王太子殿下の白い結婚
かの王国のヘンドリックス王子には、エリザベート公爵令嬢というたいそう優秀な婚約者がいるが、それとは別に真に愛するアィミール子爵令嬢がいた。
ある日突然、彼が10歳の時に婚約者であると父王から紹介され、当時まだ6歳になったばかりのエリザベートとは以来10年の付き合いである。
見た目の華やかさは特に挙げるものはないものの穏やかで優しいまなざしの彼女は、この10年間そつなく王妃教育をこなしそれなりに交流を深め、やがて穏やかな家庭を築きながら自分はいつか王として戴冠するであろうと、ヘンドリックスはそう思っていた。
思っていたのだ、アィミールに出会うまでは。
アィミールとの出会いはヘンドリックス15歳、彼が王立学園に在籍している時に彼女もまた同じクラスに在籍していた。
子爵令嬢ながら成績優秀、誰にでも分け隔てなく接する明るく快活な性格。
マナーや所作は洗練されているとは言い難いが、高位貴族であればともかく子爵令嬢としてみればまぁそれほどまでには気にならないし、それを補って有り余るほどの華が彼女にはあった。
腰までとどく豪奢な黄金の巻き毛、白磁の肌、澄んだ青空のような淡い瞳、珊瑚色のぷっくりとした唇、すべてが絶妙に配置され、美しいからこそ傍目に見れば近寄りがたいのに、近しいものが話しかければふんわりと笑ったその顔はひどく親しみやすくて愛らしい。
ヘンドリックスとて王子として教育は受けている、美しいものは物・者問わずたくさん見て肥えているし、だからと言ってすぐに夢中になったりはしなかった。
ただ彼にとって物珍しかったのは、たいそう美しい彼女が自分に全く媚びないことだった。
立場上仕方のないことではあるが、ヘンドリックスに相対するものは大抵が彼に気を使い、媚びへつらった。
当然といえば当然のことなのだが、何気兼ねなく話ができるのは王宮の更に奥まった王族の居室にいる時の家族と、ほんの一握りの側近だけ。
婚約者ですら彼に気を使って接しているのがわかる、それが彼には淋しかった。
だからつい、アィミール嬢と過ごす時間が増えてしまう。
王子と成績優秀者としてともに学園の生徒会を運営する立場になり、二人の距離はぐっと近づいた。
はじめはお互いに節度を持った距離でいたものの、次第にその距離が近くなり、ただの友人と言うにはほど遠いほどの距離に王子の肩と令嬢の頬が近くなったのは、王子の側近が進言をすべきか悩んだわずかな間のことだった。
あっという間の出来事に、なぜ思い至ったその時にすぐ進言しなかったのかと悔いる側近もいたが、既に学園を卒業し王子には王宮でのみ付き従っていた側近はそんな彼らを仕方なかったと慰めた。
それほどあっという間の出来事であれば、飽きるのも早いであろう。
学園にいるうちだけ、厳密に言えばまだ子供だから。
周囲は冷めた目で、王子を見守った。
学生だからとまだ任される公務はわずかだがそつなくこなす、学園での成績も二人ともまぁそれなりをキープしている。
ただ婚約者がいる身には到底許される距離ではない…まぁ要するに人目もはばからずイチャついていた。
そして二人は卒業し、ヘンドリックスは本格的に公務に取り掛かり、アィミールはなんとまだ女性の活躍が少ない官吏の試験を受け、見事合格した。
お互い職務中はそれなりの距離を保っているようだが、プライベートともなればアィミールが王子の私室に足しげく通っているという噂が絶えない。
なんと二人は卒業しても関係を続けているようだ。
「ヘンドリックス様はどなたとご結婚なさるのであろうか…」
もはや婚約者など最初からいなかったのではと思えるほどのイチャつきぶりで二人の仲は公然の秘密となったが、なんとこの王子、10年来の婚約者のことはそれなりに大切にしているらしい。
月に一度程度は二人もしくは王妃や極稀に王を招いてお茶会という名の親睦会を開いているし、誕生日や季節の贈り物も欠かさない。
彼女の王立学園卒業パーティーにはエスコート役をかって出た。
そう、卒業である。
エリザベートは学園を卒業し、貴族として大人の仲間入りをする、すなわち王子と結婚するのである。
周囲の心配をよそに、結婚式の準備はつつがなく進められた。
そして、予定通りに結婚の成約がなされ、予定通りに二人は王城のバルコニーで国民に挨拶をのべ、予定通りに盛大な晩餐会が催され、そして予定通りに初夜を迎えた。
「エリー、いやエリザベート嬢。お願いがあるんだ」
「なんでしょう?」
「この結婚を、白い結婚としてほしい」
夫婦の寝室となった広い部屋の大きなベットの白薔薇で飾られた真っ白なシーツの上で、エリザベートはぱちくりと目を瞬かせた。
目の前には夫となったヘンドリックス王子が、やたらと真剣な表情で跪きこちらを見上げている。
「しろい、けっこん」
エリザベートは彼の言葉を口の中で転がしてみた。
うまく呑み込めずに、口の中に変に空気の塊があるみたいにもごもごする。
「あぁ、そうだ。君と一緒に朝を迎えることは出来ない」
随分とまぁ回りくどく、詩的な表現を使うのだなと思った。
決してバカではない彼は、普段はわりと端的にわかりやすく言葉を発することを好んでいるのに。
あぁそうか、少しでもこちらの機嫌を損ねないようにという彼なりの精一杯なのかもしれない。
だって出来ないといった時の彼の宝石みたいな水色の瞳が揺れてから、結局最後は逸らされた。
「わたくし、何かご不快な思いを…?」
「いや、君は何も悪くない」
静かにこぼれた疑問を、ヘンドリックスは即座に否定した。
エリーに非はない、悪いのは全部自分なんだ。僕が、アミィに出会ってしまったから…。
謝りながらもうっすらと自己陶酔がうかがえるヘンドリックスの様子に、エリザベートは婚前の良くない噂は本当だったのかと秘かにため息をついた。
この時まで、エリザベートは王子と子爵令嬢の浮気というスキャンダルが本当だということに確信が持てなかった。
もちろん両親をはじめとした周囲の大人たちは、そんな噂がエリザベートの耳に入らぬよう心を砕いたし、義両親となった王と王妃や妃教育に携わっていた教師達は全く気取らせなかった。
