Ⅱ・12月27日
喫煙所のソファに腰を下ろし、一本目の煙草に火を点ける。壁の時計に目をやると、十二時を回ったところだった。
火を点けただけで、まだ一口も吸っていない、そんな短い時間にも、喫煙所を目隠しするカーテンが何度も捲られる。喫煙所の中を確認するために、誰かが捲ったのだろうが、一本の煙草を吸い終わる間に、いったい何度捲られた事だろう。
そんなカーテンを捲る手だけしか、見えなかった隙間に、一人の男が現れた。
「火、借して貰えますか?」
箱から一本の煙草を取り出しながら、男が腰掛ける。
二本目の煙草を咥え、ライターを手渡した男の指先は、やけに白く細いものだった。
どうも。と一言。ライターが戻される。
薄暗い中でも男の顔はしっかりと見る事が出来た。例え明るい所で見たとしても、端正な顔立ちをしている事は、その輪郭からも分かる。指先と同様に白い頬が、煙草の火でオレンジ色に染まる。見惚れているのも失礼だと、目線を逸らした下方には、ガウンの下に見える、白い胸があった。
煙草を吸いながら男が体の向きを変える。はだけたガウンからは胸どころか、乳首まで覗かせている。その姿に思わず唾を飲み込んだ時、男の手がすっと伸びてきた。
煙草を持たないもう片方の手が、太腿から股間へと上がってくる。ここで拒否する理由など何一つない。サウナと言っても、ここはそれを目的としている場所なのだから。
男に手を引かれ、喫煙所を後にする。廊下には少しの明かりがあるが、その先は暗闇だ。男の手が暗闇へ誘う。
大部屋には所狭しと、布団が並べられてある。暗闇の中、目を凝らしたとしても、すぐ目の前すら見えない闇。すでに事の最中の、その声だけが響く中、誰も横になっていない布団を見つけたのだろう。男がぶら下がるように、背中と肩に手を回してくる。男の体重が掛かり、否応なく布団に沈められる。ガウン越しだとしても、布団の湿気が全身に伝わる。誰のものとも分からない汗や体液が染み付いた布団に、仰向けになった時、男の顔はすでに股間の上にあった。
場所が場所なだけに、前戯なんてものは不要だ。ただ欲望を放出させるだけでいい。
それに男はこちらの反応を確認するなり、跨ってもきていた。幾人かのギャラリーの目に、取り囲まれている事は分かっていたが、行為に熱中している今、それは気に留めるに値しない事だった。そんな目の中に、他のものとは比べ物にならない程、執拗な視線を投げる目があったが、それも興奮を高める要因にすぎない。
男との行為は三十分程で方が付いた。事を終え、立ち上がった男のシルエットを眺めながら、枕元にゴミ箱を探る。丸めたティッシュを投げ入れ、じっと目を閉じてみる。男との行為の余韻に浸っている訳ではなく、忘れていたアルコールが急激な眠気を連れてきていた。
ほんの少しの時間、一人で横になっている間にも、何人もの男の手が股間へ伸びてきた。眠気には勝てず、振り払う事もせず、好きにさせていたが、手を伸ばすだけでなく、馬乗りになってきた奴の図々しさに、一気に眠気が吹き飛び、体を起こす羽目になった。
——風呂にでも入るか。
ガウンの紐を軽く結び、バスタオルを手にする。浴場へと向かう間も、こちらへ向く視線を感じはしたが、事を終えた後だ。そんな視線はただ躱すだけでいい。気にも留めず浴場へと続く廊下を進む。小さなロッカーに脱いだガウンとバスタオルを放り込み、浴場のドアに手を掛ける。その時だ。
「うわーっ!」
浴場の中から複数の者と思われる、甲高い悲鳴が聞こえた。
——何事だ?
素っ裸の男達が、慌てて浴場から駆け出してくる。執拗なストーカー気質の変態でも出没したのか? そんな事ならよくありそうなものだが。
慌てる人の波に逆らい、浴場の中へと足を進める。一通り見回しはしたが、特に変わった様子は見えない。変態が出没したのは奥のサウナルームなのか、真っ暗なサウナルームから、一人二人と素っ裸の男達が駆け出してくる。その中の一人が浴槽へ目を向け、さっき聞いたような、甲高い悲鳴を上げる。
男の視線の先に目をやると、騒ぎの中、まだ一人優雅に湯に浸かっている男がいた。
さっきの男だ。薄暗い中で見た端正な顔が、湯船に浮かんでいる。色白く見えた肌がやけに紅潮しているが、眠っているのだろうか、しっかりと目は閉じられている。
——んっ? 八十五度?
その数字に目を疑った。浴槽の壁、眠る男の頭の上。温度計が示す湯の温度。隣の浴槽の温度計は四十二度。
——壊れているのか?
確かめるべく、浴槽に手を伸ばす。
「あちっ」
とても手を浸けていられるような温度ではない。
「こっちです。早く!」
浴場へ飛び込んできた裸の男が叫ぶ。その後ろに続いてきた男。Tシャツにスウェットと言うその姿からスタッフである事が分かる。
「早く! 早く!」
急かされながら八十五度の浴槽へ近づいてくる。
その慌てぶりに全てを察する事が出来た。
——逃げないと。ここから立ち去らないと。
咄嗟の判断がロッカーへと急がせる。丸めたガウンとバスタオルを手に、階段を駆け下りる。周りを見れば、同じ考えの連中が慌てて身支度をしている。
巻き込まれる訳にはいかない。それは誰もが同じだった。
館内にいた男達が一斉に身支度を始める。身支度が済んだ者から、次々にロッカールームを後にしていく。
——さっきの男は死んだのか?
——最後に関わったのは? 俺なのか?
いや、こんな場所だ。複数の相手と行為を持つ奴もいる。それより今は、一刻も早くここを立ち去らなければ。救急車を呼ばないはずはない。そうなれば警察だって来るに違いない。こんな場所で素性を明らかに出来る訳がない。巻き込まれる訳にはいかない。大勢の男達が足早に立ち去る姿を見ながら、ようやく靴下を履き終え、ダウンを手にする。
——間に合った。
無人になったフロントに入り込み、六十一番の靴箱のキーを手にする。靴に踵を収めないままではったが、自動ドアを抜け、町へ戻る。