チョウセンアサガオ
目を閉じて辞書を引き、偶然行き当たった語をテーマに書く短編。今回は「チョウセンアサガオ」です。
ナポレオンによるロシア遠征中のフランス、パリ。そこにあらゆる苦痛を取り除く丸薬を作る医者が居た。若い軍人カミーユは、上官命令でその丸薬を軍で使用すべく医師であるクレマンの家を訪れる。人々が称賛するその丸薬を大量生産するためにクレマンから材料を聞き出そうとするのだが、彼は決して明かそうとしない。
チョウセンアサガオ
「クレマン先生!」
カミーユはパリにあるアパートの一室を前に、ドアノッカーを分厚い木の扉に叩きつけていた。このちっぽけなアパートに住んでいるはずの医師、クレマンの名を呼んだのはこれで何度目だろうか。近所の住人にも聞いて回ったが、今日、クレマンは街に出ていないはずだ。この扉の向こうに居るのに出て来ない。
「クレマン先生! いらっしゃるんでしょう! 出て来て下さらないと、こちらとしても力ずくでお顔を拝見する事になりますよ!」
腹の底から声を張り上げると、扉の向こうから微かに物音が聞こえた。だが、まだ扉は開かない。
「クレマン先生!」
カミーユが再びドアノッカーに手を伸ばしたと同時に扉が開き、カミーユの手は空を搔いた。
「やっと出て来て下さいましたね、クレマン先生」
扉の向こうから顔を出したのは見るからに疲れ切った顔つきの、四十過ぎの男だった。背が高く体格は良いものの、お世辞にも健康には見えない。くすんだ青い目には冬に入りかけた大気に身震いしているカミーユが映る。
「クレマン先生、私はカミーユ・バルニエと申します。この度、我ら大陸軍ではロシア遠征での負傷兵の治療に先生の薬を使用したく、要請に上がりました」
「……軍人ですか」
クレマンは若いカミーユを上から下まで一通りじろりと眺めた。コートの下に軍服が覗いている。
「はい。これは軍からの正式な要請です」
「……どうぞ」
クレマンは扉を開いてカミーユを招き入れた。
「失礼します」
カミーユの軍靴が板張りの床を規則正しく叩く。狭い廊下の両隣に二、三部屋があり、突き当りには屋根裏部屋へ続く階段があった。この疲れ切った男が一人で暮らしているわりに、部屋の中は小ぎれいにされている。そこに扉の鍵を閉めたクレマンがやって来て応接間を示した。
「ソファーに掛けてお待ち下さい」
「ありがとうございます」
通りに面した部屋が応接間になっていて、格子窓からは秋の終わりの心もとない日差しが流れ込んでいる。カミーユは言われた通り応接間のソファーに腰を下ろした。改めて部屋を見回すが、医者の家にしては驚くほど質素だ。ましてパリでも名を知らぬ者はいないと言っても良いほど有名な医者の家とは、到底思えない。
「お待たせしました」
クレマンは紅茶の入ったカップを二つ持ってやって来た。その内の一つをカミーユの前に置く。
「突然お邪魔しまして、申し訳ありません」
ソファーテーブルの上で湯気を上げている紅茶。その向こうにあるソファーに、クレマンは腰を下ろした。
「それで、ご用件は私の薬ですか」
「はい。先生の処方する丸薬が苦痛の緩和に非常に有効だと聞きまして、軍でも是非使用したいのです」
クレマンは紅茶を一口含んだ。カップを近付けると、彼の丸眼鏡が一瞬曇る。
「もちろん、代金はお支払いします」
「金銭の事はさして気にしていませんよ。見ての通りの暮らしぶりですからね」
「失礼しました。決してそう言うつもりで……」
「構いません」
まるで五日連続で徹夜した人間と話しているようで、カミーユは内心やりづらさを感じていた。
「ロシア遠征……長いですね。六月から、もう半年近く経ちますよ」
クレマンの遠い目は窓の外の灰色の空を眺めている。カミーユはたまらず紅茶を半分流し込んで言った。
「ロシアは大国です。簡単に勝てる相手ではない。なおさら、前線で戦う兵士には先生の薬が必要なのです。ご協力頂けますね」