しかし王宮ですれ違う官僚やら貴族やらそこで働く女官や騎士達の中には、憐憫の視線を向けるものからあからさまな嘲笑を浮かべるものまで様々で、中には聞こえよがしにアィミールの名と、王子といかに親密かを遠巻きに聞かせてくるものも少なくなかった。
だからそういう噂がある、ということはエリザベートも知っていたが、実際に王子と噂の子爵令嬢が二人っきりで過ごしている場面を見たことはなかった。
婚約は覆らなかったし、エリザベートはもちろんヘンドリックスも異を唱えたりはしなかった。
表面上は何の問題もなく王子と婚約者として過ごし、事実、今日この日に夫婦となったのだ。
そしてヘンドリックスは今日、正式に立太子した。
これまでは王弟が第一王位継承権を持っていたが、長子優先そして成人し結婚して正式に公爵の後ろ盾を得たことで、ヘンドリックスは叔父を引きずり落とし、ついに王太子の座を得た。
本来であれば不本意であろう結婚も玉座のためならいとわない、けれども夜の営みは愛する者だけに捧げたい、とでも言うのか。
「結婚して3年間のうちに子ができなければ、正式に側室を迎えられるという慣例は知っているね?」
絶対王政のこの国で、王の子が生まれないということはその王政が揺らぐことに直結する。
そのため、政略的であれ相思相愛であれ、側室ひいては後宮という存在に寛容な国であった。
中には何十人もの側室を囲い競わせたという王もいれば、数人の側室を設け彼女らすべてを等しく愛し仲睦まじい側室達を愛でた王もいたという。
とにかく正妃一人の王というのは極めて稀であった。
かくいう現王も政略結婚であった王妃のほかに、二人の側室がいる。
王妃は大変な苦労をしてヘンドリックスを産んだが、その後これ以上の子を望める体力はないと本人が言い切ってしまった。
そのため万一のためにと側室二人が後宮に入ったが彼女らは王女を合わせて三人産んだ現在、これ以降どうするべきかと王室顧問の指示待ちである。
「存じております…」
「3年後でもそなたはまだ若い。もし見初めた相手がいるのならその時は降嫁することも考えたらいい」
今日結婚した妻に向かってなんてセリフだ。
数多いる側妃の一人ならいざ知らず、正妃に向かってこれとは。
腹が立つより先に呆れてしまって、エリザベートはつい脱力しそうになる。
それでもなおくず折れずに座ったままの姿勢をキープしていられるのは、妃教育のたまものか。
「そしてこれは、二人だけの秘密にしてほしい」
無理に決まっている。
明日の朝にはこれまた慣例で王太子妃付の侍女長が、無事に二人が交わった痕跡を確認しにやってくるというのに。
痕跡を消すならばともかく、全く何もないまっさらなこのベッドをどうやって事後に変えるのか、お前が一人で諸々致してでっち上げてくれるとでもいうのか。
「それは…さすがに無理があるのでは?」
背後の皺一つないシーツに顔を向けつつ答えれば、やっと思い当たったようで口元を手で覆い思案顔になったが、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「侍女長を味方にしよう」
白薔薇を落としたシーツにくるまりエリザベートは眠った。
広いベッドとはいえ端と端ですらお互い一緒に眠る気はなかったので、ヘンドリックスは無言でソファに向かう。
エリザベートは大変久しぶりにぐっすりと眠りを堪能し、二度寝まで貪った。
そのあまりにも無防備な様子にヘンドリックスは若干戸惑いの視線を向けたが、これまでの自分の忙しさを思い出し休憩は確かに必要だとつぶやいてからソファにもう一度沈み込む。
二人して朝のまどろみを堪能しているが、決して二人で過ごしているわけではない。
同じ部屋に、ただ一人と一人がいるだけである。
十二分なほどの時間をおいてから、ヘンドリックスはおもむろにサイドテーブルに置かれたベルを鳴らす。
涼やかな音が響いて程なく、大変控えめな音でドアが叩かれ、侍女長が入室した。
茶器の乗ったワゴンを押してしずしずと入室した彼女は、あまりにもキレイなままのベッドに一瞬目を見開いたものの、またすぐ何事もなかったかのように二人のために紅茶を淹れた。
その茶を優雅に口に運びながらヘンドリックスは、予定通りにつつがなく初夜を迎えた旨を報告してほしいこと、そしてこれからもこういったことが続くが協力してほしいことを侍女長に語って聞かせた。
さすがの侍女長も驚きに顔を引きつらせ、反論を試みようと口を開きかけたが、それをエリザベートがやんわりと止めた、あくまで合意の上だ、と。
満足げにほほ笑むヘンドリックスはさっさと部屋を出て、きっとすぐにでもかの令嬢のもとへ向かうのだろう。
国を挙げた結婚の祝宴は夜半まで続き、さらに迎えた初夜である。今日は二人とも急ぎの公務は入れられていないし、せめて午前中くらいは部屋から出なくても許されるはずだ。
新妻と過ごすべき貴重な休みを、これ幸いと浮気相手に会いに行くその足取りの軽さに侍女長はなんとか表情には出すまいと努めるが、それでも若干眉頭が寄ってしまうのは否めない。
「本当によろしいのですか」
「いいのよ、ジョアンナ。放っておいて差し上げて」
「でも、エリザベート様…」
ジョアンナはあえて妃殿下の名を呼んだ。
肩書なしに、彼女を心配した故である。
本来であれば一介の侍女が王太子妃の名前を呼ぶなどと恐れ多く不敬にあたるが、ジョアンナは今でこそ伯爵夫人だがもとは由緒ある侯爵家の令嬢である。
その経歴と人となりや動きの洗練さなど諸々の観点から、エリザベートの侍女長に選ばれ、なおかつ彼女の王太子妃としてのマナーや行儀作法の師でもあった。
まぁ、元が公爵令嬢であるエリザベートには教えることが少なすぎるとぼやいてもいたのだが。
更に彼女の妹は、ヘンドリックスの乳母である。
現王妃と乳母はたいそう仲が良く、そしてヘンドリックスを二人して溺愛した。
