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Cafe Shelly

Cafe Shelly 私は社長

作者: 日向ひなた

「ママ、ぼくも死んじゃうの?」

 この言葉に私はハッとさせられた。

 夫が死んで、無気力で何をして生きていけばいいのか。それがわからなくなって、車の中で三歳の息子の前で口走った言葉に対しての返事がこれだった。

 夫は自ら命を落とした。仕事で抱えていたストレスかららしい。

 遺書はない。咄嗟のことだったようだ。私が目を覚まして、夫がいるはずの部屋に入ったときには夫は天井からぶら下がっていた。

 そのあと、何をどうしたか未だに覚えていない。ただ、その光景だけが今も頭に焼き付いている。そしてひと通り落ち着いて、息子と車ででかけたときに私はほぼ無意識にこんな言葉を口にしてしまった。

「お父さんのところに行っちゃいたいな」

 三歳の子にその意味がわかるはずがないと思っていたところもある。しかし、この言葉に息子が的確に反応したことに私は驚きを覚えた。

「そんなことはないよ。大丈夫だよ」

 私は車を停め、泣きながら息子を抱きしめてそう言葉にした。

 大丈夫、大丈夫。これは自分に言い聞かせた言葉だったことにあとから気づいた。

 この日、私は心に決めた。もう泣かない、絶対に泣かない。

 中原千鶴子、三十三歳。ここから人生の再スタートが始まった。

 人生の再スタート、とかっこよく言ってはみたものの。実際のところ何から手をつけていいかわからない。

 私は夫が死ぬ前までは専業主婦で、働いてはいなかった。商業高校を出てすぐ一度は普通に就職したけれど。二十五歳の時に夫と結婚、そしてしばらくは子どもができなかったが三十にしてようやく出産。その間は自由気ままな主婦生活を楽しんでいた。

 そのツケがこんなところで出てくるとは。とにかくどこかに働きに出ないと。

 それからハローワークに通い、いくつか面接を受けた。まぁ、スーパーのレジ打ちのパートくらいならなんとかなるのだろうが。できれば正社員で、それなりの給料をもらわないと。

 これから息子と二人でなんとかして暮らしていかないといけないのだから。だが、このご時世である。有能な人間なら取るけれど、私のように遊んでいた主婦はどこもお断り。

「私、どうしたらいいの…」

 夫の残した財産なんてたかがしれている。そんなに長くは無職ではいられない。そんなとき、ハローワークでこんなことを聞いた。

「職業訓練校に行けば、お金をもらいながらパソコンとか学べますよ。今、ここが募集しているからどうですか?」

 そこで一枚のパンフレットをもらった。

「お金をもらいながら、かぁ」

 貰える額は十万ちょっとではあるが、今の自分にとってはとてもありがたい。早速手続きをして、職業訓練校に通うことになった。

 そこはいわゆるパソコン教室。私はパソコンはインターネットを見る程度しか使ったことがない。だが、カリキュラムを見るとパソコン以外にも教えてくれるものがあるみたい。そのひとつがワークガイダンスっていうもの。

 その授業が入校して三日目から早速スタートした。

「皆さんはじめまして。羽賀純一といいます」

 講師はコーチングというのをやっている羽賀さん。この人の授業はとても面白い。

 単に話を聴いてメモを取る、なんてスタイルじゃなく、みんなで話しあったりロールプレイというのをやったりして、主にはコミュニケーションについて学ぶことができた。さらに羽賀さんはユーモアたっぷりにいろいろなことを話してくれる。その一つにこんな話があった。

「皆さん、アフリカのあるところに雨乞いで必ず雨を降らせるという部族があるんですよ。さて、この部族はどうやって必ず雨を降らせると思いますか?」

 これには頭をひねらせた。クラスの二十名みんなで色々答えを出しあったが、これといったものは出てこない。

「みなさん、結構悩んでますね。答えを言う前に、あなたが雨乞いを頼みたいと思ったら、必ずこの部族にお願いすると思いませんか?」

 教室にいる二十名はみんな首を縦に振った。

「こういう人を尊敬しちゃいますよね」

 これも首を縦に振る。

「私たちはこういった人たちに信頼を寄せますよね」

 うん、確かにそうだ。確実に雨を降らせてくれるなら、他よりもこの部族に頼んだほうがいいし。

「こういった人たちになりたいと思いませんか?」

 うん、私もそうなりたい。いわゆる成功者になってみたい。

「先生、私もそんな人間になってみたいです。今は無職で、こうやってパソコンを習いにきている身分だけど。でもいつかは成功者になりたいです」

 クラスメートの男性が手を挙げてそう発言した。この男性は年齢は四十代半ばではあるが、意欲だけは満々だ。私も同じ気持ちになっている。

「早くその方法、教えてくれませんか?」

 クラスのみんなは、そうだそうだと言わんばかりの勢いである。

「わかりました。じゃぁ正解を教えます。ただし、正解をお伝えする前に一つだけ注意点があります。この方法は必ず成功者になれる方法です。が、禁断の方法でもあるので取り扱いは注意してくださいね」

