それでも呼ぶ声あらば
『灰と王国』本編の三部3-7(https://ncode.syosetu.com/n2383bc/102/)でニクスがさらっと要約して話した内容です。
なおクヴェリスが本編に登場するのは四部1-7(https://ncode.syosetu.com/n2383bc/134/)
地方の小都市らしく大雑把な造りの牢獄は、独房などという贅沢なものはなく、様々な囚人がまとめて放り込まれていた。手枷をはめられた囚人のほとんどは座り込んで動かず、うつろな目を宙にさまよわせているか、土が剥き出しの床を見つめている。
逃亡奴隷であることがばれて主人のもとへ連行される予定の者。
裁判で有罪が確定し、皇都での公開処刑に向けて移送待ちの者。
あるいは、私刑に遭う直前で運良く衛兵に見付かってとりあえず投獄された者――ニクスのように。
不自由な手で苦労しながら痒い場所を掻き、ニクスは恨めしげに枷を睨んでため息をついた。
高利貸しの手下に連れ去られた女性を売春宿から逃がしたまでは良かったが、自分のほうがしくじって往来で捕まり、暴行を加えられ危うく殺されかけた。
たまたま近くにいた衛兵が騒ぎに気付き、こちらで取り調べるからと荒くれ者どもをおさえて、牢まで引っ張ってきてくれたのだ。おかげでひとまず窮地は脱した。
(とは言え……)
ぎゅっと目を瞑って、そろそろと瞼を開く。当たり前だが何も状況は変わらない。
今の自分には頼れる伝手もなく、賄賂に渡せる金も無い。売春宿を取り仕切る有力者に盾突いてまで、よそ者の若造を救ってくれる人間はいないだろう。
形ばかりの裁判にかけられ、見物人から罵詈雑言と石や汚物を投げつけられ、広場で棒打ちか鞭打ちに処された後で、結局やっぱり路地裏で殺されるのだ。
ニクスが惨めな末路を思って暗澹とうなだれた時、足音が近付き、牢の扉が開いた。
油断なく身構えた衛兵が顔を出し、囚人の顔ぶれを見回す。誰が引き出されるのかと緊張が走るなか、彼はニクスと目を合わせた。
「おまえだ。来い」
端的な命令と共に手招きされ、ニクスは戸惑いながら立ち上がった。裁判が開かれるには早すぎる。まさか売春宿のあるじが手を回し、身柄を引き渡すことになったのか。だがそれにしては、“お迎え”の現れる様子がない。
訝しんでいる間に、取り調べ室に連れて行かれた。投獄前に簡単な事情聴取は受けたが、何か追加で尋問することでも出てきたのだろうか。
だがそこでニクスはまた驚かされた。中で待っていたのは厳めしい尋問官でも売春宿の荒くれ者でもなく、小柄な中年男ひとりだったのだ。
机を挟んで対面に座らされ、手枷も外される。予期せぬ展開にニクスが質問さえできずにいると、小柄な男はいかにも人の好さそうな丸顔に懐っこい笑みを広げ、手を差し出した。
「どうも、はじめまして。私はクヴェリス、法律家です」
「……弁護士の売り込みかい?」
疑いを隠せない様子のまま、ニクスはひとまず握手に応じる。自称法律家は当然のようにその手を両手で握り、机にぶつかりそうな勢いでぶんぶん振ってから離した。
「いやいや、まさか。必要に迫られれば弁護士もつとめますがね、法廷で猿芝居をして判事や聴衆の同情を買う三文役者とは違います。私はあくまで法律家。裁判にいたる手前で助言やあれこれの手続きなんかをして、紛争を片付ける仕事をしております」
どうやら弁護士にはいい心証を持っていないらしい。法律家クヴェリスは陽気な口調で辛辣な皮肉を飛ばしてから、横の衛兵を視線で示した。
「そこの彼があなたの話を聞いて、私の案件だと知らせてくれまして」
「わざわざ?」
ニクスは面食らって衛兵を見る。そんな親切な対応をしてくれるようには思えなかったのだが。近所の住民で顔見知りならともかく、衛兵にとっては毎日右から左へ流すだけの雑多な揉め事のひとつにすぎないだろうに。