ヘンドリックスが黒を白と言っても、彼女ら二人は是と答えるだろう程度には彼は愛されていたし、また二人が絶対的に自分の味方だということもヘンドリックスは理解していた。
であるから、その乳母の姉であるジョアンナ伯爵夫人に自分の正妃を任せれば、自分に悪いようにはならないだろうという観点からの人選である。
「だってこんなにゆっくり過ごした朝って、本当に久しぶりで…」
乱れのない寝台にしどけなく横たわり、うっとりとほほ笑むエリザベートの頬はほんのりと薔薇色に染まっている。
これが夫との情事の後であれば何の憂いもなく、ジョアンナはいささか遅い朝食の準備に取り掛かれただろう。
けれどもその薔薇色の頬の理由は、単に寝不足が解消された上、先ほどジョアンナが準備した紅茶で暖まっただけに思われた。
いくら公爵令嬢でマナーも行儀も完ぺきといえど、王太子妃としてゆくゆくは王妃そして国母として自国のみならず大陸の歴史から特産品、他国との交易状況、そして外国語とその国それぞれのマナーなどなど、学ぶことは山ほどあるのだ。時間はいくらあっても足りない上に、大変優秀と評判の公爵令嬢は教師たちが詰め込んだだけ吸収していくので、その教育はどんどんヒートアップしていくばかりだった。
王太子も同じように学んでいるはずだが、彼女に比べればどうしても劣ってしまうというのが教師たちの共通の見解で、王子の足りないところを埋めるようにと、ますます彼女の妃教育に力が入れられた。結果、エリザベートはまだ婚約者の身でありながら常に忙しく教師との時間を過ごし、時には研修という名の公務をこなし、その合間に王妃や高位貴族の夫人や令嬢とお茶会をこなすといった大変忙しい生活をしていたので、当然のように慢性的な寝不足で息をつく暇もなかった。
それを知っている侍女長は、久しぶりに羽を伸ばす王太子妃に、強く出られなかった。
「もうひと眠りするわ。もちろん、このことは他言無用よ」
「…承知いたしました」
まっさらな寝台に横たわり瞼を閉じれば、思いのほか長い睫毛が頬に落ちる。
その頬はまだ丸みを帯びていて、あどけない少女のようだ。
いつもうっすらと目の下には隈を作り、年若い侍女たちといかにこの隈を目立たせず、かつまだ若々しいこの少女の魅力を損なうことなく化粧を施すかに苦心していた侍女長は、久しぶりに見る主人の穏やかで血色の良い顔を見ると、かすかにため息をつきつつ貴婦人の礼をして部屋を辞した。
そして穏やかに1年、2年と時は過ぎた。
ヘンドリックスは週に一度程度エリザベートの部屋を訪れ、特に会話を交わすことなくしばらくすると部屋を出ていく。
エリザベートはその日だけはゆっくりと朝を過ごし(二度寝をすることもあれば窓際の瀟洒なライティングデスクで本を読むこともあるし、いつもより豪勢な朝食を楽しむこともある)、いつもよりやや遅い時間に公務や社交を始める。
今、王宮では二つの相反する噂がまことしやかに囁かれていた。
ひとつ、エリザベート王太子妃はヘンドリックス王太子の寵愛を一身に受けている。
ひとつ、ヘンドリックス王太子は自室や執務室にアィミール子爵令嬢を連れ込み、二人っきりの蜜月を堪能している。
王太子妃も噂の子爵令嬢もそして王太子も、公務中はきちんとそれらしく振舞っているので、あくまで噂である。
加えてどちらも本当ならば、王太子は大したものだとなんだか斜め上の評価まで出てきている。
あとはもう世継ぎが生まれるのを待つばかりだが、待てど暮らせど、その知らせは来なかった。
しびれを切らしたとある貴族が王太子の隙をついて妃に『世継ぎはまだか、女として不能ではないのか』といった侮蔑の言葉を貴族特有のオブラートにくるみに包んだ言葉で詰れば、
「こればかりは、天の采配でございますわ…」
と、ほんの少しだけ寄せられた眉と共に儚げにエリザベートが応え、逆に周囲がその貴族を責め立てる場面もあった。
また王太子の執務室近くでは、とある文官がアィミール嬢の書類のミスを「妃殿下であればこのようなミスはされない」とネチネチと注意していると、別の文官が「そもそも妃殿下とは業務が違うのだから比べるのはおかしい」とかばい、王太子の執務室へ連れ込んでいく。
今や王宮は、『健気に王太子を慕う王妃殿下をお慕いする』派と、『王太子に真実の愛を捧げる下級貴族令嬢を応援する』派に二分されていた。
王や重鎮達も気づいてはいるものの、公務に関しては王太子も王太子妃も子爵令嬢も、皆が皆それぞれ滞りなくこなしているので口をはさむこともできない。
表面上は何事もなく皆振舞うものの、水面下では各所で小競り合いが勃発し、今や一触即発状態であった。
それに終止符を打ったのは、とある同盟国の使節団であった。
国としての面積は小さいが、文化芸術に秀でたその国は独自の切込みで交易の幅を広げ、周辺国家の注目を集める国の一つである。
芸術面だけでなく女性官吏の登用も積極的で、使節団のなんと6割が女性であった。
文化交流が主目的の使節団ではあったが、何かにつけて男性優位のこの国ではかなりの異例な歓迎である。
当然、王妃と王太子妃が主となって歓迎の準備を進めるも手が足りるはずもなく、この国では数少ない女性官吏たちが駆り出された。
その中にはもちろんアィミール嬢も入っており、初めての正妃と愛人の共同作業に不安視する声もある中、二人の邂逅はなんとこの時が初めてであったが、周囲の心配をよそに二人はお互いなんの障りもなく準備にあたった。
そして迎えた歓迎の日。
盛大に催された歓迎の宴の中、王太子妃エリザベートは使節団の一人の女性と熱心に話す様子が見られた。
彼女はかの国の伝統的な楽器の奏者で、衣装も民族衣装をまとい独特の雰囲気を醸し出している。
さすがに宴の場なので楽器を持ってはいないものの、その特徴的な衣装でひときわ人目を引いていた。
「そのお召し物は…」
「えぇ、我が国のとある地方の伝統装束ですの。本来はもっと気軽に着るようなものなのですけれど、せっかくお招きいただきましたので、この日のためにと職人たちが張り切ってくれましたわ」
特に印象的なのはそのシルエットである。
