「アナと雪の女王」の真実の愛をエーリッヒフロムの『愛するということ』から考えてみる
今回は、「アナと雪の女王」の真実の愛をエーリッヒフロムの『愛するということ』から考えてみようと思います。なんでこんなことを考えたのかいえば、それは東京ディズニーシーのファンタジースプリングスに行き、アナ雪のライドにのったからです。今のディズニーってファストパスなくなっていたのを知ってすごいびっくりしたんですが、それはまた別の時に話します。
ー真実の愛ー
「アナと雪の女王」のアトラクションの中においも、何度も繰り返されるのが「真実の愛」です。凍ったアナをエルサが溶かすシーンでオラフが「真実の愛が氷を溶かしたんだよ。(うろ覚え)」というのは印象に残っていると思います。
ここでいう真実の愛とは何か。
それは「ハンス王子とアナとの愛」と「アナとエルサとの愛」との対比においての「アナとエルサ」の愛のことです。
エルサとの「愛」は、ハンスのようなものとできる短期的な「愛」とは違うのだと、そう訴えかけているわけです。では、この二つの「愛」は一体何が違うのでしょうか。
ー『愛するということ』エーリッヒフロムー
エーリッヒフロムという人は、社会心理学者であり、『自由からの逃走』『生きるということ』『悪について』などの本を残しています。特に主に第二次世界大戦のナチス、ファシズムの研究で「大衆社会」というものを論じた『自由からの逃走』はご存じの方も多いかもしれません。
ここで出てくるのが『愛するということ』には、「愛する」ということが本質的にどのような行為であるかということを論じています。フロムは冒頭でこのように述べます。
愛については学ぶべきものは何もない、という思い込みを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」(falling love)という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛する人と共に生きるという持続的な状態とを混同していることである。
ここでフロムは明確に「アナとエルサ」「アナとハンス」の愛は明確に別のものであるとし、かつ「アナとハンス」の愛は本質的な愛ではない、と述べているわけです。
ー愛とは何かー
では、そもそも愛とは何でしょうか。
愛にはたくさんの愛があります。「自己愛」「友愛」「恋愛」「親子愛」「宗教的愛」などです。フロムはこれらの「愛」は全て本質的に同じものであるとしています。つまり、「親子愛」も「宗教的愛(神を信じる愛)」も「夫婦愛」も全部していることは同じというわけです。
愛とは特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」に対してではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する「態度」であり、性格の方向性のことである。
つまりフロムのいう「愛」とはすなわちキリスト教の「汝、隣人を愛せよ」ということです。愛というものは一人だけに対して「できる」ことではなく、すべての人を愛する態度を持っていなければ誰か一人をも愛せない。
すべての人を愛していなければ誰一人愛することなどできはしないのです。
あらゆる種類の「愛」はすべてこの「すべてを愛する」ことを基本として対象ごとに分かれているだけなのです。
自信をもって「あなたを愛している」と言えるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」といえるはずだ。
ここで重要なのは、フロムは何度も「愛する」と繰り返すことです。
「愛される」でもなく「愛する」ということ。
つまり、フロムのいう「愛」とは「能動的行為という態度」であるということです。「愛する」という行為は自らの力をもって愛さなければなしえることはできません。本当の意味で「愛する」ということは決して「愛される」という「受動的態度」であってはならないのです。
ー間違った愛ー
フロムは「恋愛」というものはしばしば勘違いされる「愛」である、とした上で、こう述べます。
恋に「落ちる」という劇的な体験、すなわちさっきまで他人どうしだったふたりの愛の壁が突然崩れ落ちるという体験と、混同される。(中略)突然親密になるというこの種の関係はそう長続きしないものである。
ハンス王子とアナの愛というものはまさにこのような愛だったのでしょう。しかし、このような愛は果たして「愛」といえるのでしょうか。「恋愛」というものは基本的に他者(恋人)との合一、統合を目指しています。ハンス王子とアナの二人は、お互いの身の上話や互いの好みなどで自分と相手が同一の存在であることを確認しあいます。これがいわゆる「壁を乗り越える愛」すなわち「落ちる」愛だったわけです。