 私たちは生唾をごくりと飲み込んで、羽賀さんの言葉を待った。

「その部族はどうして雨乞いを成功させられるのか。それは、雨が降るまで踊るからです」

 えっ、それだけ? 雨を確実に降らせられるのは当たり前じゃない。

 クラスのみんなはポカンとしている。

「羽賀先生、そんなの当たり前じゃないですか。そんなのだったら私にだってできますよ」

 さっき質問した男性がそう言う。が、羽賀先生はその意見に対してこう答えた。

「本当にできますか? いつになったら雨が降るのかわからないのですよ。諦めずに雨が降るまで踊り続けられますか?」

 その言葉に絶句した。羽賀先生は更に言葉を続けた。

「成功するための唯一の方法。それは成功するまで続けることです。当たり前の事のように思えますが、私たちはそれができないのです。しかし、世の中の成功者はみんな成功するまで粘り強く続けた。たったそれだけのことなのです」

 この言葉は私にとって衝撃的だった。

 思い出せば、小さい頃から私は何一つ長続きしたことがない。幼稚園の頃スイミングを習っていたが、小学校に上がるとめんどくさくてやめた。習字も習ったが、それも二年くらいでやめたし。私の人生、そんなことの繰り返しだ。

 この羽賀先生の言葉は私に大きな衝撃を与えてくれた。

 成功するまでやり続ける、か。でも、私は何をやり続ければいいんだろうか。放課後、早速私はこのことで羽賀先生に相談を持ちかけた。

「なるほど、何をやり続ければいいのかわからない、か。そうだなぁ…あ、もしこのあとお時間があればぜひお連れしたいところがあるんですけど」

「先生、それってデートのお誘い?」

 私はちょっとふざけてそう言ってみた。言いながら、そんな世界からずっと遠ざかっているなと感じてしまった。なんか寂しいな。

「そうですね、ある意味デートかも。なんてね。行き先はボクのいきつけの喫茶店なんだけど。そこでひょっとしたら中原さんの未来が見つかるかもしれませんよ」

 喫茶店で私の未来が見つかる? そこで占いでもやっているのかしら。

「保育園のお迎えがあるからあまり時間はとれませんけど。一時間くらいならなんとか」

「大丈夫ですよ。じゃぁ行きましょう」

 私はクラスメートに、これから羽賀先生とデートなの、とふざけて伝える。じゃないと、あらぬ誤解を受けちゃうからな。

 羽賀先生の行きつけの喫茶店までは歩いて十分もかからなかった。その間、私は自分のことを羽賀先生に話した。

 夫が自殺したこと。まだ幼い子どもを育てていかないといけないこと。自分の中に焦りがあること。そして、私は成功して今よりも暮らしを楽にしたいこと。などなど。

「なるほど、そういう事情があるんですね。あ、着きました。ここの二階です」

 羽賀先生が案内してくれたのはビルの二階にある喫茶店。

カラン、コロン、カラン

 扉を開けると、心地良いカウベルの音。それと共にコーヒーの苦い香りと、クッキーの甘い香りがミックスされた空気に包まれる。なんだかすごく心地いい。

「いらっしゃいませ。あ、羽賀さん」

 かわいらしい女性店員が私たちを見るなりそう反応。

「こんにちは、マイちゃん」

「羽賀さん、いらっしゃい」

 カウンターからは渋い声で羽賀先生を出迎える声が。

「マスター、マイちゃん、紹介します。今ボクが教えている職業訓練のクラスの生徒さん。中原さんです」

「中原千鶴子です。よろしくお願いします」

「まぁまぁ、そんなに固くならないで。窓際の席がいいかな?」

 窓際には半円型のテーブルと四つの席。店の真ん中に丸テーブルと三つの席。そしてカウンターに四つの席。住人もお客さんが入れば満員になる小さな喫茶店だ。

「マスター、シェリー・ブレンド二つ」

「かしこまりました」

 マスターはそう言って、コーヒーをいれる準備を始めた。

「中原さん、ここのオリジナルブレンドは魔法のコーヒーなんですよ」

「魔法のコーヒー?」

「はい、ここのコーヒーは飲んだ人が望む味がするんです。逆を言えば、飲んだ人が何を望んでいるのか。それがわかるんですよ」

 羽賀先生はニッコリと笑ってそう言う。

 飲んだ人が何を望んでいるのかがわかる。どうやってそれがわかるのだろうか。ちょっと期待してしまう。

 私は子どものためにも成功しなければいけない。でも何で成功すればいいのか。そこが見えてこない。その答えがこのコーヒーで出るのだろうか。

 コーヒーが出てくるまで、羽賀先生は自分のことを話してくれた。今はコーチングを活用した人材育成や個人指導を中心に活動していること。そこで大事にしているのが「人の心」であること。そして、今回のように沢山の人をこの喫茶店カフェ・シェリーに連れてきていること。

