Ⅲ・7月4日
夏の草は背丈があって、晃平の腕に気色の悪い感触を与えていた。
多摩川の河川敷は陰を作るものもなく、七月頭とあってか、湿度だけは異様に高く、不快そのものの捜査だった。捜査と言っても、所轄内で事件が起きた訳ではない。多摩川を隔てた川崎で見つかった変死体。それは前日に山﨑に聞かされていた、トマスの殉教で間違いなかった。
「おい、そっちも何も出ないか?」
遠くから声を掛けてくるのは課長の古村だ。多摩川南署総出で河川敷を洗ってみるが、気になるものなど何一つ見つからない。
対岸の川崎で起きた事件ではあったが、捜査一課八係からの要請で、多摩川の大田区側は、神奈川県警の許可を得て多摩川南署が受け持つ事になった。
「遠慮なく捜査できますね。なんてったって捜査一課直々の依頼ですから」
声を弾ませているのは山﨑だけだった。もしかしたら山﨑の差し金かもしれないが知る由もない。タムラ姓の男ばかりが殺されている連続殺人だ。同じ田村として、事件の全容が気にならない訳ではないが、次の犠牲者は自分かもしれない。対岸まで迫ってきた手に、そんな考えが頭を擡げる。
「やっぱりこっち側で、何かを見つけろって言うのが、無理な話なんだよ。現場は川のあっち側なんだし」
山﨑の弾んだ声を受けても、同じように声が弾む事はない。出るのはゴミばかりだ。いったい朝から何本のペットボトルを拾った事か。
捜査ではなく、ただのゴミ拾いじゃないか! 普段から区がちゃんと掃除していれば。積み上げられたゴミの山を目にし、出てくるものは愚痴だけだ。そんな中、山﨑が大きな声をあげる。
「ここおかしくないですか?」
しゃがみ込んだ山﨑に視線を落とす。
「何がだ?」
「この一角だけ、草がきれいに刈り取られていますよ」
確かに視線を落とした地面だけが、きれいに剥き出しになっている。周囲は背の高い草が茂っているのに、山﨑がしゃがみ込んだ、その一角だけが、楕円形の大きな穴が開いたように見える。
「何かあったのか?」
山﨑の声に課長が駆け寄ってくる。
どれだけ山﨑が喰らい付こうが、所轄外だと相手にしなかった課長が、不思議なくらい熱心さを見せている。捜査一課に恩を売るチャンスだとでも思っているのか。
「この辺だけ不自然じゃないですか? きれいに草が刈られているんですよ」
「ん? 何だ、それだけか」
一瞬にして肩を落とした課長は、さっきまで見せていた、熱心さを失っていた。草が刈られた跡など、山﨑にとっては興味深くとも、課長にとってはどうでもいい話らしい。それにゴミ拾いには飽きた。そう言いたそうな表情を見せている。
「一応、捜査一課には報告しておけよ。松田警部も来ている事だし。お前の同期だろ?」
しゃがみ込んだままの山﨑に、助け船を出すつもりではなかったが、課長にも聞こえる程のわざとらしい声で、松田警部の名前を出してみる。
数時間を費やしはしたが、これと言った収穫はなかった。やはり対岸の事件だ。多摩川の向こうとこっち。橋からも少し離れた、この辺りから何か出るとは思えない。
橋? 周りを見回し、対岸の川崎へ目を向ける。
多摩川の河川敷の中でも開けた場所だった。橋は見えてはいるが、今いる河川敷からは随分と離れている。車通りも、人通りもそれ程、多くない場所だ。ましてや深夜。死亡推定時刻は夜の十時から翌二時だと聞かされた。山﨑が言う聖名祝日であるなら、夜の十時から十二時の二時間。そんな時間だからこそ、派手な死体を創り上げるのも容易かったのだろう。
この河川敷の捜査にあたる前に聞かされた話では、先の事件との共通点が、それ程ある訳ではなかった。十字架を模したものではない。共通点と言えば全裸の男である事。それと体に付着していた精液、そして田村姓であると言う事。
男の名前は田村優希。確か歳は二十七と聞いたはずだ。先の被害者と比べてもその若さが気になる。それでも同一犯の犯行だと、捜査一課が認めたのであれば、それは何かしらの共通点があると言う事だろう。山﨑が言う、十二使徒、それに聖名祝日。末端の刑事まで下りてくる話ではないが、捜査一課も山﨑の意見を踏まえたと言う事だろう。
変死体を芸術品だと言ってしまう事に疑問も残るが、田村優希の死に様は芸術品と呼べるほど、創り上げられたものだったらしい。首筋に一本、左の脇に一本、右の太腿の付け根に一本、そして心臓に一本。田村優希は四本の槍に刺された姿で発見された。
直接の死因は心臓を貫いた槍ではあったが、残り三本の槍は見事に大動脈を射止めていた。そこから流れ出た血が、白い肌の上で幾筋もの赤い線を描き、頬の辺りには、混じり合った赤い血と白い精液が面を作っていた。そんな話を聞かされた時、頭に浮かんだものは、その創り上げられた姿であって、そこに至る過程が浮かぶ事はなかった。
蚕糸の森での二つの変死体は、あの眼の誘導があっての事だが、少しずつ甚振られ、痛めつけられ、創り上げられていった。だが田村優希の死体を幾ら頭の中で再生しようとしても、あの眼が出てくる事はなかった。
田村晃、そして田村俊明の共通点は、新宿で聞かされたように、お仲間であると言う事だ。きっとそれがあの眼の誘導に繋がったのだろう。
情報量は同じだ。田村晃の死は新聞で知った。田村俊明の死もテレビのニュースで見ただけだ。そして河川敷の捜査の前に、田村優希の死についての情報を得た。
それでもあの眼の誘導がないのであれば、田村優希は性行為なく殺されたのでは? そんな結論に達しはしたが、その無意味さに我に還される。
「おい、山﨑。とりあえず区に問い合わせしてみたらどうだ?」
「そうですね。そうしてみます」
ようやく立ち上がった山﨑の頬には、少しではあるが血が滲んでいた。
「草で顔を切ったんじゃないのか? 頬に血が付いているぞ」
「えっ? どこですか?」
痛みは感じていないようだ。背の高い草の葉先が触れただけだろう。そんな山﨑の頬に、話を聞かされただけの、田村優希の頬がだぶる。
頬の辺りで、赤い血と白い精液が混じり合っていた。ん? 幾ら若いとは言え、頬まで自分の精液が飛ぶのか? さっき無意味だと思えた結論が、もう一度頭を過る。
——田村優希は性行為なしに殺された。