「フランス人である以上、断る訳にはいきません。断る理由もありませんし」
「ありがとうございます」
カミーユは上着の内ポケットから書類を取り出そうとした。さっさとサインをもらって納品日を決め、すぐにでもこの家から出たかった。だがそれを遮るようにクレマンが口を開く。
「ただ、あれも原料に限りがあります。原料が尽きればそれ以上作れませんので、ある分だけ提供しましょう」
「原料? 言って頂ければ軍で用意します。調合や作成も、可能であれば複数人で行い、効率的に生産できればと思うのですが」
くすんだ青い目が、そう言うカミーユをじっと見据える。
「それはできません。この薬の原料は非常に希少なものでして、世界中探し回っても、もう二度と手に入りませんから。それに、調合や製造方法を人に教える事もできないのです」
「ですが、それではとても軍での供給が間に合いませんよ、先生」
「申し訳ありませんが、それはあなた方で解決するべき問題でしょう」
「……そうですけどね。先生の薬は丸薬だと聞きましたが、実物を見せて頂いても良いですか」
「ええ」
クレマンは隣の部屋へ行って戸棚から小さな紙袋を取り出して来た。その中身を手のひらに出して見せる。
「これが噂の丸薬ですか……」
クレマンの手のひらには、鮮やかな紫色の小さな丸薬が数粒あった。薬と言えば大抵地味な色をしているが、これは驚くほど美しい紫だ。
「きれいな色ですね。これはあえて着色を?」
「いいえ、これは原料の一つである花の色ですよ」
カミーユはクレマンの手のひらから一粒摘まみ上げてまじまじと眺める。五ミリ程度の小さな丸薬だ。これがあらゆる苦痛を取り去ると言われている薬かと思うと、ますます不思議だった。
「その花が希少なのですか」
「花はさほど希少ではありません。現に、この上の屋根裏部屋で大量に育てていますから」
「え、この上ですか」
板張りの天井を見上げるカミーユ。まさかここで製造されているとは思いもしなかった。
「すると、その希少な原料もここにあるのですか」
「ええ、花と一緒にありますよ」
「いったい何なのですか。もし代用品があれば……」
するとクレマンはカミーユの手から薬を取って紙袋の口を閉めた。
「お見せする事はできません。代用品も無いのです」
「では、せめて薬を丸める工程を複数人で行ってはどうですか」
「…………」
明らかに渋っているクレマンに、カミーユは更に念を押す。カミーユとしても上官からの命令である以上、できる限り大きな成果を上げなければ帰れない。
「先生、貴重な薬である事は重々承知しています。その上でお願いしているのです。同じフランス人が遠い地で戦っています。先生はここ、パリの人々にこの薬を安価で提供しておられるそうじゃないですか。パリの人々だけでなく、国のために戦う兵士にもその愛を与えて頂けませんか」
「愛、ですか」
クレマンは戸棚に紙袋をしまいながら、ぼそりと言った。カミーユもその声を聞き逃さずにすかさず拾い上げる。
「そうです」
「何か勘違いしていませんか」
「勘違い?」
クレマンは困惑の表情を浮かべるカミーユに淡々と返す。その声には不気味なほど生気が無かった。
「私の薬は苦痛を取り去るだけで、病気や怪我を治すものではありませんよ。これをいくら飲んでも傷は癒えません」
「それは承知しています。先生の薬は非常に優れた麻酔薬だと認識していますよ。負傷兵の外科治療や、痛みによる失神を防ぐ事ができる。それだけでも有用なのです」
カミーユはこの不気味な男の懐に歩み寄り、丸眼鏡の向こうの青い目を見据えた。
「先生、お願いします。兵士を苦痛から救って下さい」
クレマンは暫く目を閉じて考え込んでいたが、漸く目を開いて頷いた。
「分かりました。もちろん協力はしましょう。ただ、やはり調合は私にしかできないのです。少しでも分量を間違えると命の危険がありますから。しかし、丸薬にする過程は人に任せます。あなたにお願いしましょう」
「わ、私ですか」