「先生、ここに女性を連れてきてナンパしてるんじゃないの?」

 私はちょっと意地悪く言ってみた。

「ダメですよ、本当のことを言っちゃ」

 羽賀先生は人差し指を口に当てて、シーっというポーズをとった。私、ナンパされたのかな?

 もし先生がナンパしてくれたのだったら、なんかうれしいな。もうおばさんと言われる年齢になっているのに、女性として私を見てくれているのだから。

 女性として、か。なんかそんな仕事がしてみたいな。

 かといって、ホステスみたいな商売をしたいわけじゃない。女性ならではのサービスを提供できる。なんかそんなのがないかな。

 ふとそんなことが頭によぎったときに、店員のマイさんがコーヒーを運んできてくれた。

「はい、シェリー・ブレンドです。よかったら飲んだ時の感想を聞かせてくださいね」

 これが飲んだ人が飲んだ人が望んだ味がする魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドか。私はコーヒー通ではないけれど、この香りがとてもいいのはわかる。

「じゃぁいただきます」

 コーヒーカップを口につける。そしてゆっくりとそこにある液体を口の中へと流しこむ。

 舌の上で何かが私を刺激する。さらに、その液体が胃の方へと流れるに連れて、私を刺激するものがはっきりとしてくる。

 私を刺激するもの、それは女性らしさ。凛とした姿で立っている私。

 キャリアウーマンとはちょっと違う。なんだろう、これ。でも、それが私らしい姿のように思える。

 私らしさ、か。なんだか心地いい。

「なにか感じましたか?」

 羽賀先生にそう言われて、ふと我に帰った。

「あ、えぇ。なんか不思議なコーヒーですね。今、自分の中の思いがまだぼんやりですが見えたような気がします」

「へぇ、どんなの? 教えて下さいよ」

 そう言われて、今感じたことを言葉にしてみた。言葉にすることで、あぁ、私ってこんなことを思っていたんだという思いがさらに強くなった。

「凛とした姿で立っている、か」

 羽賀先生のその言葉に、店員のマイさんが反応した。

「それって、まさにこの人みたいですよね」

 マイさんは一冊の本を見せてくれた。その表紙には、まさに私が今心のなかで見た映像そのものの姿があった。真っ赤なスーツに身を包み、凛とした姿で立っている女性が表紙の本である。

「この人、女性が女性として胸を張って生きていける講座を開いている会社の社長なんです。私もこんな姿に憧れているんですよ」

 マイさんはそう言ってその本を私に手渡してくれた。その本を眺めて、私は一瞬にしてこう思った。

 この人みたいになりたい。うん、私はこの人みたいになるんだ。

 その思いがフツフツと心の奥から湧いてきた。

「中原さん、どうやら目標ができたようですね」

 羽賀先生がそう言ってくれた。

 その日から、私の見るもの、聞くものの意識が変わっていった。まずはマイさんからその本を借りて読みふけった。内容はコミュニケーションのとり方なのだが、その中にある著者の女性社長の半生が私には心に染みた。

 誰だってそんな簡単には社長にはならなかったんだな。さらにそこから、私はいろいろと成功している人の本を読みあさることになる。

 といっても、本を買うお金はない。だから図書館に行ったり、羽賀先生から借りたりで一日に一冊は読むようになった。

 そういった本を読めば読むほど、自分が成功している姿がありありと思い浮かべられるようになった。が、肝心な部分がまだ見えてこない。

 いったい私は何で社長になり成功しているのか。そこがまだ見えてこない。

 そんなある日、一本の電話が鳴った。

「あんた、中原一也さんの奥さんですよね」

「はい、そうですが」

「あなたのご主人、友人の連帯保証人になっているんですわ。でね、その人が借金を返せなくなってね。それで奥さん、あんたに返して欲しいんだけど」

 頭の中が真っ白になった。どういうこと?