しかし、この愛には一つ大きな落とし穴があります。それはアナのハンスへの愛の裏には「孤立」を克服したいという欲求があることです。ずっと姉であるエルサから避け続けられ、一人で孤独だった。それは戴冠式に至る日まで変わらなかったわけです。そこに自分のことをわかってくれる(と思っている)理解者が現れ、孤立、孤独を解消してくれるとなれば「落ちる」愛をしてしまうことも理解はできます。ですが、その愛は結局「ハンス王子」そのものを愛することではなく、「孤立」を解消したいという「受動的行為」でしかなかったのです。
ー性欲と愛ー
少し汚い話をしますが、愛というものを述べた人物として精神分析学者のフロイトが挙げられます。フロイトは「無意識」の概念を生み出し、今の精神医学の基礎を作った人物ですが、フロイトは「愛」というものは「性欲の昇華」であると述べています。フロムはフロイトを批判する立場の人間なので、フロイトのいう愛を「違う!」と否定した上で、いわゆる「勘違いされた愛」はフロイトのいう「性欲の昇華」であるとも述べています。つまり、「受動的な」「落ちる」愛は性的欲求がでてきているだけ、というわけです。
これをアナに当てはめれば、「ハンス王子に一目ぼれしたこと」=「性的欲求」であったともいえるわけです。一つ勘違いしてはいけないのは、別にアナ自身が変態だったとかそういうことではありません。いわゆるこの「性的欲求」はあらゆる要因によって高められます。
性欲は、愛によって搔き立てられることもあるが、孤独の不安や、征服したいとかされたいという願望(サディズム、マゾヒズム)や、虚栄心や、傷つけたいという願望や、ときには相手を破滅させたいという願望によっても掻き立てられる。性欲はどんな激しい感情とも結びつき、どんな激しい感情によっても駆り立てられるようだ。
作中で「生まれてはじめて」なんて歌ってるぐらいですから、彼女の戴冠式への期待値、興奮はとんでもないものだったでしょう。そういう要素と共に、もともと持っていたアナの「孤立」と「孤独」がハンス王子への一目ぼれにつながり、そこから「嬉しさ」などの高まった感情が彼女を「落ちる」愛に導いた。すなわちアナの愛は、「孤独」と「孤立」という「受動的」要素によって駆り立てられたものでしかなく、本当の意味で「恋愛」ではなかったのです。
ークリストフの示す「恋愛」ー
さて、アナの愛が「愛」ではないという結論を出したところで、そこと対比される「正しい」愛も示されています。それがクリストフです。
アナとクリストフは当然「一目ぼれ」なんかしていないし、後半では匂わせてきますが、最初は全くといっていいほど「愛」なんて芽生える要素はないわけです。しかし、最初こそクリストフとアナは「しょうがないから」の付き合いだったものも、互いに話をし、ゆっくりと信頼していくようになります。これはまさにフロムのいう「能動的な」真の「恋愛」といえるのではないでしょうか。
こう考えると、あの一回会ったきりでアナを「落とし」てしまえるハンスという奴は相当な事前準備をしたうえでアナを調べ上げて、すべて計算づくでやっていたということなのでしょうか。国一つ乗っ取るんだからそれぐらいするのかもしれないですが、あいつヤバいですね。
ーエルサの愛ー
さて、今度はエルサの愛についても見ていきましょう。「アナとハンスの愛」との対比として「アナとエルサの愛」が存在するのだとしれば、「アナとエルサの愛」は「互いの能動的な愛」ということになります。つまり、「アナはエルサ」を愛し、「エルサはアナ」を愛するということです。この二人の愛は「姉妹愛」ですから、そこそのものは「能動的な愛」であったと解釈していいと思います。
アナがエルサを(氷となってでも)助けるという行為は、「アナ→エルサ」、エルサがアナに抱き着くという行為が、「エルサ→アナ」という愛を示し、これがそろったから氷が解けたのだ、これが真実の愛なのだ。まさに互いの能動的な愛といえるでしょう。
(ただし、アナが助けに行ったのは「エルサが死にそうだから」という受動なのでは、と言われたら、それはそう。しかし、助けに行かないのも愛じゃないので微妙なところ。)
と、ここで終わってもいいんですが、もう少しエルサの愛について考えてみましょう。エルサはかつてアナを自分の能力によって怪我させています。そして、最後のシーンにおいても同じことをしてしまっている。氷が解けるシーンが最高の状況、すなわち「燃え上がるような愛」であったとするならば、逆にエルサが絶望して首を切られそうになっているシーンが「愛」を失った最低の状態であるはずです。では、そのエルサの最低の状態において失っていた「愛」とは何かと言えば、それは「自己愛」ではないでしょうか。
ー自己愛ー