思いもしない提案にカミーユはたじろいだ。まさかその原料とやらが尽きるまで、毎日この憂鬱なアパートへ通わなければならないのか。
「はい。ちょうど一通り説明したところですし、あなたが来てくれるなら話が早い」
「は、はあ。上官と相談します。では、一先ずこちらの書類にサインをお願いします」
クレマンはテーブルに出された書類にサインをした。黒いインクが鮮やかな線を残していく。その様子をカミーユは石のように硬い表情で眺めていた。だが、クレマンのペンが紙を離れる前に、ふと天井を見上げる。少しずつ、自分に迫り来るような冷たい天井を。
カミーユの願いとは裏腹に、上官は特に考えるでもなくあっさりとカミーユの出向を許可した。そのせいでもう三週間はこのアパートに通っている。毎日決まった時間にクレマンの部屋を訪ねては夜遅くに帰っていくカミーユの姿は、近所の住人からすればよほど奇妙に映ったのだろう。軍靴が階段を叩く音がすれば、クレマンの下の階に住む老婆が必ず顔を出すようになっていた。若いカミーユがロシア遠征に向かった孫と重なって見えると言って、何かと世話を焼いてくれる。
今日も階段を上って行くと、コツコツと言う高い音に誘い出されるようにして老婆が扉から顔を出した。
「おはよう、カミーユ」
「メラニーさん、おはようございます」
「今日もご苦労様だね。もう十二月だ。寒くなるから風邪をひかないように気を付けなさいよ」
メラニーはそう言って陶器の小さなポットを寄越した。桃色の花が描かれた綺麗なポットだ。
「それは蜂蜜だよ。冬には重宝するからね。持ってお行き」
「いつもありがとうございます。メラニーさんもお体にお気を付けて」
カミーユはポットを受け取って上階へ向かおうと一歩踏み出した。だが、その背中をメラニーの骨のような手がそっと叩く。
「カミーユ」
振り返ると、メラニーはいつになく不安げな顔をしていた。カミーユは、ロシアの冬を恐れているのだろうかと思ったが、メラニーから出た言葉は全く違う憂慮だった。
「クレマン先生の助手をしているんだろ?」
「はい」
「あんたも立派な軍人さんだから、大丈夫だとは思うけどね。気を付けなさいよ」
「気を付ける……、何に対してでしょうか」
メラニーは視線で上を示した。
「クレマン先生は確かに名医だよ。私も腰を痛めた時にあの素晴らしい薬をもらってね、本当に助かったんだ。でもね、どうもあの人は不気味な感じがするんだよ。なんでも、ここへ来る前に奥さんを黒死病で亡くしたらしいの」
「黒死病……」
「そう、恐ろしい病気さ。おかげで家も猫を三匹も飼っているくらいだよ。別にね、先生があんたに何か酷い事をするとは思っていないよ。でもね、何か不安なのさ」
メラニーの不安は尤もだ。たとえあらゆる苦痛を取り除く薬を作る事ができる名医であっても、あの死人のような様相では誰でもそう思う。
カミーユは笑顔で頷いて見せた。おそらく帰らないであろう孫を想うこの老婆を、多少なりとも哀れに思っていた。
「大丈夫、私も大陸軍の一兵卒ですから」
「そうね、大丈夫だね。いってらっしゃい」
「はい」
「先生、おはようございます。バルニエです」
いつものように玄関扉を開いて中へ入るカミーユ。この部屋はいかにもみすぼらしいが、不思議といつも温かい。コートを脱いでいつも作業をしているダイニングへ向かう。ここのテーブルと椅子の高さが、丸薬を丸める作業に一番適しているからだ。
「おはよう、バルニエさん」
そこに屋根裏部屋からクレマンが降りて来た。手には大きな洗面器のような器を持っている。この中に丸薬の素となる薬そのものが入っているのだ。
「毎日ここまで来てもらってすまないね」
「いいえ、国のためですから」
三週間通って気が付いたが、この死人のような男は決して不愛想な変人と言う訳ではない。こうして相手を気遣う言葉をかけたり、食事や休息の茶やコーヒーを提供したりもする。不気味な事に変わりはないが。