「奥さんは旦那さんの相続放棄してないよね。だったらあなたが返してくれないと」

 電話の向こうで冷たくそう言われる。

 聞けば、二千万円の借金の保証人になっているとか。相手は夫の友人。いつの間にそんなことになっていたのだろう。

 夫は特に財産を持っていたわけでもなかったので、なんの考えもなく相続を行っていた。だが、相続というのはこういった借金まで引き継ぐなんて夢にも思わなかった。

「千鶴子さん、大丈夫?」

 翌日、私はよほど青い顔をしていたのだろう。クラスのみんなから口々にそう声をかけられた。

 だが、こんな悩みをクラスメートに話しても意味が無い。心配をかけるだけだし。頼るべきは…やはり羽賀先生か。

「あの…羽賀先生、ちょっと相談があるんですけど…」

 放課後、羽賀先生を頼ってみた。

「なるほど、そんなことがあったんですか…私もそういったことのプロじゃないので即答できませんが。一つだけ教えて下さい。旦那さんが亡くなったのはどのくらい前?」

「半年ほど前になります」

「半年か…とりあえず知り合いの弁護士にちょっと相談してみますから」

「はい、よろしくお願いします」

 それにしても、さぁこれから前向きに生きていこうと思った矢先にどうしてこんなことが。未だに頭の中は真っ白で何も考えられない。

 こんなことで私、社長になんかなれるのかな…

 翌日、羽賀先生から連絡があった。弁護士の先生がもう少し詳しく話を聞きたいとのこと。期待を込めて相談に向かった。

 そこで状況を説明。

「そうですか…なるほど。答えから先にお伝えします。残念ですが、旦那さんが亡くなってから半年経っていますから、遺産の相続放棄はできません。相続放棄は三ヶ月以内に行わないといけないんです」

 再び頭が真っ白。つまり、私は二千万円の借金を返さなければいけない、ということになる。

「二千万円なんて…私にはとても…」

 頭の中でその言葉だけがぐるぐる回っている。失意の中、羽賀先生に誘われてカフェ・シェリーへと足を運んだ。

「そうですか、そんなことがあったのですね」

 カフェ・シェリーのマスターとマイさんに今の状況を話すと、マスターが優しい口調で私を慰めてくれた。でも、さすがにみんなからお金を借りる訳にはいかない。

「そういえばこんな面白いのがあるんですけど」

 マイさんがそう言って、一枚の新聞を取り出した。

「これ、普通の新聞と違って講演会を紹介しているものなんですよ。明るい記事ばかりだからすごく好きなの。週一回発行されているんだけど、おもしろいですよ」

 そう言ってマイさんは私に新聞を手渡した。そこに掲載されている見出しに目をやる。

「借金という困難があったからこそ、私はここまでこれたのです」

 えっ、一体どういうこと?

 そこに掲載されているのは、ある会社の女性社長。見たところまだ若い。その女性、二十代でなんと一億円の借金を背負うことになった。しかも自分のせいではなく、とある事業を共同でやったところその売上を持って主催者が逃げてしまったとか。

 で、残ったのはその借金。連帯保証人になっていたため、それを返さなければならなくなった。

 最初は女性が稼ぐ方法としてホステスもやった。でも、それではいくらやっても借金を返せない。

 さて、どうすればいいか。

 自分が以前やっていた司会業でなんとかしようと思いついた。最初は結婚式場などを回っていたが、なかなか仕事が来ない。そんな折、葬儀の司会の仕事が入ってきた。

 最初は葬儀の仕事を敬遠していたが、背に腹は代えられない。その仕事を引き受けていくうちに、これは他の司会業は入り込んでいないことに気づき葬儀の仕事を中心にやりだした。そのうち葬儀に詳しくなり、今では葬儀プランナーとして、また葬儀社に人材派遣を行う会社として発展している。

 私はその記事をむさぼるように読んだ。

「私より多い借金を、この人は去年完済したんだ。しかも会社は伸びているって。すごいっ」

 感心されっぱなしだ。私にもできるかもしれない。単純にそう思った。

 でも、何でそれをすればいいの? 一体何で成功すればいいの?

 そこがまだ見えてこない。そう思った瞬間、不安が私の頭をよぎった。

「中原さん、今、期待と不安が入り交じっている。そんな感じじゃないですか?ボクにはそういう表情に見えましたよ」

 羽賀先生は私の心境をズバリと言い当てる。まさにそのとおりだ。

「羽賀先生、私、借金を返すためにも、そして子どもと安心して暮らしていくためにも成功しなきゃいけないんです。でも、何でそれをしていいのかがわからない。どうすればいいでしょうか?」