この国ではウェストをコルセットでぎゅっと絞ったドレスが一般的で、いかにウェストを細く見せるかが重要視され、スカートにボリュームを持たせることでウェストとの対比が大きいほど美しいとされる風潮がある。
エリザベートも当然のようにそのようなドレスを纏っていた。
しかし彼女の装いは、両肩から胸元までをたっぷりとギャザーをとった上質な絹のドレープで覆い、胸の下を複雑に編まれたカラフルな組紐で絞ることでメリハリを付けてはいるものの、それだけだ。
彼女の豊かな胸の下からすとんと足元までを覆うスカート部分は絹と同色の刺繍が裾に行くほど密に散りばめられ、シャンデリアの明かりで不思議な光沢を輝かせていた。
この国の女性たちの驚きが、お判りいただけるだろうか。
彼女の装いには、身体を締め付けるものが全くと言っていいほど無いのだ。
それなのに、この国の女性たちに負けない気品と美しさがある。
古代の女神が降り立ったかのような、なんと優雅な姿であろうか。
もちろん着こなす彼女自身の美しさや立ち居振る舞いもその美しさの一部ではあるのだが、ゆったりとした締め付けのない服はこの国では平民向けの装飾のない服が大半を占めており、窮屈さと共に身を飾りたてていた貴族女性達は彼女の装いに驚き戦慄し、羨望した。
「とても、お美しいですわ」
「ありがとう存じます。妃殿下にお褒め頂いたとあれば、きっと彼らの努力も報われることでしょう」
水を向けたエリザベートに、貴婦人の礼でもって優雅に応える賓客。
今宵の宴の主役は、確実に彼女らであった。
その後も二人はそれぞれあいさつや談笑にと会場をゆったりと回ったが、お互いが近くを通ると必ずどちらともなく話しかけ、まるで姉妹のように仲良さげに寄り添っていた。
これには王太子も入る隙もなく苦笑と共に妃のエスコートを放棄し、国王は思った以上の交流に政治的にも義父としても笑顔をこぼした。
そして使節団の滞在中、彼女は他の賓客と共にエリザベートの主催する茶会に参加し、なんと私室にまで招かれたらしい。
一躍時の人となった彼女を噂好きの侍女や女官たちが見逃すはずもなく、彼女らが好奇の目で見つめる先では、今日も王宮庭園の東屋でエリザベートとその来賓が語り合っていた。
そして迎えた使節団が帰国するその日。
城下町を見下ろす王城のその大きな白亜の門の少し手前。
国王をはじめとするこの国の重鎮たちそうそうたる顔ぶれが見送りにと並ぶさなか、体調不良を理由にエリザベートはほんの少しだけ到着が遅れた。
見送りには支障のない時間ではあったが、王太子の横にぽっかりと空いた空間を見て幾人かが眉根を寄せる。
しかしそれはエリザベートの到着と共に、すぐに驚きに塗り替えられた。
彼女はあの賓客が纏っていたゆったりとした伝統装束を身に着けていたからである。
胸元は最上級の淡い藤色の薄絹を幾重も重ねてゆったりをしたドレープをひらめかせ、足元に向かってすとんと落ちるスカートは少しだけトレーンを作りふわりと広がった。
その裾には濃い紫でぐるりと唐草文様が刺繍されており、所々に様々な色合いの紫のガラスやビーズが縫い取られていて気品の中に華やかさのある逸品に仕上がっている。
そして胸の下には組紐ではなく、裾と同じ唐草文様とガラスやビーズが幅広で濃紫のサテンリボンにびっしりと刺繍され、そのリボンできゅっと締めることでエリザベートのほっそりとした肢体が更に強調されつつも若さと瑞々しさのあふれるドレスに仕上がっていた。
「なんと美しい…」
エリザベートが現れた途端、あちらこちらからどよめきとため息が漏れた。
いつもはそれなりと評される容姿で妃として必要程度には着飾っているエリザベートだが、今日の装いはまるでかの伝統装束は彼女のためにあったかのように、彼女を非常に魅力的に見せていた。
特に歓声を上げたのがエリザベートと親しくしていた貴賓の彼女で、思わずといった体でエリザベートに駆け寄り、そのほっそりとした肢体をやんわりと抱きしめた。
エリザベートも彼女の背に手をまわし何事かを囁きながらしばし抱擁し、落ち着きを取り戻した二人はほんの少しだけ離れるが、ふいにエリザベートの右手がその胸下のリボンに触れたかと思いきや、そのまますぅっと下腹部までゆっくりと撫でおろされた。
そして再度二人で微笑みあう、うっすらと涙さえ浮かべて。
「ヘンドリックスよ…」
不意に硬い声で呼ばれた王太子は、怪訝に父王を振り返る。
その顔は紅潮し、目は見開かれ、唇はわなわなと震えていた。
「なんです急に?」
「よくぞ…いや、今は見送りに専念せねばな。後程詳しく聞かせてもらおう」
「…」
興奮を抑えられない様子の王に、ヘンドリックスの眉は微かに寄ったが、その拳は微かに震えていた。
そしてすぐそばに控える侍従に一言だけ告げると、すぐさま使節団を見送りに立つ王太子の仮面をかぶる。
「ジョアンナを呼んでおけ」
無事に使節団を見送り、少しだけ気の緩んだ会議室では、侍女たちが国王や宰相たちにお茶を運んでいた。
ここでほんの少しだけ休憩したら、そのまま半期予算の会議に突入である。
休めるうちにと大半がカップを手に取り、他愛ない世間話に興じる者が多い。
「ヘンドリックスよ」
しかし、どこかそわそわと落ち着きなく王太子の名を呼ぶ者がいた。
王太子の、それも名前を呼び捨てにできるものなど、国王しかいない。
国王の周辺に座る者たちも、一斉にヘンドリックスを見た。
使節団見送りの際に、王の近くにいた者たちである。
皆一様に熱っぽくそわそわと落ち着かなげに、視線をヘンドリックスを中心に彷徨わせていた。
「改まってなんですか、陛下」
普段は、公の場では決して呼ばれない己の名に、ヘンドリックスは視線も動かさず優雅に茶をすすった。
「報告があるのではないか」
「ありませんが」
「…あるであろう?」
ヘンドリックスは静かに首を振る、否と。
そんなはずはない、必ず良い知らせがあるはずだ、王の瞳は雄弁に疑問を語っているが、ヘンドリックスはそれに応える気がない。
むしろ早く会議が始まり、このやりとりが有耶無耶になればいいと思っている。
