終戦
勝人のところに真紀子から返事が届いた
真紀子『勝人さん、お元気でしょうか私も春人も元気ですあなたが戦に行ってから春人がよくお布団を食べようとして産まれてからまだ1年ですが食いしん坊のようです、勝人さん必ず帰って来てください生きて。』
勝人「真紀子、、春人、、、必ず。」
1944年更に戦局が悪化し、勝人は硫黄島への転属は保留となり翌年1945年2月栗林陸軍大将が硫黄島に赴任する時、兵力増量のため勝人が所属する部隊も硫黄島に行くことになった。
その頃真紀子は広島で両親、息子の春人と共に暮らしていた最後に真紀子のところに勝人から手紙が届いたのは硫黄島へ転属する5日前であった。
その手紙には、生きて帰りたいがもしかしたら生きて帰れないかもしれない春人を頼む。と書いてあった。
1945年2月19日
硫黄島へアメリカ軍が上陸し始め海岸が米兵で埋め尽くされた時日本軍の攻撃開始海岸が一瞬でしたいで埋め尽くされた戦闘開始から優勢に思えたが徐々に押され始め消耗戦となった、勝人は栗林大将と共に行動していたが途中ではぐれ、1945年3月24日玉砕に参戦し左腕、腹部に銃弾を受け生きていたため捕虜となった。
真紀子のところには捕虜ではなく戦死したと告げられた真紀子は泣き崩れ春人にお母さんが絶対に守るからと言い続けた。
1945年3月26日硫黄島はアメリカに占領され沢山の戦略爆撃機B29が配備され本土爆撃は激しさを増し8月6日アメリカは遂に大量殺戮爆弾を広島に投下しその話しは捕虜になった勝人の元に伝えられ終戦8月15日まで泣き続けた