「もう十二月だが、戦況は良くないと聞く。戦争はそろそろ終わるのかな」
紫の塊が入った器が目の前に置かれ、カミーユはその鮮やかな色に目を奪われながら静かに返す。
「……ええ、おそらく。ですが、先生の薬は戦争で傷ついた兵士にこそ必要なものです。まだ材料はありますか」
「その事だが、花は取り寄せる事ができるから何とでもできるが、一番重要な材料がそろそろ底を尽きそうなんだ。きっと戦争が終わる頃に、この薬も終わるよ」
カミーユはたまらずクレマンに食い入るようにして言った。
「先生、その重要な材料とはいったい何なのですか。皇帝陛下の力を以てしても手に入れられないほどの物なのですか」
クレマンは眼鏡の奥で生気の無い目を細めた。
「ああ、そうだ。誰も手に入れる事はできない。私はこの薬を作った当初から、この材料が尽きる時に医者を辞めると決めているんだ」
この医者は非常に頑固だった。この三週間でカミーユは何度か薬の材料について訊いた事があったが、決して教えようとしない。屋根裏部屋への立ち入りも固く禁じられていて、施錠されているため入る事ができない。
「先生、どうかその材料が何なのか教えて頂けませんか。この薬は戦場で非常に重宝されているのです。いや、戦場だけじゃない。負傷して前線を退いた兵士からも、まるで聖母に抱擁されているかのように苦痛が取り去られると言われるほどなんですよ」
「聖母の抱擁か……」
クレマンは器の中の鮮やかな紫を見た。何か思うところがあるようだが、この男の表情は殆ど変化を見せない。
「そう言ってもらえると嬉しいが、残念ながら材料を教える事は出来ない。これは私個人の利益のために言っているのではないんだ。本当なんだよ、バルニエさん」
どうやらクレマンは本心で言っているようだ。カミーユも、元来利己的な部分が無いこの医者が、個人の利益のために口を閉ざしているとは思えなかった。
「……分かりました。ですが、この薬が作れなくなったからと言って医者をお辞めにならなくても良いのでは? 兵士に限らず、先生の技術を必要とする患者はフランス中に居ます。まさに黒死病患者などもそうではないですか」
クレマンの目が、じろりとカミーユを見た。怒りでも焦りでもない、無味乾燥の目だ。
「黒死病……。あれは治せません」
「確かに、まだ治す事ができない。でも、この薬も治療薬ではないと言っていたではないですか。だったら治す事だけが医者の仕事では無いのでは?」
するとクレマンはうっすらと笑みを浮かべてカミーユを見た。あまりに珍しい光景に、カミーユは目を丸くして声も出せずにいた。
「バルニエさん、良い機会だ。向こうで少しお話しましょう。この薬が尽きた後の事も話しておきたい」
「は、はい」
二人は道に面した応接間のソファーに座っていた。ソファーテーブルには、白いカップに入った紅茶が二つ出されている。
「バルニエさん、あなたは非常に素晴らしい方だ」
「どうされたんですか、急に」
「私はね、これまでに数えきれないほどの病人や怪我人を治療してきた。全て助けられた訳ではないが、多くの命を救ってきたんだ」
そう言って紅茶を一口飲むクレマン。その目は僅かに生気を見せていた。
「だがある時、妻が病気になった。さっきあなたが言った黒死病だよ」
「……そうですか」
「私は妻を一生懸命治そうとした。できる限りの全てを尽くしてね。それでも彼女を救う事はできなかった。彼女は……苦しみながら死んだよ」
ろうそくの火を吹き消すように、クレマンの生気が消えた。
「私は妻を火葬した。壊死して黒く染まった彼女の体を、燃やしたんだ」
「……それは……さぞお辛かったでしょう」
「その時ね、私は気が付いたんだよ。自分が如何に驕っていたかを。医者が人間の命を左右する、救ってやれるなど、とんでもない驕りだ。命は神から授かったもの。それを左右できるのは神のみだと気が付いた。だから私はせめて苦痛を取り除くために自分の技術を使おうと決めたんだ」