…予算会議は宰相の号令でもって始まるが、その宰相も王と同じような状態なので、それが望み薄なことはわかっているのだが。
重鎮たちの熱視線に深くため息をつき、ヘンドリックスは大変不本意そうに声を上げた。
「エリザベートを呼んでください」
程なくして現れた自分の妻の顔色がすぐれないのをみとめて、ヘンドリックスは覚悟を決めた。
予定とはだいぶ違うが、時が来たのだ、と。
「エリザベート、参りましてございます。皆様におかれましてはご機嫌麗しく…」
「堅苦しいことはよい、こちらへ」
「…ありがとう存じます」
優雅に挨拶を始めたエリザベートを王が遮り、近くの空いた椅子をすすめる。
首を傾げつつもしずしずとエリザベートが座ると、楽にせよと慈愛に満ちた目で王が語りかけた。
微笑みながらもしゃんと背筋を伸ばして座るエリザベートは、かの国の民族衣装を纏ったままであった。
その普段とは違う装いにだろうか、ふわふわと落ち着かなげに彷徨ういくつもの視線に、エリザベートは少しだけ戸惑うも恐れ多くも王の御前である、新たに淹れられた茶で優雅にのどを潤し、心を落ち着けた。
「元々この会議には参加せずとも良いとの旨を頂いておりましたが、なにか不都合ございましたでしょうか」
優美におっとりと問いかけるエリザベートに、重鎮たちは目を細めた。
華やかな美しさこそないものの、丁寧に磨き上げられた肌や髪などの決して悪いとは言えない素材、長年にわたり培われてきた教養によるそつなく正確な受け答え、それに加えてほっそりとしてどちらかというと小さな部類に入る身長から、彼女は王宮の重鎮たち皆の可愛い娘であり孫であり宝であった。
その自覚があるであろうに、あくまで謙虚に王太子妃としての役目を全うする彼女に、更に彼らは夢中になる。
だから彼らは、王太子の奴めはこんなにかわいいエリザベートを放っておいて、ただ華美なだけで計算ずくの子爵令嬢なんぞに熱を上げおってとこれまでずっとご立腹であった。
彼ら重鎮は、エリザベートを愛でる会過激派である。
一方、会議室の下座では、侍女たちにまぎれて侍女ではない者が茶のカートを押していた。
アィミール子爵令嬢である。
仕事ができて気配りもよく、おまけに大層美しくスタイルもメリハリがあってそれを隠さない、とくれば高嶺の花である王太子妃よりも、身近な同僚に人気が集まるのも納得であろう。
下級貴族や裕福な平民上がりの官僚たちにも気さくに話しかけ、そこかしこで談笑する姿はなんだかんだ言っても男ばかりの職場では数少ない花であり、癒しである。
そう、アィミール嬢は金や権力はなくとも、数の多い平官僚たちに絶大な人気を誇った。
彼らは、アィミールを崇め奉る教のとても熱心な狂信徒たちである。
「呼び立ててすまなかったな。ただ一言、報告を聞きたいのだ」
「なんのでしょう?」
「そなたまでとぼけるのか…」
いささか落胆の色を見せた王は、しかしそれでもめげなかった。
一呼吸、ゆっくりと吐き出すと、わずかに緊張を含ませた声で、厳かにのたまった。
「その身に、子を、生したのであろう」
会議室がしんと静まり、皆の視線がエリザベートの薄い腹を見た。
思わずといった体で、エリザベートは膝にのせていた手を腹の前で交差させた、まるで隠すように。
「いえ、わたくしは妊娠など…」
「隠さなくていいのだ、これは誠に慶事である」
「見送りの際にはとても驚きましたが…」
「そういえば先日の夜会でも、かの国のたいそう酸っぱい果実をおいしそうに食していらっしゃったが…」
「そういうことであれば納得ですな」
「不躾に眺めて申し訳なかった…」
慌てて否定するも、誰も信じない。
むしろ誰も彼もが朗らかにほほ笑み、慶事を寿ぎ合っている。
王太子を見れば険しい表情でエリザベートを睨みつけ、その横にはいつの間にかアィミールが寄り添っていた。
ひとしきり微笑みあった王たちが、やっとこちらを向いてくれた。
再度、誤解を解消せねばと口を開きかけたエリザベートを制し、またも王が口を開く。
「本来であればもっと内々にし、安定期に入ってからこのように広めるべきであったのにすまなかった。初孫に年甲斐もなくはしゃいでしまったようだ」
「あの、いえ…」
「このことは、当面はここにいた者の心のうちに秘めていてほしい。追って善き日に場を整えよう」
「あの、ヘンドリックス様…」
「貴様に名前を呼ばれたくはない。汚らわしい…」
つい夫の名前を呼んでしまったのは仕方のない事であろう。
けれど、それに対する応えは、明確な拒絶だった
「でん、か…?」
お飾りの妻と言えど、人前では丁寧に扱われていたエリザベートは驚いた。
当然、王をはじめ居合わせた人々も、だ。
「私はこれまで夫として、ただ一点を除き完璧にやってきた。しかし貴様はそれを裏切ったのだ」
いっそ憎しみさえ浮かぶ瞳で、ヘンドリックスはエリザベートを睨みつける。
「妊娠を認めろ。貴様とは離縁する」
あっけにとられるエリザベートの肩に、厚手のショールが掛けられた。
貴婦人に可能な限りの速さで駆け寄ったジョアンナが、薄い肩を守るようにエリザベートにショールを巻き付ける。
「お体を冷やしてはいけませんわ。大事な体ですもの」
「ジョアンナ…?」
「エリザベート様、大丈夫ですよ」
プライベートのほぼすべてを任せているといっても過言ではない侍女長に労わるように微笑みかけられて、エリザベートはほっと息をついた。
そしてその瞳に宿る強い意思を見て取って、エリザベートは再度背筋を正した。
エリザベートだって、これまでただ年寄り連中に愛でられていたわけではない。
綺麗事だけではない、王宮の暗部だって理解している。
現状を打破するためには、まずは状況を正しく理解することだ。
「…わかりました。殿下との離縁を受け入れます」
「いや待て、なぜ離縁する必要があるのだ。せっかくの慶事だというに!」
王が慌てて止めようとするが、ヘンドリックスの指示で書類が運ばれてくる。
貴族の婚姻やそれに伴う利権を扱う部署の者が運ぶそれは、まさしく王族の離縁に関する重要書類だ。