そんな彼の不審顔に、衛兵は得意がるような目つきを返した。
「おまえは運がいいぞ。先生はあっちこっち飛び回って人助けをしているから、ひとつの町にそう長いことはいないんだ。だがこうして会ってもらえたからには、任せておけば間違いない。恩に着ろよ」
「私の世話になる時点で運が悪いのですがね」
クヴェリスは苦笑していなし、まあ勘弁してやってください、とニクスに目配せしてから、咳払いして威儀を正した。
「しかしまぁ不幸中の幸いということで、さっさと片付けてしまいましょう。調書は読みましたが、詳細を確認させてください。まずあなたと、あなたが逃がした女性との関係について。夫婦ではなく血縁でもない、間違いありませんか」
さすがに手慣れた様子で、クヴェリスはてきぱきと質問し、情報をまとめ、要点を押さえていく。ニクスは問われるままに答えるうち、相手の知性と手腕の確かさに気付かされた。
質問の言葉はとても簡潔なのに、何を問うているのか、具体的に何を答えて欲しいのかが明瞭にわかる。だから返事に悩まなくて済むし、こちらが伝えた内容を要約して繰り返すことで、それが何を意味しているのかを教えてくれる。
「法律上の関係がないのであれば、負債に関しても責任は及びませんね」
「あなた方が北部から頼ってきた相手は、あなたが逃がした女性の遠縁にあたる、と。事業や資産のつながりは無し。借金の保証人でもない」
「財産は既に差し押さえられていたにもかかわらず、女性と子供――オリアとファーネインという二人を連れ去った。しかもその際、オリアさんの母親を暴行し、死なせている。明らかに行き過ぎですな」
クヴェリスの要約を聞きながら、ニクスは唇を噛んだ。
元軍団兵で、荒事にはそれなりに慣れているつもりだった。闇の獣と戦って生き残った一握りの精鋭だし、脱走する時に失敬した短剣も手放さず身に帯びていた。だからこそ、寄る辺ない女ばかり三人の旅の護衛として名乗り出たのに。
着いてみれば無人の空き家、そこへ不意打ちの多勢に無勢で手も足も出ず、ひとりも守れなかった。武器はもちろん、わずかばかりの貨幣や身の回り品まで奪い去られてしまった。
「ふむ。ここはデオシウス帝の法令二十二条に基づき二人の女性の売買無効を申し立て、身柄を取り戻しましょう。持ち去られた金品をすべて取り戻すのは不可能でしょうが――何しろ目録控えがあるわけでなし――しかしアッティス裁判所での判例から賠償を要求できますので……」
なかば独り言と化した説明をしながら、クヴェリスは手早く数枚の書類をしたためていく。ニクスは目の前で起きていることが魔法のように思われ、目をしばたたいた。
「あんた、そういうの全部覚えてるのか? なんたら帝の何条とか、どこそこの裁判でどうだとか」
とても信じられない、との声音に、クヴェリスは茶目っ気のある笑みを返した。
「もちろん。旅暮らしでは、書斎をひっくり返していちいち記録を調べるわけにはいきませんからね。……と得意がりたいところですが、実際はいつも似たような案件ばかりで使う武器も同じものばかりになる、という理由でして。違うのは誰の伝手を使うか、というだけなもので、法律家を名乗るのもいささか憚られますな」
台詞なかばで真顔になり、肩を竦めて書類を仕上げる。彼はその末尾にニクスの署名を求め、最後によしとうなずいて席を立った。
「それじゃあ、二、三日お待ちください。あなたが大手を振って往来を歩けるようにしてきますよ。それまでは身の安全のため、申し訳ないがここで不自由を辛抱していてください」
言うだけ言って、忙しい忙しい、と小走りに出て行く。ニクスはそのまま、また牢に逆戻りすることになった。
他の囚人に絡まれないよう、空いている壁を探してもたれかかると、ため息が出た。今の一幕が白昼夢だったような気がしてくる。
(何も要求されなかった。……完全に慈善ってわけか?)
