Ⅰ・5月7日
——Jacobus Alphaei
アルファイの子ヤコブは、ゼベダイの子ヤコブより、後に弟子になったため、小ヤコブと呼ばれるようになった。
信仰が厚く、敬虔な人物として知られているが、彼に関する記述は少なく、その生涯は謎に包まれている。
イエス・キリストの死後、エルサレムの初代司教となったとする記述もあるが、その真偽は定かではない。
過越祭の夜、ユダヤ人たちは小ヤコブへある依頼をした。その依頼とは、大衆がイエスへの崇拝を止めるよう、説得してくれと言うものだった。
だがユダヤ人たちの目論見に反し、小ヤコブはイエスを讃える説教を始めた。
怒り狂ったユダヤ人たちは、布を晒すための槌で小ヤコブの頭を打ち、脳を割ってしまった。そのためこの過越祭の日が、小ヤコブの殉教の日となった。
◇ ◇ ◇
不慣れな路線の車内アナウンスに、ずっと耳を澄ませていた。
車両がホームへ滑り込む一分以上前から、ドアの前で待ち構え、ドアが開いた瞬間、回りの誰よりも早く、ホームへの一歩を山﨑光平は踏み出した。
武蔵小金井の駅に降りるのは初めてだった。
蒲田駅前の紳士服屋で礼服を受け取り、時間がないからと、試着室で着替えをさせてもらった。礼服を入れてくれていた、大きな紙袋に必要のない荷物を投げ入れ、蒲田駅構内のコインロッカーに押し込んだのが、十七時過ぎだった。
都心へ向かう京浜東北線は比較的空いていて、東京駅までの二十分は快適に過ごす事が出来た。それなのに東京駅で乗り換えた中央線は、始発だと言うのに、夕方のラッシュに巻き込まれ、座る場所すら見つけられなかった。満員電車の揺れに、埃が付かないかと、黒すぎる礼服を気にしながら、ようやく武蔵小金井の駅に着いたのが十八時十七分だ。
——間に合った。
腕に填めた時計を見る。
待ち合わせの十八時半に、余裕を持って辿り着けたホームで、周りを見回してみる。仕事帰りに、学校帰りだろう。多くの人の流れが家路へと急いでいる。そんな流れをざっと目に収めたが、そこに知った顔は一つもなかった。
人の流れに合わせ、足早に階段を下りる。邪魔にならないよう、立ち止まりはせず、ゆっくり歩きながら改札を探す。
「おい、田村。こっち」
探すより先に声が掛かる。その声に目を向けると、黒い喪服の集団が飛び込んできた。
「よっ、久しぶり。田村で九人目だな」
連絡を寄越してきた大島だった。
同級生達の輪の中に入る。それぞれ喪服と呼ぶに相応しい格好ではあったが、これから告別式へ出向く雰囲気ではなく、ちょっとした同窓会になっていた。
「あと十分だな。誰が来られるか分からないから、手当たり次第に連絡したんだ。なんで、あと十分。十八時半になって、居る奴だけで先生の家に行くから」
同級生の中で、唯一教師になった大島は、卒業した後も田邑先生と交流があり、今回の役を買って出ていた。大島の呼び掛けに集まった同級生達。その輪の中に簡単に入っていく事が出来るのは、楽しい学生時代があったからに違いない。周りの誰もが頬を緩ませ、久々の再会に、話を賑わせていたが、そんな不謹慎な表情も一瞬で消える。
「さあ、行くか。そろそろ時間だしな」
大島の一言に、緩ませた頬を緊張させた。周りの同級生達を見ても、それぞれが喪服に相応しい表情に変えている。
高校時代の恩師、田邑春夫の告別式は十八時からだと聞かされていた。告別式開始より、三十分も遅い、敢えての十八時三十分の集合は、大島なりの配慮だったのだろう。
式開始早々に、教え子達がぞろぞろと参列する訳にはいかない。何十年も教師をしてきた田邑先生の教え子が、自分達だけではない事は容易く想像がつく。
恩師である田邑先生とは、三年間を共に過ごした。学年毎にクラス替えがある学校ではなかったので、クラスメイトは変わらず、担任も変わる事はなかった。三年と言う歳月は短いようで長く、田邑春夫を恩師と呼ぶに値する人物に変えていった。
そんな田邑先生の訃報が飛び込み、礼服に身を包んで駆け付けたのが今だ。
大島を先頭に、田邑先生の自宅へと向かう。さっきの同窓会のような雰囲気はすっかりと消え、みんな弔問客の顔になっている。自分が三十歳になったように、同級生達も同じだけ歳を重ね、大人になっている。十年ちょっと前を懐かしむのも束の間。かけがえのない恩師を、送り出す気持ちがみんなの顔にも表れていた。
十人を超える集団で訪れたとあって、焼香は流れ作業で行われた。喪主が田邑先生の奥さんである事は分かったが、それ以上の関りを持つ事は出来ず、会場を後にさせられた。滞在時間はほんの二十分程度。それだけ多くの人が訪れた告別式とあって、生前の故人がどれだけ慕われていたかが分かる。
——それなのに田邑先生は殺された。