他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。
フロムはこう述べます。愛というものは、本来すべての人々に向けられるものであり、それは自分にも同じである。そう、自らも自らを愛することが「愛」なのです。
しばしば自己愛は利己主義と一緒にされます。確かに見た目からすれば自分のことをいつまでも持ち上げ続ける自分大好き人間のようです。しかし、フロムはそうではなく、むしろそれは正反対であると言います。
利己主義と自己愛は正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなさすぎるのだ。いや、実際のところ、その人は自分を憎んでいるのだ。
これは簡単にいえば、「誰かを愛せない人間が自分を愛せるだろうか。」ということです。フロムの言う「愛」は全ての人に向いています。そして、「愛する」ということそのものの方法や根本も変わりせん。であるならば、他人を愛せないナルシシズムな人間はそもそも愛し方を知らないし、そんな人間が自分を愛せるわけなどないのです。
利己的な人間は自分を全く愛せず、自分の生きる理由そのものが見つけられません。そのような人間はいつまでも欲求不満から抜け出せず、その埋め合わせをしようと必死にもがくものの、それが満たされることはない。実に不幸な存在なのです。
この自分を愛せていない、もっと言えば憎んですらいるエルサに当てはめれば、エルサは「利己主義」であったのかもしれません。自分への愛をもっと欲していた人間だったけれど、それは「アナ」という存在が「自分を愛してくれている」と信じていたからこそ出てこなかった。しかし、ハンス王子との愛を見せられたことによって、自分への愛がないことを知って怒り、自分の本当の自分「ナルシスト」を押し込めなくなった結果の「わがまま」だったのかもしれません。
ー真実の愛とはー
では、結論としてオラフのいう「真実の愛」とは何か。
それは「すべての人を愛する能動的な愛」です。
ハンス王子との「受動的な」愛ではなく、自らの意思でもって力強くもたらされた愛であり、エルサはアナをアナはエルサを愛し、それを互いに認識することによって、氷が解けたのです。(たぶん氷が解けることそれ自体には自己愛は関係ない)そして、エルサは「自己愛」を取り戻す。これがこの物語のいう愛だったのかもしれません。
こう考えると、ディズニーの「アナと雪の女王」はしっかりと対比を入れて、よく考えらえて作られた作品だなぁ、と感心しますね。ちなみに私は、ディズニー史上稀にみるとんでもなく「俗っぽい」理由で悪を働くハンス王子は結構好きです。
ーおまけ:エルサとアナが愛を失った理由ー
ここからちょっとしたおまけです。この『愛するということ』には「親子の愛」に関する章があり、そこには「親子の愛」が適切に受けられなかった人はどうなるのか、という記述があります。そこをいれながら少し考えてみます。
母の愛と父の愛
フロムは母の愛について述べています。
母の愛はその本質からして無条件である。母親が赤ん坊を愛するのは、それが彼女の子どもだからであって、その子が何か特定の条件をみたしているとか、何か特定の期待に応えているからではない。(中略)無条件の愛は、子どもだけでなくすべての人間が心の奥底からあこがれているもののひとつである。
母親が子供を愛するような愛は、それは「無条件の愛」、つまり、「生きている」ただそれだけで肯定してくれる愛であるのです。そこには「何かをしたから」「何かができたから」という理屈は存在せず、「生きている」以上の何の理由も必要ないのです。宗教における神様などはしばしばこのような形態をとっていることが多いです。
一方で、これと反対の愛が「父の愛」です。
母親は私たちが生まれた家である。自然であり、大地であり、大洋だ。父親はそうした自然の故郷ではない。(中略)父親は自然界を表しているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち、思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表している。子供を教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。
父親は当然子供を生みません。ですから幼児期における父親の愛はそこまで重要ではありません。しかし、この社会という存在は「生きているだけで素晴らしい」という程甘くはないわけです。社会が押し付けてくるあらゆる問題に自分の力で対処する力を身につけなければならない。したがって、父親に求められるのは母の「無制限の、無条件の愛」ではなく、「従わなければ愛されない」という「条件付きの愛」なのです。