「そうでしたか……」
「あなたは治すだけが医者の仕事では無いと言ったね。まさにその通りだ」
そう言うと、クレマンはズボンのポケットから古びた鍵を取り出した。
「これは屋根裏部屋の鍵だ。あの薬も、この調子だと明後日には尽きるだろう。そうしたらこの鍵をあなたに預けよう。上にある花だけでもそれなりの薬にはなるから、好きに使ってくれて構わないよ」
そしてクレマンは鍵を再びズボンのポケットに仕舞った。
「いえ、ですが、ここは先生のご自宅も兼ねています。好きに使うと言っても……」
「上の花を持ち出すなり何なりしてくれ。鉢植えだから、運べないでもないだろう」
「はあ、分かりました。上官と相談します」
それから二人は紅茶を飲み終えると、いつもの作業に取り掛かった。
クレマンに屋根裏部屋の鍵を見せられて二日が経った。あの時クレマンが言っていた薬を製造できる期限はおそらく今日だろう。そう思いながら、カミーユは憂鬱な気分でアパートの階段を上っていく。この日は別の報せも携えていたのだ。
いったんためらった手が、メラニーの家のドアノッカーを掴む。そして重い音を三度立てた。中からゆっくりとした足音が近付いて来るのが分かる。カミーユは大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。
「あら、カミーユじゃないか」
扉が開き、メラニーが顔を出した。だが、カミーユの表情を見るなり、すぐに目にいっぱい涙を浮かべる。そしてカミーユが口を開く前に弱弱しい声を出した。
「……分かっているよ。死んでしまったんだね」
「……はい。お孫さんは、ロシアで亡くなりました。ご遺体は、まだ戻っていません」
「ああ、何と言う事だろうね……。さぞ怖かっただろう、寒くてひもじかっただろうね……」
次々に涙を流すメラニーを前に、カミーユはただ立ち尽くす事しかできなかった。メラニーの孫が極寒のロシアで飢えている間、自分は温かい部屋でただ薬を丸めていただけなのだから。
「報せてくれてありがとう、カミーユ」
「……いえ」
「もう、戦争は終わったのかい」
「我が軍はロシアから撤退しています。もうじき終わるかと……」
「良かったよ、終わってくれて良かった」
メラニーの冷たい手が、カミーユの革手袋に覆われた手を包み込んだ。
「あんたは戦争へ行かないんだろう。行かなくて済むんだろう」
「はい、私は内地での勤務です」
「……良かった」
カミーユは細い手をそっと握った。
「また顔を見に来ます。メラニーさん、どうか気を落とさないで」
メラニーは涙に濡れた顔で深々と頷いた。
それからいつものように階段を上り、カミーユはクレマンの部屋を訪れた。部屋はやはりほのかに温かく、コートを椅子の背に掛ける。するとそこにいつもの器を持ったクレマンがやって来た。
「おはよう、バルニエさん。今日は一段と寒いね」
「おはようございます、先生」
クレマンは紫の塊が入った器をダイニングのテーブルに置いた。
「これで最後だ」
「先生が言っていた通り、戦争も間もなく終わると思います」
「そうか。それは良かった。下の階のメラニーさんはお孫さんが出征したそうだが、彼は無事かな」
「……いいえ。ついさっき、お報せに上がりました。戦地は極寒で兵糧も滞り、餓死者が多く出たそうです。その中に……」
「……そうか。この薬も、さすがに飢えを凌ぐ事はできないからな」
「…………」
視線を落とすカミーユに、クレマンの重たい声が届く。
「人間とは本当に愚かな生き物だ。失くさなくて良い命を失くし、だが逆にそれをどうにか引き留めようともする。それなら最初から殺し合わなければ良い事を」
「……ええ、本当ですね」
「ああ、すまない。軍人に言う事ではなかったね」
「いいえ、良いんです。私はフランスが偉大な国であるようにと願って軍人になりました。ですが、今回の戦争ではあまりに多くの兵士が……惨憺たる死に方をしています。この戦いは、もっと早く終わるべきだったんです」
