の横に並んだ。
「ター、タチアナ嬢」
ユーリイ様がこちらを向いてくださった。
その時――。
わたくしとユーリイ様の手の甲が、パチリ、とぶつかりあった。
「ま、まあ……」
「すまない……」
わたくしとユーリイ様は、ぶつかった手を自分の胸元に抱え込んだ。
「わたくしったら……、はしたなくて……。申し訳ありません……」
わたくしったら、なんてこと……。
こんな……、大胆すぎるわ……!
舞踏会でもないのに、こんな……。
「いや……、いいや……! そんな……! そんなことないよ。婚約者同士なのだし……」
「そう……、そう、でしょうか……?」
「かなり……、うれしかった……」
ユーリイ様が小声で言った。
わたくしは、顔がものすごく熱くて……。
胸もどきどきしすぎて……。
ユーリイ様に返事ができなかった。
わたくしとユーリイ様は、さっきより少しだけ離れて、馬車止めへと歩いていった。