父親の愛は条件つきである。「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待に応え、自分の義務を果たし、私に似ているからだ。」というのが父親の原則である。
この父の愛と母の愛は、どちらが大事だとかいう話ではなく、どちらも大事なのです。この母の愛、父の愛が正しい時期に、正しく子供に注がれることによって、「母親的良心(あらゆる人を愛する、無条件の肯定)と「父親的良心(従うこと、自立に向けて努力する)」の二つが子供に生まれ、併存、統合していくことで自分を保ち、生きてくことができるようになるのです。
※ここでいう「父親的愛」「母親的愛」は父親と母親がいないといけない、ということではなく、こどもの心の発達の原理としてそのような性質のものが必要と述べているだけです。なので、父親や母親がいなくても、その二つの愛を代わりに注いでくれる人がいればいいのです。そもそも父親と母親がいる家庭でもバランスを誤ってしまえば子供の良心は生まれません。
ー母親的愛の欠如?ー
アナとエルサの両親は、残念ながら作品冒頭、二人が小さいうちになくなってしまいます。それから先の教育はお付きの人がしていたでしょうが、その教育がどのようなものであったかはよくわかりません。ただ、エルサに関して言えば、明らかに自分を抑圧し、社会的に正しくあろうという意識が強迫的なレベルで見えるので、「父親的愛」が強く、「母親的愛」が少なかったのではないかという仮説は立ちそうです。
「父親的愛」が強すぎる人間は、「無条件の全肯定の愛」がありません。したがって、表面的には「父親的」で「自立した」「しっかり者に」見えても、実はきわめて一辺倒な「父親的志向」の人間で、無条件の愛を期待したり、受け入れたりすることができない人間になってしまいます。
これはエルサにおいていえることといえるでしょう。「自分が何とかしなければならない」という「父親的愛」に支配されて「母親的愛」をそもそも知らないのかもしれません。「今日だけは上手くやろう」というのも、一方的な「父親的愛」の結果「強迫神経症(原文ママ)」的な状態に陥っていたのかもしれません。このような状態でエルサがハンス王子との愛を言えば、当然「父親」として反対すると同時に、そのような「肯定してくれる愛(本当は違うけど)」を自分の中で受け入れることを拒絶してしまっていたのでしょう。
さて、この「母親的愛」がなかった説ですが、アナにも当てはめられます。
反対に、母親が冷たく、何かを求めても答えてくれなかったり、支配的だったりすると、その人は、ある場合には、母親に保護されたいという欲求を、父親やその後に出会う父親的な人たちに転移する。
この状態、どこかで見覚えがあります。「ゆきだるまつくろう」な場面そのままではないか、と。両親がなくなったアナにとって母親のような愛を受けたかったはずです(あの年ですし)しかし、それをしてくれるはずの姉のエルサは本意ではないにしても、アナの要望を聞き入れることはなく、突っぱねてしまいます。アナ自身は特段、愛が足りなそうな感じはありませんが、本当は「母親的愛」に飢えていたのかもしれません。それがあの閉鎖的なアレンデールという場所柄と合わさって、全方面に爆発してしまったのが戴冠式でのハンス王子との出会いだったのかもいれないですね。
ー終わりー
どうだったでしょうか。なんかふと思いついたことをただ書き連ねてみただけですが、ずいぶんな分量になってしまいました。この『愛するということ』は『自由からの逃走』の続編のような位置づけになっていて、ここからフロム最後の著作『生きるということ(To have or To be)』に続いていきます。
愛することは「技術である」。フロムはこうこの本の中で強調します。「愛される」ことばかりを考えてはいけないのだ。私たちが「愛さなければならない」。絵をかいたり、ピアノを弾いたりするのと同じで、それらは技術を身につけなければできるようにはならない。待っていてもできないし、「能動的に」に行動しなければならない。「愛」だって同じことなのです。
フロムは「能動的に生きること」もひたすら強調します。自らの力で、自らの意思をもって生きる。これこそが「愛するということ」なのであり、「生きるということ」なのであると。そうすれば死の恐怖だって乗り越えられる。そういう社会にしていかなければいけないのだ。
私は、フロムは結構好きな人だし、『愛するということ』自体も最近新装版が出るくらいには有名な本です。『愛するということ』はそんなに難しくないので、みなさんもぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
参考文献
『愛するということ』エーリッヒフロム 紀伊国屋書店