「そうだな。私もそう思うよ」
するとクレマンは徐にズボンのポケットに手を入れる。
「その薬を作るのも今日で最後だ。あなたに上の部屋を見せておきたいんだが、良いかな、バルニエさん」
「はい」
カミーユは鼓動が速まるのをどうにか落ち着かせようと必死だったが、通路の突き当りにある屋根裏部屋への狭い階段が姿を現すと、やはり落ち着いてなどいられなかった。人が一人通るのが精いっぱいな幅の階段を上り、二人は屋根裏部屋へ来た。
「これは……」
現れた光景に言葉を失い、カミーユはそんな一言だけこぼして立ち尽くす。
板張りの床に三角屋根の形をそのまま露出する天井。下の階は数部屋あるが、ここはその面積を全て一部屋に使っている。梁がむき出しになっているが、そんな事に気が付かないほど、植物が鬱蒼と生い茂っていた。
「これがあの薬の原料になる花だよ」
四方の壁は全てこの植物の大きな鉢植えで埋め尽くされている。鉢植えから伸びた植物は、青々とした葉を茂らせ、茎は天井まで伸びている。壁や天井にある窓だけは光を取り込むために葉が隠さないよう手入れされていた。
そして鮮やかな緑の中に、濃い紫の花が咲いている。ラッパのような形をした花だ。
「これはチョウセンアサガオと言ってね、本来はもう少し丈が低いのだけど、ここのは何故か大きく育つんだ。元々暖かい場所に育つ花だから、寒い時期にはストーブで温かくしているんだよ」
「それで下の部屋まで温かいんですね」
「ああ、そうなんだ。この植物はね、中国では古くから麻酔薬として使われていたんだ。だからこれだけでも薬効があるんだ。もし必要なら鉢ごと持ち出してもらって構わないよ」
「その件ですが、上官と相談したところ、この花だけでもある程度の薬効があるならば引き続き先生に調薬してもらえないかとの事です」
クレマンは冬とは思えないほど生き生きと育つ花を見ながら言う。
「それは難しいな」
「何かご都合が?」
「この仕事を終えたら、私はパリを去ろうと思っているんだ。だからこの部屋も引き揚げるつもりなんだよ」
「……そうですか」
「白いチョウセンアサガオをね、見に行きたいんだ」
「白いチョウセンアサガオ?」
クレマンは指先で紫の花弁をそっとなぞった。
「紫は妻の好きだった色だから、この花を使っていたんだがね。仏教では白いチョウセンアサガオを曼陀羅華と言って、天界に咲く花と言われているそうだよ」
「天界に? では、想像上の花と言う事ですか」
「いいや、白いチョウセンアサガオは実在するさ」
そう言いながらクレマンは窓の外に広がる冬空を眺める。
「神仏が現れる時、曼陀羅華が天から降り注ぐそうだよ」
「はあ」
振り返ったクレマンはどこか清々しい表情で言った。
「では、最後の薬を作ってくれないか、バルニエさん」
「分かりました」
カミーユは再びあの狭い階段を下りてダイニングの椅子に腰を下ろした。台所の窓からも寒々しい冬空が見える。今にも雪が降りそうだった。
それから数時間、カミーユはいつものように薬を丸めていた。そうこうする内にすっかり昼の時間になっていた。いつもならクレマンが屋根裏部屋から下りて来て昼食を作ると言うのだが、今日はまだ下りて来ない。今日であの植物とも最後なのだから、きっと片付けをしているのだろう。
「最後くらい、僕が作るか」
カミーユは今までクレマンが食事を作る姿を見ていたので、台所のどこに何があるかは大方把握していた。料理はあまり得意ではないが、オムレツ程度なら作れる。感謝の気持ちを込めて作ろうと席を立った時だった。
ドスンと言う鈍い音に次いで、表の通りから悲鳴が聞こえた。
慌てて応接間の窓に駆け寄って外の通りを見下ろす。すると、いつの間にか降り始めた雪がうっすらと白く染め始めた石畳の道に、一面の赤が広がっていた。その鮮やか過ぎる赤の中に、クレマンが仰向けで横たわっているではないか。
「クレマン先生!」
