Ⅰ・7月2日
——Thomas
処刑されたイエス・キリストは三日後に復活をした。だがその場に居合わせなかったトマスは、イエスの復活を信じなかった。
そんな彼の前に復活をしたイエスは現れ、トマスを戒めた。ようやく彼はイエスの復活を信じたが、何事にも疑ってかかる彼を、人々は疑い深いトマスと呼ぶようになった。
「インドの王が優秀な大工を探している。インドへ行き教えを広めなさい」
イエスの教えを受けたトマスは、伝道のため、晩年をインドで過ごした。そのインドの地で異教徒達に捕えられ、槍で突き刺され殺された。これがトマスの殉教となる。
南インドのチェンナイには、今もサン・トメ聖堂が建っている。この聖堂はトマスの墓の上に建てられたもので、サン・トメとはトマスの事を指している。
◇ ◇ ◇
山﨑に聞かされた十二使徒の話を気にしながらも、首を突っ込むなと言った以上、自ら首を突っ込む訳にはいかない。何事もなかったように一日を終わらせた晃平は、コンビニで弁当とビールを買い、マンションへ帰る途中にいた。
蒲田駅周辺まで行けば、幾らでも飲食店はある。早々と十八時に署を出たのだから、ビールで餃子を流し込みたかったが、宅配の受取りを指定していた事を思い出した。十九時には部屋に戻っていなければならない。頭を過ったビールと餃子は諦め、暑さから避けるために寄った、コンビニで、夕食を済ませる事になった。
たった数分歩いただけでも、コンビニで冷やされた体は熱を持ち始める。小走りで急げば、汗まで滲んでくる始末だが、数十メートル先には、もうマンションが見え始めている。勿体ないと言われるのは分かっているが、朝、冷房を入れっぱなしにしてきている。
——もう少しで涼しい部屋に辿り着ける。
ふっ。小さく息を吐き、マンションへ滑り込む。
足を踏み入れたそのエントランスホールには、壁を背に座り込む一人の男の姿があった。エントランスホールには、管理人室の窓口があるが、いつも不在でその姿を見掛けた事はない。座り込んでいると言っても、壁に凭れ隅にいる男は出入りの邪魔になる訳でもない。管理人もいないし、誰かに注意される事もない。ずっと座っている事は出来るが何のためだろうか。
鍵でも失くしたのだろうか? いや、違う。
オートロックは鍵でも開ける事が出来るが、入居時に、オートロックのナンバーを教えられている。ナンバーを知らないのであれば、住人でない事は明らかだ。
コンビニの袋を手にぶら下げたまま、オートロックのパネルへと手を伸ばす。パネルの数字を押そうとしたが、似たような状況を記憶している事に気付く。座り込んだ男を無視して、そのまま進めばよかったが、似たような記憶が邪魔をして、思わず男に声を掛けていた。
「大丈夫ですか?」
掛けた声に男がゆっくりと顔を上げる。
「あっ、晃平さん。よかった」
男の顔は記憶に残っていた。見覚えのある顔。似たような記憶が今に重なる。確か、祥太。そんな名前だったはずだ。
「ああ」
声を漏らしたが祥太と言う名前には確信が持てない。
「入るか?」
名前を呼ぶ事は出来ず、何となく掛けた言葉に祥太が立ち上がる。
もう一度パネルのナンバーを押し、自動ドアを開ける。それ以上掛ける言葉も見つからないので、黙ってエレベーターへと向かう。その後ろを祥太が黙ってついてくる。
「いつからいたんだ?」
「えっ? 一時間くらい前からですよ。急に来て迷惑でした?」
「いや、急だったからびっくりしただけ」
ポケットから鍵を取り出し、部屋のドアを開ける。
「入っていい?」
背中に祥太の声を聞きながら、そのために来たんだろ? そう言いそうになって止めた。連絡先を教えている訳でもない。もしこの祥太が会いたいと思った時は、ここに来るしかない事は分かっている。
「俺、これから飯なんだ。急だから自分の分しか買ってないし、ビールでも飲むか?」
「お茶持っているから大丈夫ですよ。ご飯もカフェで賄い食べてきたし」
コンビニの袋をテーブルに置き、ベッドへ深く腰を沈める。ペットボトルを取り出した鞄を部屋の隅に置き、祥太が床に正座する。
「下じゃなくこっち座れば?」
新宿の飲み屋で知り合った日に、この部屋へ連れてこられた。そんな話を聞いたのが、宿直明けの朝だ。今日と同じように、マンションの前で待っていたのが二回目。さっき思い出した、似たような記憶。今日で三回目か。
「お邪魔します」
床から立ち上がった祥太が隣に座る。無愛想な顔もなんだからと、とりあえず口角を上げ、弁当の中のシウマイに手を伸ばす。
「カフェで働いているんだな」
「えっ? 最初会った時、そう言ったんだけどなあ。ああ、忘れているんだ。全然、俺なんかに興味ないって感じですね」
そう言いながら笑う祥太に、少し困った顔を向ける。
まだほんの一口ビールを流し込んだだけの体では、ただ隣に座っているだけで、どうにも照れ臭い。二回もこのベッドの上で過ごした相手なのに、性的興奮を持っていない時には、何も出来ない男だと自己嫌悪に落ちる。