「どうすれば、か。さすがに私もそれはわかりません。けれど、その糸口は必ずあります。そのためにも、もう一度シェリー・ブレンドを飲んではいかがでしょうか?」

 今は羽賀先生の言葉を信じるしかない。私はシェリー・ブレンドを注文してその時を待った。

「おまたせしました」

 これで何かわかるだろうか? ここでもまた、期待と不安が入り交じっている。

「いただきます」

 恐る恐る、私はそれを口に含んでみた。

 シェリー・ブレンドを口に含んだ瞬間、なんだか一瞬妙な味がした。一言で言えば不安。けれど、その次の瞬間にまた別の味がした。

 今度はその逆、安心。不安を安心にかえてあげる。

 でもどうやって? それが知りたくて、もう一口シェリー・ブレンドを口にする。

 すると、今度は私が忙しく動いている姿がイメージできた。何で忙しく動いているの? それが見えてこない。

 ちがう、見えてこないんじゃない。ひとりひとりに対して、それを探すこと。私はそのために動いている。

「なんだろう、これ。とにかく私、がむしゃらに動いている」

 思わずそう口にした。

「そうですか、がむしゃらに動いているんですね。それがなんなのかはわからないけれど」

 羽賀先生は私の言葉を繰り返して言ってくれた。そのおかげで、私自身が何を言葉にしたのかを改めて自覚できた。

「でも、何をがむしゃらにうごけばいいのかしら?」

 ここが一番の疑問。

「他になにか感じたものはなかったですか?」

 他に、そういえば…

「最初にコーヒーを口に含んだときに、不安って感じがしました。でも、そのあと安心感をすぐに感じました」

「なるほど、不安が安心に変わる。そういうことですね」

 不安を安心に、か。このとき、私の中で根拠のない自信が湧いてきた。

 とにかく動いてみよう。私のやることは、みんなの不安を安心に変えること。それだけなんだ。

 何が出来るのかはわからない。けれど、思いつくことをどんどんやっていこう。私はそのことを羽賀先生やマスター、マイさんに告げた。

「私たちも及ばずながら力になりますよ」

「ボクもお手伝いさせて頂きますよ」

 なんだか力強い仲間ができた。そんな気がした。

 その翌日から早速私の行動が始まった。まだ訓練校に通いながらではあるが、自分のやれることを模索し始めた。

 まずは不安を抱えている人を手当たり次第に見つけよう。そういうアンテナを張ると、おもしろいように不安を抱えている人が見つかることに気づいた。というより、不安を抱えていない人はいないということなのだ。みんな、大なり小なりの不安を持っている。

 クラスメートと会話をして、何に不安を持っているかを聞くと次から次に言葉が出てくる。中には二時間もおしゃべりをしてしまった人も。

 だが面白いことに気づいた。ほとんどの人は、私に不安を打ち明けると

「なんだかすっきりした。聞いてくれてありがとう」

という反応。たったそれだけで不安が解消されるようだ。

 中にはお礼に私に食事をご馳走してくれる人もいる。他にも、私では手に負えないときには羽賀先生や、カフェ・シェリーのマスター、マイさんにお願いをすることもある。

 これは後から聞いた話なのだが、カフェ・シェリーのマスターは以前高校の先生でスクールカウンセラーをやっていたということだ。またマイさんはカラーセラピストとして活動をしている。他にも、カフェ・シェリーに集まる常連さんのセラピストの女性やその他の専門家の方にマスター経由でお願いをする場面も出てきた。

 そのとき、一人の方がこんな申し出をしてくれた。

「お客様を紹介してくれたんだから。私の報酬の一割をさしあげるね」

 ここで私は初めての報酬を得ることができた。そうか、私が相談相手にならなくても、こういった専門家に紹介をしていくことで私自身への報酬になるのか。

 ここでアイデアが閃いた。早速そのことを羽賀先生に相談。

「なるほど、専門家のネットワークの構築とそこへの仕事をふるということなんですね。つまり代理営業だ。これは私たちにとってはありがたいですね。日々の仕事に終われて、新しいクライアントさんを探すってのが結構大変なんですよ」

 なるほど、そうなんだ。

「じゃぁ、羽賀先生も私がクライアントさんを紹介したら、紹介料を払っていただけますか?」

「もちろん。法人営業を代行してくれたら、もっと大きな額を支払いますよ」

 なるほど。頭の中で電卓を弾く。うん、これなら私にもできそう。

 私は早速、契約できそうなコーチ、セラピスト、カウンセラーをリストアップ。まだ手元には六名ほどしかいないが、この人達を登録講師として営業に回ってみるか。

 私自身を売りだそうとするのは難しいし気が引けるけど、人のためだったらいくらでも動けちゃう。まずはアルバイト的にスタートしてみたこの仕事。これが思わぬ効果を生み始めた。