驚くべきことに、そこには既にヘンドリックスの名が刻まれ、受け取ったアィミールがうっとりとその筆跡を指でなぞった。
どうやらアィミール信者の官僚たちの手によって、既に準備されていたものらしい。
しかしエリザベート過激派たちも黙ってはいない。
最終的には王と宰相の持つ印章が押されなければ、書類として認められないのだから。
「陛下、私は先程申し上げましたよね、夫として完璧だったと」
「…そうじゃな、ある一点を除いて」
強気にほほ笑むアィミールから書類を受け取ったエリザベートは、念入りにそれらを確認している。
横にはジョアンナによって筆記具も用意されており、いつエリザベートがサインするのかと皆が期待と悲哀の視線でもってはらはらと見つめていた。
「その『ある一点』というのが…」
「そこな令嬢との浮気であろう」
「いいえ、違います」
断言したヘンドリックスに、王たちの胡乱げな視線が集まる。
「愛妾の一人や二人など…この国の歴史を見れば取るに足りないことでしょう。まして側妃をお持ちの陛下なら、ご理解いただけるはずだ」
当然のように述べるヘンドリックスに、誰も反論しない、否できない。事実だから。
王制を敷くこの国でのどうしようもない一夫多妻制は、王だけでなく貴族たちにも伝播している。
爵位が上がればそれが顕著で、公爵ともなれば愛人がいないことの方が珍しいくらいであるし、もちろんこの場にいる過激派の中にも愛人を持つものが多数いた。
彼らの沈黙は、それこそが肯定である。
その間にもエリザベートの手は止まらず、アィミールに何事か話しかけながらもその返事に納得したらしい、一つうなずいて書類を読み進めていく。
まるで只の上司と部下のようだが、実際は全くもって違うことを誰もが知っている。
エリザベートは淡々と確認を進めているが、アィミールの口元は引き締めては時折緩んでにやけそうになっているのを隠せていないしそわそわと落ち着きもない。
仕事ができる才女も、恋愛の前ではただの人であるようだ。
「私がエリザベートに不誠実であったのはただ一点、彼女に『白い結婚』を望んだことだ」
会議室がどよめいた。
白い結婚などありえないと叫ぶ者がいれば、噂は何だったとかと訝る者がいて、その隣では再度エリザベートの腹を凝視する輩もちらほら。
エリザベートの近くに座っていたものは驚きに身を引き、王は開いた口が塞がらない。
妊娠している女性を前に白い結婚であったなどとほざいたのが、自身の息子であることに王は憤り、そもそも白い結婚を望んだのはヘンドリックスであるという発言に絶望した。
何を言っていいかわからず、はくはくと口を震わせた王は、やっとのことで言葉を吐き出す。
「…白い結婚というのは、まことであるのか」
「えぇ、私が言い出したことですので。ジョアンナにも確認してください。そのためにここに呼びました」
皆の視線が一斉に、エリザベートの横に控える王太子妃付侍女長に注がれた。
それらの視線に臆することなく、ジョアンナは王を見つめ返すと、王は嘆息にも似た微かな溜息を洩らした。
「…発言をお許しいただけるようですので、私から補足をさせていただきます事ご容赦くださいませ。
殿下と妃殿下についてですが、白い結婚で間違いのうございます。初夜の翌朝、確認を行うのが妃付侍女長の務めでございますが、妃殿下の純潔は散らされてはおりませんでした。殿下たっての望みであったと聞かされております。その後も殿下は何度もお渡りになりました。その都度わたくしが妃殿下の翌朝のお世話を仰せつかっておりますが、白い結婚であり続けたことを確認しております。お二人でよほど示し合わせて片付けなどなさっていれば話は別ですが、もしそうだとしたら、誰かしら使用人の目に留まったことでしょう。しかしそういった話は聞いておりません」
「お判りいただけましたか、陛下」
「…」
「万が一のためにと、ジョアンナに証人を頼んでおいて良かった。彼女は私の予想以上の働きをしてくれたようだ」
「……して、白い結婚の目的は」
「そんなのわかりきっているじゃないですか。アィミールを正当に国母とするためです」
再度どよめきが起こった、主に狂信者たちを中心に。
それらの声に満足げにうなずいて、ヘンドリックスはアィミールに歩み寄り、そっとその肢体を抱き寄せた。
「妻を迎えて三年たっても子が出来なければ側妃を迎え、第一子であれば側妃の子供でも王位継承権が与えられるのがこの国の習わしでしたね」
「否定はしない」
「私は愛するアィミールとの子に王位を与えたかった。美しく、聡明で、まさに才色兼備であるアィミールとの子供に」
言外にエリザベートを貶しているのだが、既に演説と隣に並ぶ子爵令嬢に酔っているヘンドリックスは気づかない。
いや、もしかしたら故意に回りくどくエリザベートを非難しているのかもしれない。
アィミールは確かにとても美しい令嬢であったし、エリザベートは身体中のどこもかしこも王宮で丁寧に手入れされているが、彼女と並ぶと翳んでしまう程度の容姿である。
二人が並ぶことなどこれまでになく、いざ実際に並んでみればそれはより明らかであった。
狂信者たちの熱い視線を受け止め、ヘンドリックスに愛を囁かれ、自信に満ち溢れたアィミールは豊満な胸をそびやかせて大輪の笑顔を咲かせた。
まさに勝者の笑みである。
「陛下」
二人の世界と言わんばかりの陶酔に水を差したのは、決して大きな声ではなかった。
ことりと小さな音を立てて、エリザベートがペンを置く。
「陛下、並びに宰相閣下。こちらに印章をお願い致します」
そっと差し出されたのは、先ほどから確認していた書類であった。
細く白い嫋やかな手が、王の視界に入った。
この細い指が、ヘンドリックスではないどこぞの男に触れたのか。
この白い手が、どこの馬の骨とも知れない男の肌を知っているのか。
この嫋やかな腕が、自分の息子を裏切り下衆の背に回されたのか。
言いようのない不快感と絶望に、ついに王の手が印章をつかんだ。
震える指で朱肉にめり込ませ、強ばる全身をどうにか支えながら力いっぱい紙に押し込む。
