スクランブルの片隅で
さくらはいつも同じ時間に渋谷を歩いた。
午後七時。オフィスから吐き出された人たちがスクランブル交差点を埋め尽くす時間。誰もが誰かと連絡を取りながら、誰かのことを考えながら、それでいて完璧に孤独な顔をして歩いている。さくらはその波の中に紛れ込んで、自分も流されるふりをした。
本当は行くところなんてなかった。
二十六歳。渋谷の小さな広告代理店に勤めて四年目。実家は静岡で、友達は少しずつ結婚して、週末に会う人間は気づけばいなくなっていた。部屋に帰ると観葉植物が一鉢あって、名前はつけていなかった。名前をつけてしまうと、枯らしたときに申し訳ない気がしたから。
彼の名前は、颯太といった。
出会ったのは去年の秋だった。
恵比寿のバーで、友人の誕生日パーティーがあって、さくらはその端の方に座っていた。人混みが苦手なわけじゃない。ただ、賑やかな場所にいると、自分だけが薄いフィルム越しにその場所を見ているような感覚になる。笑い声が少しだけ遠い。グラスを持つ手が少しだけよそよそしい。
颯太は向かいに座って、ずっとビールを飲んでいた。
話しかけてきたのは彼の方だった。「あの観葉植物、なんかうなだれてる」と言って、バーの隅に置かれたポトスを指さした。確かにうなだれていた。水が足りないのか、葉の先が少しだけ茶色くなっていた。
「かわいそうだよね」とさくらは言った。
「でも生きてる」と颯太は言った。
その言葉が、どういうわけか、刺さった。
颯太は映像関係の仕事をしていた。フリーランスで、収入は不安定で、でも目に見えないものを丁寧に扱う人だった。話を聞くのがうまかった。というより、さくらが話したいと思っていることを、颯太はなぜかいつも先に知っていた。
月に二回か三回、会った。
決まって夜で、決まって二人で、でもそれがなんなのかを、二人は一度も言葉にしなかった。
さくらは颯太のことが好きだった。好きという言葉が軽すぎて使いたくないくらい、好きだった。颯太がどんな音楽を好きか、どんな夢を見るか、子供の頃の傷がどこにあるか、全部知りたかった。隣にいるとき、時間が溶けていく感じがした。
でも颯太には、遠距離の彼女がいた。
大阪にいる、美容師の女の子。名前は聞かなかった。聞いてしまったら、その人が実在してしまうと思ったから。
ある木曜日の夜、颯太から連絡が来た。
「会える?」
それだけだった。
さくらは仕事の途中だったけど、すぐに「うん」と返した。後悔はしていない。後悔するための時間も、理由も、持ち合わせていなかった。
代官山の小さなカフェで、颯太はコーヒーを両手で包んで座っていた。少し、疲れた顔をしていた。さくらが向かいに座ると、颯太はしばらく黙っていた。
「別れた」と颯太は言った。
さくらの心臓が、一拍、変な動き方をした。
「彼女と」
「そうか」とさくらは言った。
何も聞かなかった。理由も、いつのことかも。ただ、颯太の目が少し赤いことに気づいて、それが愛しくて、同時に申し訳なかった。傷ついている人を、こんなふうに愛しいと思う自分が、うまく呑み込めなかった。
その夜、二人は代官山の路地をずっと歩いた。行き先なんてなかった。ただ歩いた。颯太は何も話さなくて、さくらも何も言わなかった。信号が赤になるたびに立ち止まって、また歩いた。
渋谷川の暗い水面が、街灯を映してゆらゆら揺れていた。
颯太が立ち止まった。
「さくらって、俺のこと好き?」
聞き方が、ひどく静かだった。責めているわけじゃない。ただ確認しているような。まるで、天気を聞くみたいな声だった。
さくらは少し間を置いた。
「好き」と言った。「ずっと」
颯太は何も言わなかった。さくらの手を、そっと握った。温かかった。指が少し震えているような気がしたけど、それが颯太の震えなのか自分の震えなのか、よくわからなかった。
それから三ヶ月が経った。
二人は付き合うことになった、とは少し違う言い方をするべきかもしれない。ただ、会う回数が増えて、連絡する回数が増えて、気づいたときにはそういうことになっていた。
さくらは幸せだった。幸せという言葉が似合わないくらい、ただそこにいることが自然だった。颯太の部屋の本棚に自分の文庫本が一冊混ざっていて、それだけで何かが確かになるような気がした。
でも。
颯太は、ときどき遠くを見た。
さくらが話しているときでも、二人で笑っているときでも、颯太の目が少しだけどこか別の場所に行くことがあった。さくらにはわかっていた。どこを見ているのか。誰のことを思っているのか。
口には出さなかった。
愛しているから、出せなかった。
五月の終わり、颯太から「話がある」と連絡が来た。
待ち合わせは渋谷のスクランブル交差点の前だった。人がいちばん多い場所を颯太が選んだことに、さくらはある種の優しさを感じた。泣いても、ここなら誰も見ていない。誰もが自分のことで精一杯だから。
颯太は来て、すぐに言った。
「大阪に行く」
さくらは頷いた。
「彼女と、もう一度やり直したい」
また頷いた。
言葉が出てこないというより、言葉を探す必要がなかった。知っていたから。ずっと前から知っていた。颯太が遠くを見るたびに、知っていた。それでも一緒にいたかっただけだった。
「ごめん」と颯太は言った。
「ありがとう」とさくらは言った。
颯太が少し驚いた顔をした。さくらは続けた。
「一緒にいてくれて」
それだけ言ったら、もうだめだと思ったから、軽く手を振って、人の波の中に入っていった。
後ろを振り向かなかった。振り向いたら、全部崩れると思ったから。
今もさくらは毎日この交差点を渡る。
夜七時。人が溢れている。誰もがどこかへ向かっている。信号が青になって、さくらも歩き出す。
胸の中にはまだ颯太がいる。痛みというより、温度として。消えないし、消したくもない。ただそこにある。観葉植物の葉先が茶色くなっても、それでもまだ生きているように。
部屋に帰ったら、観葉植物に水をやろうと思った。
今日こそ、名前をつけてやろうと思った。
枯れたとしても、もう、申し訳なくない気がしたから。