「週三だけカフェでバイトしているんです。本当は作家になりたいけど、なかなか芽も出ないから、校正やテープ起こしの、バイトをしていて、でもずっと家に籠るのもなんだし、息抜きも兼ねて、カフェでバイトしているって。初めて会った日に話したんだけどなあ」
「ああ、そうだっけ。ごめん」
「謝らなくていいですよ。初めて会った日、晃平さん、相当酔っていたみたいだし。覚えてなくても仕方ないです。今日も押しかけちゃってごめんなさい」
「いや、あの。やっぱり外で一緒に飯食えばよかったな」
「あ、ほら、また。賄い食べたから大丈夫って、さっき言いましたよ」
顔を膨らませたあと、ぷっと祥太が噴き出す。
慣れない時間はどう対応していいものか悩みもするが、普通に生きていれば、これが普通の過ごし方なんだろう。
「すまないな。仕事の事で色々考えていて」
祥太から顔を逸らした時、チャイムが鳴った。タイミングよく宅配が届いたようだ。暫くの間、照れ臭い状況から逃れて、対応を考える余裕が出来る。
宅配の小さな段ボール箱を受取り、もう一度ベッドへと腰を落とす。段ボール箱をベッドの端へ放り投げ、食べかけの弁当に箸を伸ばす。
「中開けないんですか?」
祥太が追いやられた箱に目を向けている。
「たいしたもんじゃないから、慌てて開ける必要ないし」
シウマイを口に運びながら、話題を逸らそうとも思ったが、何一つ浮かんでくるものがない。
「あっ、分かった! 何かエッチな物とかでしょ?」
祥太が箱に手を伸ばそうとしている。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、開けていい?」
「いいよ」
祥太が想像しているような物ではない。ただどのように説明すればいいものか。自分自身、何故そんな物を買ってしまったのかは分からない。ただ頭の中に焼き付けられ、検索しているうちに模造品販売のサイトに辿り着いた。
ビリッと、祥太がガムテープを剥がしている。段ボールの中から出てきた、もう一つの箱にその目を丸くしている。その箱にはその物自体の写真があり、中を見なくても、何かは分かるだろう。
「これって? ナイフ? 刀?」
「ああ、匕首だよ。模造品だから切れないし、飾りだけどな」
「匕首って言うんだ」
「そう、鍔のない短刀の事だよ。ヤクザ映画なんかで、ドスって聞くだろ? あれだよ。あっ、ヤクザ映画なんか見ないか」
「見ないですね。あ、晃平さん、刑事さんだから、こう言う物に詳しいんですね」
刑事と言われ、体がびくっと跳ね上がる。酔った勢いで素性をばらしていたらしい。
「俺、刑事だって話していたっけ?」
「ええ、最初に会った日に聞きましたよ。あの日、相当酔っていたんですね。新宿のバーで隣に座って、お店のマスターからも、晃平さんが刑事さんだって聞きましたよ。その時、色々話したんですけど。全然覚えていないんですか?」
祥太と言う名前すら、空覚えで口に出来ないのに、いつの間にこんな親しい間柄になっていたのだろう。マンションの前に座り込んでいた、祥太を部屋に上げたのが二回目。数か月の間でたったの二回。そして今日またこうして隣に座る祥太。祥太にとって自分がどれだけ近い存在になっているかを改めて教えられる。
「ごめん。確認だけど、祥太だよね?」
「えっ? そうだよ。よかった。名前は間違わずに、覚えてくれていたんだね。それだけでもちょっと嬉しい」
祥太の掌が太腿の上に置かれる。体が驚いて跳ねる事はなかったが、箸の先のシウマイが、から揚げの上に落ちバウンドした。
「晃平さん、疲れているみたいだね。大丈夫? 仕事で疲れているところ、押しかけてごめんね。晃平さんの顔見られたから、今日は帰るね」
その顔がやけに寂しく見えたのは何故だろう。
こんな風に他人を見られる、自分に驚きながらも、咄嗟に祥太の腕を掴んでいた。普通の生活、普通の生き方、普通の過ごし方って何だ? もしかしたらこの祥太が齎してくれるのかもしれない。
「ゆっくりしていけば? 俺、明日仕事だから、朝には出てしまうけど」
「うん。ありがとう。晃平さんはとりあえずお弁当食べて」
祥太に見られながら、シウマイと唐揚げを一緒に頬張る。コンビニ弁当なんて、三分あれば平らげてしまえる。ビールで流し込むご飯は、あまり美味い物ではないが、見られながら食べる飯は極力早く済ませてしまいたい。
「ところで、祥太。十二使徒って知っているか?」
投げた言葉に一瞬その顔が曇る。祥太の表情が固まっている。何か可笑しな事を言っただろうか?
「初めて名前を呼んでくれたから、びっくりしちゃったよ」
初めて呼ばれた名前に反応したのかと、素直に納得する。もしこれが刑事として被疑者に向き合っている時なら、一瞬固まった表情の裏に、何か隠しているのでは? そう睨むところだが、今はそんな憶測を持つ時間ではない。
「十二使徒ってイエス・キリストの十二人の弟子の事だよね? それ以上詳しい事は知らないけど、十二使徒がどうかしたの?」
「いや、何でもない」
山﨑の話が頭を掠めていた。今は十二使徒の話など、どうでもいいのに、咄嗟に突いたその名前に自ずと不安が纏わりついてくる。山﨑の話を全て鵜呑みにしている訳ではないが、どこかで十二使徒に引っ掛かっている自分がいるのだろう。