「千鶴子さんのところに相談したら、いい先生を紹介してくれるのよ」

 おしゃべりのクラスメートがうまいこと外に宣伝してくれる。おかげで、人づてで私を頼ってくる人が増えてきた。

 だが、すべてうまく行き始めたわけじゃない。

「私、うつで死にたいと思っているんです」

 突然かかってきたこの電話。うつの人か…しまったなぁ、精神科医とはまだネットワークがつながっていないよ。今までだったらすぐに専門家の人への紹介をするんだけど。

「少し待っていてくださいね。また折り返し電話しますから」

 私はとりあえず羽賀先生に相談をしてみた。すると、すぐにうつの専門の方へつないでくれた。そして早速折り返しの電話を。

 だが出ない。相手がどこの誰だかもよくわかっていないまま、時間を空けてしまった。

 まぁ相手から折り返しまた電話があるだろう。そのくらい軽い気持ちでいたのだが、なんだかモヤモヤする。再度電話をかけると、今度は男の人の声が。

「はい。こちらの方のお知り合いですか?」

 えっ、誰?

「あ、はい。どちらさまですか?」

「私は救急隊のものです。こちらの平井さんがさきほど自殺未遂を起こしてしまい、現在病院に搬送をするところです」

 えぇっ、ど、どうして…。

 私の無力さを感じてしまった。と同時に、私が彼女を自殺に追いやってしまったのではないか、という気持ちになってしまった。この経験はとても重たく私にのしかかる。

 私は単なる窓口じゃない。私がもっと相手の言葉を聴いてあげないと。軽々しく人を救う、なんて口にしてはいけない。

 どんよりとした気持ちだけど、このことを誰かに伝えないといけないと思いカフェ・シェリーに足を運んだ。

「そうですか、そんなことがあったんですね」

 マスターは私の言葉を親身になって聞いてくれた。

「なんだか自信なくしちゃった」

 落ち込む私に、マイさんがこんな話をしてくれた。

「似たような経験なら私にもありますよ。私、セラピストとしても活動していますけど、やはり中にはすごく後ろ向きなお客さんもいて。出てくる言葉が全部自己否定なんですよね」

 あ、確かにそんな人いるな。

「それで、もう私の手に負えないなって思って。だから少し困った顔で考えこんじゃったんです。そしたらそのお客さん、私になんて言ったと思います?」

「なんて言ったんですか?」

「私のせいで困らせてしまってごめんなさいって。また自己否定に走っちゃったんです。そのときは慌てて、あなたのせいじゃないですよって慰めましたけど。そういう場合、どうしたらいいと思います?」

 どうしたらいいんだろう。

「その人をどうにかしてあげよう。そもそもそれが間違いじゃないか…その人は今の自分をどうしたいのか。そこがポイントかな…」

 考えるよりも、言葉のほうが先にでてきた。

「そうなんです。そのとき、私は自己否定をするお客さんに自己肯定してもらおうと考えていたんです。でも、お客さんが本当にそれを望んでいるのか。そこを考えていなかったんです」

 そうか、そういうことか。

 マイさんが言いたかったことが理解できた。私がやろうとしている仕事で必要なこと。それは相談に来た人が、まずは本当に何を欲しているのか。そこを理解する必要がある。

 私は単純に専門家に振り分ければいいと思っていたが、まず最初に私自身が簡単なカウンセリングを行わなければいけない。そのことをマイさんとマスターに伝えると、こんな答えが帰ってきた。

「だったらちゃんとしたレッスンを受ける必要がありますね。お金を出してちゃんとした教育を受けるのが一番かもしれませんが。これは私からの提案です。時間が許せばここにきませんか。ここのお客さんと意識をして会話をする。それだけでトレーニングができますよ」

「ここでお客さんと会話、ですか?」

「はい。シェリー・ブレンドを飲んだお客さんが何を感じたのか。それを聴いてみるんです。そこでうまく感じたものを引き出せれば成功です。いつも私やマイがこれをやるのですが。これ、やってみませんか?」

 私は考えることもなく、やらせてくださいと口にした。仕事を受ける電話は携帯電話だから、場所はどこででもできる。学校が終わり次第、子どもの保育園のお迎えまでは当分カフェ・シェリーに通うことにした。

 カフェ・シェリーではとりあえずカウンターの端に座り、マスターかマイさんから指示があるまで待つ。そしてシェリー・ブレンドを頼んだお客様を教えてもらい、私がコーヒーを運ぶ。その上で、お客様がコーヒーに口をつけ、何かを感じたと思ったタイミングでこう尋ねる。