本人が目の前からいなくなると、疑いの黒雲がむくむくと胸にわいてくる。
高利貸しが我が物顔で村や町を牛耳り、役人は賄賂がなければ動かず、本当のことを言えば嘘つき呼ばわりされ、誰も他人を助けようとしない、そんなご時世だというのに。無償で人助けするなんて物好きは、どこぞの竜侯様ぐらいだろう。
自分だってオリアの護衛を引き受けたのは下心があったからだ。
もちろん、そろそろ腰を落ち着けて普通の暮らしをしたいという願いは本物だったし、女ばかり三人――しかも一人はほんの子供だ――で旅するなんて危なすぎて見ていられない、という気持ちもあった。けれど。あわよくば、いやきっとたぶん、オリアを自分の女にできると思ったから。
(そういえば……あの法律家、オリアのことを何も訊かなかったな)
ふと引っかかり、ニクスは眉を寄せた。
逃げた女の居所に心当たりはあるか、とか。どこかで落ち合う約束をしたか、とか。
もっとも、訊かれたところでニクスにもわからないので、答えようがない。
(あの状況なら無事に逃げ切れたはずだ。もう町を離れていたらいいが)
切羽詰まった慌ただしい逃走のさなかに、切れ切れの言葉を交わした。
ファーネインはよそに売られたらしく、同じ娼館にはいないこと。
オリアの母親は死んでしまったこと。
だから、一人ででもこの町から出ろ、西へ戻らず東へ逃げろ、と……
(間違っても、俺を牢から出そうとか役人に訴えようとか、無茶をしないでくれよ。なんのために囮になったんだか、わかりゃしない。ああ、デイア様、本当に正義を司る全知全能の神様だってんなら、どうかオリアを守ってください)
うつむき、組んだ手に額を押し当てて祈る。近くにいた囚人が、へっ、と嘲笑を吐くのが聞こえたが、ニクスは顔を上げもしなかった。
※
じりじりしながら待つこと三日。
やっぱり騙されたのか、そもそも無理な話だったのだろう、とニクスが捨て鉢な気分になったところへ、法律家が太陽を連れてやってきた。
「やあやあ、お待たせしましたニクス君! 無事、滞りなく手続きを済ませました。これであなた方は何の負債もないし、奴隷ではなくれっきとした市民の身分であると保証され、晴れて自由の身です――法律上は、ですがね」
釈放命令らしき書類を衛兵に渡して手枷を外させ、クヴェリスは意気揚々とニクスを促し外へ出た。三日ぶりの屋外に、ニクスは目をしょぼつかせる。
「まさか本当に出られるなんてな。どんな魔法を使ったんだ?」
「ははは、魔法が使えるならぜひ一度、杖を振って蜂蜜ケーキの山を呼び出してみたいものです。いや、純然たる法と手続きの問題ですよ。それを円滑に進める伝手もありましたから……ここの行政官には以前、選挙対策の相談を受けたことがありましてね」
「なるほど、そういうところで稼いでるんだな。こんなタダ働きばかりしてたんじゃ、財布が保たないだろうと思ったんだ」
きっとあちこちの町で有力者に恩を売って、その人脈であれこれ融通しているのだろう。ニクスがそう納得すると、クヴェリスは悪戯っぽく「おや」と眉を上げた。
「いつ無償だと言いました? もちろん、あなたからも些少ながら手数料を頂戴しますよ。具体的には、あなたが受け取る賠償金からいくらか差し引くということです」
「えっ」
「貸金業者に奪われたというあなたの所持品をそのまま取り戻すのは、さすがに――それこそ魔法でも使わなければ無理なので。行政官から賠償命令を出してもらい、お金のかたちで渡します」
「……戻ってくる、のか? 金が?」
ニクスはぽかんとして聞き返す。クヴェリスは嫌味の無い笑いをこぼした。
「オリアさんと新しい生活を始めようというのに、銅貨一枚すらない着の身着のままでは、立ちゆかないでしょうに。ああ、あなたが自分で取り立てに行く必要はありませんよ。先に公庫からお支払いして、貸金業者のところへは役所の皆様が略奪に行きますから」
彼はそう冗談めかして言ったが、恐らくおよそ真実なのだろう。その辺りの損得勘定もまた、行政官が便宜を図ってくれた理由に違いない。裏の事情を察したニクスが複雑な顔になると、クヴェリスも笑みを消してうなずき、声を落とした。