ふーっふーっと荒い息であるのを誰が止められようか。
次に印をと構える宰相も似たような状態であった。
当然のように所々滲んだ印影であったが、ヘンドリックスとアィミールは満足げに書類を受け取る。
ヘンドリックスは、これまで耐えてきた時間を想った。
エリザベートは王太子妃として良く勤めてくれたと思う、だからこそ初夜の場で白い結婚を望んだこと、ずっと申し訳ないと思っていたのだ。
それが実は自分以外の男に身体を開き、女としての喜びを知っていた。
妃として断罪するに値する出来事ではあるのだが、ヘンドリックスはこれこそ神の導きであると喜んだ。
なぜなら、アィミールもまた妊娠していたのである。
約束の三年まであとちょっとというところで気が緩んでしまったのかもしれない。
妃よりも先に愛人が子を産んでしまえば、いろんな意味で争いになることは明白だった。
たとえ絶対、妃が妊娠することがなくとも。
しかしそれを知るのは自分だけであり、アィミールとの子供の王位継承権は何ら瑕のないものとはならないだろう。
それがここにきてヘンドリックスの予想を覆す事―妃の妊娠―が起こり、彼はこれをチャンスに変えた。
つい昨日までは愛するアィミールの妊娠に動揺し狼狽え焦っていたことがまるで嘘のように、今はすべてが満たされ、万事が望んだとおりに進んでいる。
「これで貴様は正式に妃ではなくなったな。すぐにでもこのアィミールを王太子妃にするよう手続きを」
やっと、やっとだ。
もういっそ凪いだ心で、裏切りを水に流し、これまで勤めてくれたことのみを褒めて遣わそう、そんな気持であった。
「心よりお祝い申し上げます…ところで殿下、慰謝料はいつお支払いいただけますか?」
「慰謝料…?」
「えぇ。先ほどの書類に『どちらかの非でもって婚姻が破棄される場合は、非のある方が慰謝料を支払う』とございました。いつお支払いいただけますか」
「…まるで非がこちらにあるとでもいう口ぶりだが、なぜ私がそんなものを払わねばならんのだ」
ヘンドリックスはじめ、皆が裏切りの元妃を睨みつけるが、エリザベートは眉一つ動かさず、ヘンドリックスを見返した。
一度だけ目を伏せ、ヘンドリックスの隣に立つアィミールを目を眇めて見やってから、再度口を開いた。
「確認したいことがございますが、よろしいでしょうか」
「今更何を確認するというのだ」
「アィミール子爵令嬢の、妊娠の有無を、です」
今度はアィミールの腹が数多の視線に突き刺された。
居心地悪げに身じろいだ彼女は、ヘンドリックスに身を寄せ、その身体を隠そうとする。
それがもはや答えの様であるが、エリザベートはヘンドリックスから決して視線を逸らさない。
これは裏切りではない、愛のため、無用な争いを避けるための些事である、そう心のうちで呟いてから、ヘンドリックスは彼女の言葉に肯首した。
「彼女は、私の子を身籠っている」
背にかばうようにしたアィミールを隣に抱き寄せ、微笑みかける。
ゆったりとまだ薄い腹を撫でる様子はまさに一幅の絵画のように美しく、緊張と興奮に満ちたこの空間をほんの少しだけ緩ませた。
元妃とは白い結婚であったが裏切られ、彼女は妊娠している。
今現在その相手が誰であるか追及されないのは、王太子の子ではないことが明らかであるからだ。
そして別の子の存在。
王太子と、その愛人…今はもう正式な妃候補である女性とその妊娠。
後者が貴ばれるのは明白であった。
「ご懐妊、おめでとうございます」
眉一つ動かさず、エリザベートはヘンドリックスから視線を逸らさない。
「それからわたくしエリザベートは、妊娠しておりません。加えて言うならば、純潔を守ってございますわ」
誰もがぽかんと口を開いていた。
「不思議そうな顔をなさっておいでですが…わたくし一言も妊娠したなどと言ってはおりませんし、なんなら否定もいたしましたわ。聞く耳を持ってくださらなかったのは皆様の方でしてよ?」
「だが…」
誰かが目にした、酸っぱい果実を平気で食したというのは。
急に締め付けのないドレスを身に纏ったのは。
うっそりと微笑みながら腹部を撫ぜたのは。
冷えてはいけないからと、大切な体だからと、侍女長に諫められたのは。
体調不良を訴えていたのは。
妊娠初期の兆候であろうそれらは、いったい何だったのだ。
戸惑いながらもちらほらと疑問を投げかけるもの達に、エリザベートは一つ一つ丁寧に答えた。
「皆様、かの国に実るというミックリーフルーツというものをご存じかしら?先日の宴にも供されたのですけれど…食べた方はいらっしゃいまして?わたくし初めて食べたのですけれど、そのフルーツの後に酸っぱいものを食べると、とても甘く感じるんですの。とても不思議で面白くて、ついついリモネを何度もかじってしまいましたわ。
この装いについてですが、親愛の意を伝えるのに友好国の衣装を着るのは、さほど驚くことではないかと。確かにこのゆったりとしているのに気品のある…自分で言うのも憚られますが衣装のことだと大目に見てくださいましね…美しいものを身に着けたいと思うのは女として当然ですわ。ましてやコルセットを着なくてもいいのですもの。男性の皆様は一度コルセットで締め上げてもらえばいいのです。そうすれば、わたくしがつい腹部に手をやってしまった気持ちもお判りになることでしょう。
それから…なんでしたかしら、あぁ体調不良についてでしたわね。あまり強く申し上げることではないのですが…月のものがきておりまして、障りのない程度にお休みをいただいておりましたの。女性の体を冷やしてはいけないのは常ですけれど、月のものの折は特に。ご存じありませんこと?ちょっとした体調不良など気合でなんとかしろなどとおっしゃる方もおられますが、個人差があるものですもの、一概には言えませんわ。それに大変重くて苦労される女性もおりますのよ。まずはわたくしが率先してお休みをいただくことで、侍女や女官達にも休みやすい環境を作るべきと女官長達とも話しておりましたの。皆様にも書類でお知らせしておりましてよ?