「何か感じたものがありますか?」

 すると、お客様はおもしろいように何かを語ってくれる。

 実は後で知ったのだが、マスターが私に指示をするお客様は常連さんばかりだとか。さらに私の事情をすでに先に話してあったらしい。

 が、私はそれを知らなかったので、お客様がいろいろと話しをしてくれるから、なんだかすごい自信につながった。そんな中で、私のことを聞いてくるお客さんもちらほら出てくる。

「へぇ、そんなお仕事をしているんですね。ちょうどよかった、私の知り合いのことなんだけどね」

 こんな感じでお客さんになりそうな人を紹介してくれる人もいた。その中の一人に、株をやっている若い人がいた。

「そうなんですか、いろいろと大変でしたね。これ、ボクからの提案なんですけど。その仕事、会社にしませんか。そしてちゃんと看板を掲げてお仕事をするんです。私が株主として援助しますから」

「えっ、でも…」

 最初はこの男性の申し出を躊躇した。

 この人、年齢は私よりちょっと下か。お金持ちそうだけど、私に援助する代わりに私に別のことを要求してくるのでは、という懸念があったからだ。だがそれは杞憂であることがマイさんの言葉で分かった。

「城次さん、また新しいビジネスを考えているのね。中原さん、彼の頭の中は今はビジネスでいっぱいなのよ。なにしろ私の友達の美雪から愛情いっぱいもらっているからね」

「マイさん、からかわないでくださいよ。ちゃんと最初にお断りしておきますが。私は純粋にビジネスの投資としてあなたに会社設立をもちかけているんです。会社のオーナーは私になりますが、中原さん、あなたに社長をやってもらいますからね」

 社長、この言葉の響きに私は惹かれた。ほんのちょっと前までは雲の上の存在のように思えた。が、それが今、私がそうなろうとしているのだから。

「はい、やらせていただきます」

「よし、なら早速話を具体化しましょう」

 なんだか怖いくらいに話がトントン拍子に進み始めた。

「経営に関しては、当面はボクがいろいろと指導しますから。今は純粋に、お客さんをどうやってとっていくか。その行動に集中してください」

「はい、わかりました」

 なんだか怖いくらいにトントン拍子に話が進んでいく。とにかく今は前に進むしかない。

 そうして気がついたら、私は社長という肩書きを持つようになった。また、城次さんのおかげでさらに専門家とのつながりが深くなってきた。今では心理学の大学教授や大手クリニックの先生ともつながっている。

 こういった人たちと日々出会い、話を進めていくうちにこんなふうに言われるようになってきた。

「千鶴子さん、なんか変わったよね」

 変わった。自分では何も自覚はない。

 でも、社長という立場を意識するようになってからは服装も言葉遣いも気にするようにはなった。けれど生活そのものは今までと変わりがない。

 社長といえども、今までと同じアパート暮らしで食べるものも相変わらず質素だし。まぁ、たまに付き合いでちょっと豪華な食事に行くことはあるけれど。でもこれはあくまでも仕事としてのこと。

 私が見ないといけないのは、相談に来る方たちが何を欲しているのか。そこをしっかりと聴いてあげることに集中しないと。

 するとお客さんの一人からこんなリクエストがとんできた。

「私も千鶴子さんみたいになりたいわぁ。ねぇ、そんなセミナーしないの?」

 私にみたいになりたい? そう言われたのは初めてだった。

 セミナーってことは、私が人前に立ってしゃべるってことよね? でも、何を教えればいいのかしら。そのことを城次さんに相談すると、あっさりとこんな答えが帰ってきた。

「やればいいじゃん」

「やればいいって、どうやって?」

「餅は餅屋。そういうの相談できる相手が中原さんにはいるじゃない」

 相談できる相手。そうだった。私は早速その人物にアプローチをとった。

「なるほど、ちょうどよかった。もうすぐボクの所で、研修を行う人向けの講座を開設するところだったんですよ。中原さんもそれを受講してみませんか?」

 そう答えてくれたのは羽賀先生だ。

 以前の私なら、お金を出してまで勉強するなんてことは考えなかった。けれど私は社長。会社の経費として必要とあればそのくらいのお金を動かして学ぶことだって可能。

 私は二つ返事でその講座を受講することに決めた。社長という肩書きを持ったお陰で、このところ気持ちが大きくなってきた気がする。

 お金の使い方が変わった。といっても無駄遣いはしてない。必要と思えることには容赦なくお金は使う。それが何倍にもなって返ってくることが感覚的にわかってきた。

 こうやって日々勉強を重ね、私は講座を開くまでに至った。

 もう迷わない。今は突き進むだけ。

 まだ借金の返済は終わっていない。しかし、これも体を動かしていくことでそんなに大きな問題だとは思わなくなってきた。あれだけ悩んでいたのがウソのようだ。

 気がつけば、一人でスタートした会社もわずか一年足らずで五人のスタッフを抱えるまでになった。その中の二人は、職業訓練校時代のクラスメート。他のメンバーも私に相談をしてきたお客さんだった人。