「正直なところ、こうした“きれいでない”解決法に頼ることに忸怩たる思いはあります。しかし残念ながら、やむを得ない。虐げられた人々を正攻法で救うには、今の行政はまともな機能を失っていますのでね」
暗いため息をそっとこぼし、だがすぐに気を取り直して顔を上げる。
「ともあれ、あなたにお渡しする当座の資金や諸々は、既に手配を頼んであります。オリアさんのぶんもね」
「……待て。さっきからあんた、まるでオリアの知り合いみたいにしゃべってないか? まさか、もしかして」
「ばれましたか。ええ、実は牢を訪ねる前に、彼女からあなたのことを聞いたんですよ」
「――!」
愕然と息を飲み、ニクスは思わず天を仰いで「逃げろって言ったのに」とうめいた。幸運にもこの法律家がまともな人間だったから良かったものの、そうでなかったら危険を冒して売春宿から逃がした意味がなくなるところだったではないか。
「たまたま皇帝像のそばを通りがかったら、台座で庇護を求めている彼女を見付けましてね。急いでいったん匿い、事情を聞きました」
「そういうことは先に教えてくれよ」
「申し訳ないが、逃亡奴隷が嘘をついている可能性を考えますと、言い分をそのまま鵜呑みにはできません。口裏を合わせられないように、あえて情報を伏せてあなたから聞き取りをおこなったんです」
クヴェリスはたいして悪びれもせず肩を竦める。ニクスは相手の顔をまじまじ見つめてしまった。人の好さそうな丸顔、という最初の印象が、いささか怪しくなってくる。職業を考えたら、この程度のしたたかさは当たり前なのかもしれないが、それにしても。
胡乱げになったニクスの視線には構わず、クヴェリスは親しみを込めて彼の腕を軽く叩いた。
「行きましょう。ぐずぐずしていたら、法の定めが不服な輩に絡まれてしまいます」
「あ、ああ」
そうだった。ニクスは気を引き締め、素早く周囲を見渡した。
買ったばかりの娼婦が、お上の命令で自由の身にされてしまったものだから、売春宿のあるじはさぞ腹を立てているだろう。オリアを売った商人から代金を取り戻すにも、手間暇がかかり揉め事が増える。
だったら、逃げられる前にもう一度捕まえてしまえばいい――と、そう考えても不思議ではない。
法律家が急ぎ足で先導する。ニクスも警戒しながら後に続いた。
しかしやはり、強欲な輩は行動が早い。雑踏の中に見覚えのある顔を見付け、慌ててそれを避けていくうち、二人は一本の小路に追い込まれ挟み撃ちにされてしまった。
「参りましたね。衛兵の一人もつけてもらうべきでしたか」
クヴェリスが渋い顔でぼやく。ニクスは拳をかためて身構え、どちらを攻めたら逃げられるかと観察した。
そう大勢ではない。前に二人、後ろに三人。
人数が少ないのは前だが、共に大柄で、しかも売春宿から逃げる際にニクスが鼻をへし折ってやった男がいる。戦意満々、相手をするのは難儀そうだ。
ここは後ろ、前の二人よりは細身でひ弱そうな三人組を散らすべきか。
「クヴェリスさん――」
呼びかけながら連れを振り向いたニクスは、ぎょっと目を剝いた。あろうことか、小柄な法律家が大柄な二人のほうへのこのこ近付いていくではないか。しかも、いたって普通に、何の構えも見せず話しかけなどしながら。
「ひとつ確認しておきますが、この行動は雇い主の了承を得たうえでのことですかね?」
問答無用、鼻の折れた男がいきなり殴りかかる。ニクスが助けに走ろうとした瞬間、信じられないことが起きた。
小柄な法律家が一瞬その身を低くしたかと思った直後、大男のほうが吹っ飛んだのである。
瞬きした時にはもう、クヴェリスは倒れた男を跳び越えて走っている。ニクスもすぐさまそれに続いた。驚きのあまり反応が遅れたもうひとりの男を渾身の力で殴りつけ、相手がよろめいている隙に逃走する。
クヴェリスは予想外の俊足で、ニクスはついて行くのが精一杯だ。当然、追っ手はあっという間に見えなくなった。そうして二人は無事、一軒の酒場の裏口を叩いたのだった。
