Ⅰ・5月5日
——Philippus
フィリポはベツサイダに生まれた。元は洗礼者ヨハネの弟子であったが、ヨルダン川の岸辺にて、『私に従いなさい』と、声を掛けてきたイエスの弟子となった。
イエスの十二人の弟子、十二使徒に選ばれたフィリポではあったが、イエスを呆れさせる発言を幾つも残している。
イエスの昇天後は、真面目に伝道に努めていたフィリポであったが、八十七歳のある日、ヒエラポリスの町で異教徒達に捕えられ、二人の娘と共に十字架に掛けられ、石打ちの刑となった。これがフィリポの殉教であり、ヒエラポリスがフィリポの殉教の地となった。
◇ ◇ ◇
【五月三日明け方。杉並区の蚕糸の森公園で男性の変死体が見つかる。男性は田村晃さん(38)公園内の木に縛られた姿で発見。田村さんは全裸で発見され、太腿には本人のものと思われる精液が付着していた。田村さんが縛られた木には、二メートル程の角材が釘で打ち付けられ、田村さんの両腕はその角材に縛られていた。田村さんの足元には血痕が付着した五十センチ四方の石が転がっていたため、その石が凶器となった物と思われる。杉並南署では殺人事件として捜査を進めているが、まだ犯人に繋がる手掛かりは掴めていない】
朝から全文に目を通せるほど、気持ちのいい記事ではなかった。
田村晃平は手にした朝刊を軽く丸め、咥えた煙草にもう一度火を点けた。新聞の記事に目を奪われていた間に、一度点けた火が消えてしまっていたらしい。煙草葉が多く詰まっている分、持ちがいいと勧められたその煙草は、しっかりと吸っていないと、簡単に火が消えてしまう。
もう一度火を点けた煙草を大きく吸い、丸めた新聞を開く。自分の名前に似た田村晃と言うその名前だけが浮かび上がり、目に飛び込んでくる。
寝心地が良いとは言えない、ソファで目を覚ました。起き切らない頭で、煙草を吸うため署の外へ出ただけだった。刑事が歩き煙草と言う訳にもいかない。仕方なく署から一番近い喫煙所を目指したのが、今いるコンビニだ。
灰皿だけを借り、帰るのも申し訳なく思い、手に取ったのが、まだ棚にも並べられず、レジの横に積み上げられていた朝刊だ。署内に、それかせめて敷地内に喫煙所を作ってくれていれば、朝からこんな記事を目にする事はなかった。
喫煙所に置かれた丸椅子に、腰を下ろそうかとも思ったが、新聞一部で長居する事も申し訳なくなり、缶コーヒーを一本レジへ運んだ。たった一人の従業員のネームプレートに目をやると、店長の二文字が見えた。釣銭を受け取りながら、その二文字に小さく息を漏らす。外国人従業員なら、細かい事など気にしないだろうが、他に客の姿が見えない、早朝のコンビニで長居をすれば、不信感を持たれても仕方ない。
缶コーヒーのタブを引き、喉元にコーヒーを流し込む。冷蔵庫から取り出したばかりのコーヒーはさすがに冷たく、起き抜けの目を覚ましてくれる。
さっき吸っていた煙草が長いまま灰皿に沈んでいる。二本目の煙草を咥え、ようやく丸椅子に腰を下ろす。この手間が意味する事の理由を、考える必要があるのか、ないのかは知る由もない。ただ必要なものは、自分の名前によく似た被害者を受け止める覚悟だけだ。
火が消えないようにと、大きく吸い込んだ煙草を咥えたまま、新聞を開く。
そこに田村晃の名前を探そうとしたが、そんな必要はなく、その名前だけが浮かび上がる。
田村晃の記事だけを目にするために、拡げた新聞を二つ、四つ、八つと折り、しっかりと落ち着いた目でその記事に対面する。
杉並、蚕糸の森公園、変死体、田村晃、三十八歳、全裸、太腿、精液、角材、血痕、石、凶器。
記事から読み取れる情報を頭の中に羅列する。明け方の公園で、木に縛られた姿で発見された男。それ程大きくは無い記事の、全容が体中に染みていく。
自分が吐き出した煙ではあったが、小さな喫煙所の中は、いつの間にか目が痛くなる程の煙が充満していた。ふと忘れた時間ではあったが、白い煙にそれ以上の滞在を阻まれ、喫煙所を、そしてコンビニを後にして署に戻った。
多摩川南署はJR蒲田駅から、歩いて十五分程の所にあった。この多摩川南署に配属が決まり、蒲田駅近くに引っ越しはしたが、幾ら近いとは言え、宿直の日に家に帰る訳にはいかない。署に戻ったと同時、スウェットのポケットからスマホを取り出し、まだ五時を回ったばかりだと言う事を知る。
——もうひと眠りするか。
八時が近くなれば誰かが、出署して起こしてくれるだろう。
ほんの三十分程前まで倒れていたソファに、もう一度体を沈める。ソファの前のテーブルに朝刊を置いたが、もう田村晃の名前が浮かんでくる事も無い。
心にざわつきもなく、もう一度ゆっくり眠れるはずだ。それなのに目を閉じた途端。瞼の裏には記憶のどこかにある光景がじわりと描かれ、記事から読み取れた情報が重なっていった。
深夜の二時か、三時位だろうか。それが真夜中だと言う事は感触で解る。
——ここは?