 みんなで日々、どうすればもっと多くの人を救えるのか、どうすれば人とのコミュニケーション力がアップできるのかを考え、そして行動に移している。おかげで今では、コミュニケーション力アップのための企業の社員研修まで行うまでになっている。

 もちろん、カフェ・シェリーにも足を運び多くのお客様とコミュニケーションをとりながらの訓練も欠かさない。そういうさなかに子育てともしっかりと向き合い、息子もすくすくと成長をしている。

 そんなある日、私に講演をしてくれという話が舞い込んできた。

「えっ、私がですか?」

 最初はどうして私なの、と思ってしまった。が、依頼をしてきた商工会議所の方の言葉はこうだった。

「中原さんは今、注目されている女性の一人なんですよ。聞けば一年前までは普通の主婦で、しかも旦那さんの借金を背負わされたと言うじゃないですか。そんな逆境をどうやって乗り越え、そして今の姿になったのか。その秘訣をぜひ多くの人に知ってもらい、元気をつけてもらいたいんですよ」

 最初はそう言われても、私に人前でそんな話をするのが務まるのかと思った。けれど、人からそうやって依頼を受けたってことは、それを望んでいる人がいるってことなんだから。

 思い切って講演をやってみることにした。でも、まだまだ不安がいっぱい。社長になっても私という人間は変わらないんだから。

 その気持ちでカフェ・シェリーに足を運んでみた。

「ということで、今度講演をすることになっちゃって。私にそれが務まるかしら…」

「その答えはきっとシェリー・ブレンドが教えてくれますよ。どんな味がしたか、ぜひ教えて下さいね」

 マスターはそう言って、シェリー・ブレンドを出してくれた。

 このコーヒーを私は何度ここで飲んだだろう。飲むたびに私が望んでいることがはっきりしてくる。

 今回も何か見えてくるといいけど。そんな期待を込めて、私はシェリー・ブレンドを口にした。

 口にした瞬間、私の口の中である感覚が広がるのを感じた。なに、この感覚?

 安心するような、そして燃えるようなものがグングン広がっていく。そしてひとつのビジョンが見えてきた。

 そうだ、前に見たあの凛とした女性のイメージ。私もあんな姿で立ち、そして人と接している。

 そこからくるもの。それは「自信」。そう、私は社長。昔の私とは違う。

 私は社長という肩書きを得たが、それが私の世界を変えたのだ。社長としてふさわしい振る舞い、言動、そして考え方。いつしかそれが身につき、それに見合った世界が私にひきよせられてきた。だから今がある。

 そうか、私自身がそう変わったのと同じように、周りの人にもそう変わって欲しいんだ。それが自分をレベルアップさせ、今抱えている問題を問題とも思わなくなるようになれるのだから。

 借金問題を抱えたときはどうやって生きていこうかと思ったくらい。けれど今では私の中ではそれはとるに足らないものとなっている。うん、これを伝えればいいんだ。

「何か見えましたか?」

「はい」

 私はマスターの問いかけに、にこやかに返事をした。

「中原さん、今すごく輝いていますよ」

 マスターの言葉は、私にさらなる自信を与えてくれた。

 まだまだ人生には不安がある。けれど、一年前に抱えていた問題は、今では取るに足らないものと捉えていることにはあらためてびっくりしている。

 カフェ・シェリーでふたたび自信をつけた私。さぁ、いよいよ講演会だ。

 その日の朝、私は息子を保育園に送るときにおもいっきり抱きしめた。

「いたいよ、ママ」

「ごめんね。でもね、あなたがいてくれたからママはここまでやれたのよ」

 私がここまでやろうと決心できたのは、息子のあの一言からだった。あの衝撃的な一言が私の心を揺るがし、そして行動を起こさせてくれた。

 さらに感謝すべきは夫の借金。一見すると不幸な出来事に見えるが、このおかげで自分を高め、さらに上に行こうという気持ちにさせてくれた。そして、このおかげで私はカフェ・シェリーという居場所を見つけることができ、多くの仲間を得ることができた。

 私は息子を抱きしめて、そのことを実感した。そしてその日の午後、私は演台に立っていた。

 会場に集まった人を見回し、一度目をつぶり、そして口を開く。

「ママ、ぼくも死んじゃうの。みなさんは子どもからこんな言葉を聞かされたことがありますか?」

 こうして私はまた、社長として新たな一歩を踏み出した。


<私は社長 完>

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