無我夢中のまま厨房に転がり込んだニクスは、壁にもたれて胸を大きく上下させながら法律家を見やった。さすがにこちらも息切れしているが、しゃんと立って、落としたものがないか鞄をあらためている。
「あんた、……格闘も、できたのか」
法律家のくせに、と呆れたのを隠さずニクスが言うと、クヴェリスは振り向いて、少しばかり棘のある苦笑を見せた。
「背が低いと舐められますのでね」
その辛辣さにニクスが怯むと、クヴェリスはいつもと同じ屈託のない表情に戻って話を続けた。
「ともあれ逃げられて良かった。ここの女将さんも、店を相続するにあたって私が相談に乗った方でしてね。以来、何かと協力して下さるんですよ。オリアさんも匿ってもらっています。こちらへ」
「いったい何人に貸しを作ってあるんだ、あんたは」
下手な高利貸しより、よっぽど商売上手ではあるまいか。
いやはや、とニクスは頭を振ってクヴェリスの後を追う。つましい中庭を抜けて居住棟に入ると、足音や話し声を聞きつけたオリアがすぐに飛び出してきた。
喜びの声を上げて互いの無事を確かめ合う若い男女を、クヴェリスは邪魔せず脇に避けて見守る。ややあって二人が落ち着くと、彼はこほんと咳払いして切り出した。
「ファーネインという女の子ですが、恐らくメティウムへ連れて行かれたのではないかと。ここから少し南に行ったところにある町です。そこの娼館に、幼い子供を扱う老舗があるという話なので」
「……!」
ニクスとオリアはさっと表情を変え、食い入るように法律家を見つめた。クヴェリスは申し訳なさそうに目礼する。
「私としても気がかりではありますが、そこまでは同行できません。この町にまだ私を必要とする人がおりますし、それが済んだらすぐに西へ行かなければならないので。ただ、売買無効を証明する書類はお渡しできます。それと、メティウムにも私の知己がおりまして、事情を話せば力になってくれるでしょう」
「何から何まで、本当にありがとうございます。クヴェリスさんは私たちの恩人であるばかりでなく、多くの人々にとっての救い主ですね。なんて高潔なお人柄でしょう」
オリアが深々と頭を下げ、きらきらとまぶしいほどの信頼と尊敬に満ちたまなざしを注ぐ。さすがにクヴェリスは頬を染め、いやいや、と苦笑しながら視線を遮るように手を上げた。
「そんな大層なものではありませんよ。そもそも私は、人助けがしたくて法律家を志したわけではないのですから」
「ご謙遜を」
「あいにくと事実なんですな、これが。弁護士ではなく法律家だとこだわっているのも、そのためです。本来私は、法というものを研究したいだけなのですよ。成立の背景と歴史的経緯、条文の誤謬や矛盾を見いだし正すこと、古い定めを現代の事情に適用する是非……」
語る口調は静かな熱を帯び、その瞳は遠い憧れを追う少年のように、今ではないどこかを映している。彼が口にしているのは、場を取り繕う方便などではなく、真実の望みであることのあらわれだ。
こういう種類の人間もいるんだな、とニクスは改めて感心した。
これまでの人生で知的専門職と関わる機会がほとんどなかったもので、英雄の勲に憧れるような熱意を、法律などという面白くもなんともない代物に対して注ぐ人間がいるというのは、なかなか新鮮な驚きだ。
彼の視線で我に返ったか、クヴェリスは不意に面映ゆそうな顔になって肩を竦めた。
「早く、純粋に法律のみに取り組める日が来てほしいものです。しかしまぁ、それでも、私の知識とちょっとした法律上の技巧が必要だとして、助けを求める声があるなら――応えてどこへでも走るしかありません。無視して隠居を決め込むには、ちょっとばかり私は血の気が多すぎるようで」
ははは、と最後に自分を冗談の種にして照れ隠しする。
ニクスとオリアは顔を見合わせ、一緒になって笑ったのだった。
ちなみにこの自称“血の気の多い法律家”がはるか北辺の町ナナイスに招かれ、最高顧問として一国の法すべてと格闘するはめになり、
「法を研究したいとは言ったが、ここまでは!」
と嬉しい悲鳴を上げるのは、まだ何年か先の話である。
(終)
2020.8.3