カミーユは部屋から飛び出し、アパートの階段を何段も飛ばして駆け下りた。コートも着ずに表に出たが、寒さなど少しも感じない。
少しずつ世界を白く染めていく雪ですら、クレマンの頭から流れ出る鮮血を隠す事はできなかった。石畳の上に血だまりが広がっていく。
カミーユは息を荒げながらクレマンの傍に跪き、その肩を叩く。
「クレマン先生! しっかりして下さい!」
クレマンは何も返さなかった。首筋に手を当てるが、既に脈はない。
「どうして……」
物言わぬ青い瞳はただ灰色の空を見上げている。カミーユはつられるようにして空を見上げた。開け放たれた屋根裏部屋の窓。その向こうに広がる空からは大粒の雪が次から次に降り注ぐ。まるで、曼陀羅華のように。
再びクレマンに目を落とす。大粒の雪がまだ温かい頬に落ち、水となって流れていく。
彼は心なしか喜びの表情をしていた。
あの日から一週間が経った。この日、カミーユはすっかり空き部屋となったこのアパートの一室を大家に返すため、再び足を運んでいた。
クレマンの私物は彼が書き置いていた手紙の通りに売り払った。それによって出た収益はパリ市内の病院に寄付された。屋根裏部屋のチョウセンアサガオは全て植物園に運ばれ、今はガラス張りの温室で生き生きと育っている。
大家が来るまでにまだ少し時間がある。カミーユはあの狭い階段を上って屋根裏部屋に来た。花が無くなったこの部屋は、あまりに寒々しく、もの悲しい。裸になった板張りの壁が余計にそうした虚しさを助長するのだ。そんな冷たい壁を指でなぞると、ふとある地点で異変を感じた。
「何だ……」
それはちょうどクレマンの作業机が置かれていた辺りだ。壁に段差が付いている。カミーユは壁の板をよくよく覗き込む。すると、どうやら後から別の板で塞がれたあとだと分かった。ナイフの切っ先で後から当てられた板を浮かせると、そこには小さな空間があった。その隠された空間はたかだか二十センチ四方程度で、そこに陶器のポットが置いてある。ポットはこの空間にぴったり収まるほどの大きさだ。
「何だ、これ……」
カミーユはポットを取り出して慎重に蓋を開けた。そして絶句する。
ポットの中には人間の歯が入っていた。小さめな歯が、いくつも転がっている。だが、このポットは歯を隠しておくには大き過ぎる。
板壁にもたれ、カミーユはポットの蓋を閉じた。クレマンの妻は火葬されたと聞いた。これはおそらく妻の骨壺だ。だが、今は歯しか残っていない。いくら火葬と言っても歯しか残らないなど普通はあり得ない。
「まさか……クレマン先生……あなたは……」
兵士達はあの薬を聖母の抱擁と言った。聖母とは、果たしてクレマンの妻だったのだ。
「何と言う事だ……」
頭が真っ白になった。吐き気すら覚える中、カミーユはクレマンの最期の表情を思い出す。そして何とか息を整え、ポットをしっかり抱えて屋根裏部屋を後にした。
部屋の後処理を全て済ませると、カミーユはパリ市内の教会へ来ていた。そこで修道士に声をかける。
「すみません、レオ・クレマンはどうなりましたか」
修道士は凍てつく空気の中、鼻の頭を少し赤くして言った。
「医師のクレマン先生ですね。自殺なさるとは……本当に痛ましい事です。本来であれば自殺した者を教会で弔う事は難しいですが、クレマン先生が人々に与えた救いを考えれば、手厚く葬る事になりました。明日には土葬する予定です」
「では、棺はまだ教会に?」
「はい。弔問ですか」
「良いでしょうか」
「もちろんです」
修道士に案内されたカミーユは、冷たい石の部屋に安置されているいくつもの棺の中からクレマンの物を見つけ出した。そして蓋を開け、あの陶器のポットを一緒に入れる。
「クレマン先生……もう苦しまなくて良いんだ。あなたには曼陀羅華が降り注いだ。あなたはきっと、祝福されたんですよ」
この日の空も灰色の分厚い雲で覆い尽くされていた。カミーユが教会を出る頃には、すっかり雪に変わっていた。