わたくしの妊娠が勘違いであること、お判りいただけまして?」
「だが…口ではどうにでも言えるではないか」
震える声でヘンドリックスが反論するも、エリザベートは一蹴する。
「侍医に確認をお願いしましょうか。わたくしはもう王族ではありませんが、今のわたくしの体調をいっとう知っている方ですもの」
「…純潔のままであるという証明は」
「それはもう信じていただくしかありませんわね」
エリザベートが目を伏せふっと息をつき、ヘンドリックスに微かな希望が生まれた。
「口をはさむ無礼をお許しください」
声を上げたのがジョアンナであったからだ。
自身の乳母の姉である彼女は味方である、だから白い結婚も彼女にだけは打ち明け、協力を頼んだ。
先程も自分を支援する発言をしてくれた。
今回も、そうであろう、と。
「純潔についての直接の証明ではありませんが、エリザベート様が殿下と婚姻なさってから殿下以外の男性と二人きりになったことなどない、と証言致します。
王太子妃宮の規定にもありますが、エリザベート様の王太子妃としての私室には殿下と護衛騎士以外の男性がお入りになったことはございません。もし騎士が入ったとしても、その時には必ず私かほかの侍女がついておりますし、公務で外出なさる時もエリザベート様は常にわたくしをお側においていられました。まぁ公務中ですから、たとえ愛人が存在したとしても二人きりで逢瀬などもってのほかですが…」
一介の侍女長がちらりと視線を投げただけで、王太子がわずかにたじろぐ。
その言葉に後ろ黒いものがあるのは周知の事実であろうし、単に絶対の味方であったはずのジョアンナに対する衝撃かもしれない。
「本来であればわたくしの言葉のみでは、証拠にも証明にもならないことは承知しております。しかし先程の白い結婚について、わたくしの発言を皆様信じていただけたようでございました。此度の言葉も、どうぞ重くお受け止め下さいますようお願い申し上げます」
朗々と告げたジョアンナは、仕事をやり切ったとばかりに一歩下がってエリザベートの後ろに控えた。
確かに、たかが侍女一人の発言では証拠となりうるにはいささか弱い。
けれど彼女も言うように、王太子の白い結婚について唯一当事者以外で知るものとして、先の彼女の発言は有用であると皆に信用された。
それを元王太子妃の不貞がなかったであろうことに関してのみ信用しないなどとは暴論にもほどがあることは、ヘンドリックス自身が理解できないほど無能ではない。
「そなたは…私の味方ではなかったのか?」
「味方、でございますか。わたくしは王太子妃付侍女長としての職務を果たしただけにございます。加えて言うとすれば…わたくしの夫は、エリザベート様の御父上である公爵閣下とは遠縁にあたり大変目をかけて頂いております。そのご縁でこうしてエリザベート様の侍女長を務める栄誉をいただきましたわ」
貴族の婚姻・親戚関係やそれに伴う派閥の強弱など、王太子として把握していて当然の情報である。
それを失念してしまったのは、乳母による溺愛のためか、それとも恋は盲目とでも言うべきか。
「わたくしと殿下の白い結婚、並びに愛妾とはいえ正式な側妃でもない者と先に子を生したこと、お判りいただけまして?これでもまだ殿下に非はないとおっしゃる?」
一言も発することができず拳を握り締めるヘンドリックスと、真っ青な顔でその上着の裾を握りしめるアィミール。
先程までこれからの三人の幸せな生活に何の憂いもなかったけれど、それが一転して取り返しのつかない汚点となった。
この先に待つのは、幽閉か、貴族位を剥奪しての平民落ちか、はたまた罪人としての生活か。
醜聞を避け極秘のうちに陛下からの恩赦を賜り、アィミールが正式に妃となって何事もなかったかのように子供が生まれるかもしれない。
けれどどうしたってこれまで通り、いや描いた理想通りにはならないであろう。
その理想は、ヘンドリックスとアィミールの元正妃への裏切りの上に成り立っていることが周知の事実であるからだ。
黙り続けるヘンドリックスからようやく目を逸らし、エリザベートが立ち上がる。
「陛下の意に沿えるご報告でなく申し訳ありませんでした。これにて、失礼いたします」
皆の前で優雅に礼を執り、エリザベートとそれに付き従うジョアンナが退席した。
重苦しい会議室とは対照的に、エリザベートの心は晴れやかだ。
「…予定外に早かったわね。準備は出来ていて?」
「滞りなく。まずは公爵邸へお帰りくださいまし。伯爵家の馬車で申し訳ありませんがご用意しております」
「まぁ、ありがとう」
三年。そう三年待てば、エリザベートは自由になるはずであった。
白い結婚ののち、円満に側妃を迎えて子を生す、王太子はそう語ってエリザベートを三年間縛り付ける、はずだった。
ところが三年まであと僅かというこの時になって、偶然と勘違いが重なり、なんとエリザベートに全く非がない状態で王太子妃というしがらみから抜け出すことができたのだ。
僥倖である。
「まさか慰謝料までついてくるとは思わなかったわ」
「えぇ、本当に驚きでございます。皆様そろいもそろってあんな勘違いに踊らされて…」
「うふふ、笑っては可哀想よジョアンナ」
「ですがあんな方々がトップに立たれては、王宮も大変ですわね」
「そこはきっとお父様が何とかしてくださるわ」
この一件で公爵であるエリザベートの父は、更に王宮に幅を利かせることになるであろう。
先程の会議室でも王に近い位置に座って静観していたエリザベートの父は、権力欲の塊である。
エリザベートと王太子との縁談をまとめたのも、父の主導があったからだ。
キズ物にされた娘を盾にして、これから王宮を掌握していくのだろう。
エリザベートにはそういった欲はないけれど、これまで知識や公務といった時間をいろいろ詰め込まれてきたので、出来るものならのんびりと過ごしたい。
貴族の娘に生まれたからには再度父の決めた相手に嫁がなければならないだろうが、父が王と共にまとめた縁談が駄目になったのだ、多少のわがままを言う余地が出来たはずだ。
公爵邸に帰ったら何をしよう。
流行のお菓子を食べて、王家の威信やらに捕われず自分の好みだけでドレスを仕立てて、これまで行けなかった旅行にも行けるかもしれない、のんびりと朝寝坊をするのも捨てがたい。
エリザベートの瞳はこれからの期待と希望にきらきらと輝いていた。
一方、閉めきられた会議室の内側では、誰もが目を彷徨わせて口を引き結んでいた。
呆然自失の王に、ガタガタと震える王太子、今にも倒れそうなほど青白い顔をした子爵令嬢。
皆が息をひそめて微動だにしない中、場違いなほどのんびりと、立ち上がったものがいた。
エリザベートの父、この国でも指折り数えるほどしかない名門の公爵家当主である。
「私から提案があるのだが、いいだろうか」
ヘンドリックスには、もう幸せな未来がひとかけらも思い浮かべられなかった。