瞼の裏に、深夜の蚕糸の森公園に身を潜める、自分の姿が描かれる。もう十年以上は前の話だが、深夜の蚕糸の森公園へは、足を踏み入れた事がある。
青梅街道を行き交う車のライトが見えなくなる程、公園の奥へ奥へと足を進める。もう丸の内線も終わっている時間だ。東高円寺の駅を利用する人の姿など見えない。
同様に中央のグラウンドにも人の姿は見えないが、人気のないグラウンドを避けるように、鬱蒼とした森へと足を進める。都心の公園なのだから、森と言える森ではないが、それでも奥へ進んで行けば、鬱蒼という言葉が似合わない訳ではなく、若干の喧騒から逃れる事が出来る。
こんな時間に、こんな場所にいるのは、お仲間でしかない。暗闇の中、はっきりとその姿形が分かる訳ではないが、そんな事はどうでもいい事だ。
ただ性欲の捌け口がそこにあるだけで、それはお互い様だ。
顔も分からない男。それなのに何故か、誘い込むその眼だけは、見つける事が出来る。暗闇にその眼だけが浮いているようにも見える。記憶のどこかに潜む執拗な眼。
性欲を剥き出しにした眼が近付く。伸びた手が上から下へ、衣服を剥ぎ取っていく。背中に何かカサカサと乾いたものが触れる。
カサカサと乾いた何かが、背後にした木の皮だと知った時、両腕にビニールの紐が回されていった。腕を縛られた角材が皮膚を傷付けていく。少しでも動こうとすると、更にビニールの紐が食い込む。
暗闇の中、視線をずらせば太腿の横、あの眼が見えていた。眼は笑っているが、眼の下の大きく開かれた口は見えない。
それでもその口の柔らかな感触が、体を小刻みに震わす。
——何の木だろうか? 何の木に縛られているのだろうか?
そんなどうでもいい事に気を取られた、その時だ。木とそこに打ち付けられた角材に縛り上げられ、自由を奪われている事を再認識させられた。
その直後、再び濡れた口の柔らかな感触が、一点に集中した。
数秒なのか。数分なのか。それとももう何時間も経っているのだろうか。快楽に溺れる時間は計る事が出来ない。じっと目を閉じる。
あの眼が腹の辺りで大きく見開いている。じっと目を閉じ、何度も何度も腰を引く。ただ果てる瞬間を待つだけだ。
眼が連れて来た快楽に、何度も何度も果てる。全身の力が奪われていく。だらりと腕を下ろしたいが、縛り上げられた角材に邪魔され、叶う事はない。だがそれは一瞬だった。
頭に大きな衝撃が走る。
額から流れ出た血が、目の中を赤く染めていく。そしてもう一度大きな衝撃が走る。あの眼が大きな石を頭へと振り下ろしている。赤く染まった視界。
もうすでに息絶えているはずだ。それなのに何度も何度も振り下ろされる石が見える。眼が嗤っている。石が頭を破っていく。痛みはない。声は出ない。
眼は嗤い、何度も何度も石を振り下ろす。
——これは?
——快楽なのか?
——これも快楽の延長にあるものなのか?