星は選ばれた
なぜ生きておる。
男はそう思った。
主とともに死ぬるが環姫の務めであろう。
仲間の手引きで命からがら脱獄してみれば、男、刈甫の眼前に用意されたのは冷酷なる現実だった。
主である赤久羅はすでに誅されており、新しい時代を担うはずだった重鎮たちはことごとく消えていた。王宮から去った者と言えば少数で、ほとんどがあっさりと赤江津側に回ったのだからやるせない。
元から、純粋な赤久羅派など数えるほどしかいないのだ。期待の末王子が帝位を希望する兆しもないので、多勢は諦めて仕方なく長子を立てていたにすぎない。刈甫もそれくらい知っていたし、彼自身心から赤久羅に傾倒していたかと問われると返答に困るくらいだった。
彼は、読み誤ったのだ。ひとことで片づけるには哀れだが他に言いようがない。
刈甫が描いていた未来は、壮大だったが砂上の楼閣で、微小な衝撃にあっけなく崩れてしまった。
今回の投獄は、国費を少々私用に着服してしまった結果だったが、本来なら赤久羅の一声ですぐにでも解放される予定だったのだ。それが二日経ち、三日経ち……とうとう一月も過ぎ、我慢できなくなって強行に出てしまった。
まさか、主も己と同じく囚われていたなどと誰が予想し得ただろうか。そうして大昔に手を染めた汚職についていちいち咎められて刑に処せられていたとは。
国民に対して顔向けできないようなことも、確かにやった。それは認める。
ただ、あまりに早急すぎる。不自然なのだ。
だが、いくら悔やみ悩んでもこぼれた水は元には戻らない。
「…………」
ため息すら忘れた。
世界が変貌を遂げてしまうには、時はあまりにも短すぎた。
無意識に、郊外の塔へ辿り着いた理由を、刈甫は説明することができない。いつも通った道を、体が記憶のままに男を運んだだけなのだろう。廃人のように、聳え立つ建物を見上げる。彼の瞳に熱が戻ったのは、皮肉にも憎悪からだった。
ふと開いた窓から覗いた顔は……。見紛うはずもない、あの奇跡の瞳を。
あの、いつも死んだようだった美しい人を。
なぜ、生きている?
刈甫の体に電流が走る。なぜか、得心がいった。
「きさまが……」
声は震え、その振動がやがて指の先まで伝わっていく。
「きさまが、赤久羅さまを殺したのだ……」
やがて、咽喉の奥からくぐもった笑いが生じる。
「仕方ない。私が手伝ってやろう。死してのちは、心を込めてお仕えするのだぞっ」
青白い顔に、血走った眼だけが異様に輝いている。男は、非常に歪んではいたが、新しい生きる理由を得たのだった。環姫を殺すという、崇高な目的を。
好機はすぐにやって来た。
簡単な旅支度は男に十分な準備を与えてはくれなかったが、それでも何人かの仲間を連れてあとをついていく。すると、どうやら国を出るらしいことがわかった。
砂漠のなかの強行軍、いやすぐに決着をつけてしまえばよい。一行が砂の迷宮に入り込んですぐに行動を起こした。
簡単だった。おかしいほど楽にことが進んでいく。
一度は老女に邪魔をされたが、男は倒れこむ環姫に向かって間違いなく刀を振り上げた。
そうして、ただ重さに従って叩き降ろせばすべてが終わったはずだ。
瞼で蓋をする環姫。あの奇跡を、最後に見ておこうか、そう思ってしまい……、
……どうせ、もう他の男の肌を知った淫売だ。
蟲を下した経緯は調べた。思い返して見やると、目の前の肌は吸いつくように白く、艶かしい。
男が殺人者から欲望の獣に変貌するのにたいして時は要しない。そもそも完全な忠臣でもなかった。
刀は手から滑り落ち、汚れた衣服を切り裂こうと上半身をかがませる。
しかし、か弱い環姫が男の手中に収まることはなかった。
「な、なぜだっ……!」
ふわりと立ち上がった姫は、夢のように刈甫から離れていく。小さなかかとが黄金の大地を蹴るたびに、光が舞い上がるようであった。それは、あの末王子が羽を広げたときに降るというものに似ている、そんなことさえ思った。
太い腕を伸ばす。空を掻く。
再び、捕まえようと伸ばしても、獲物はひらりひらりと手からすり抜けていく。かすりもしないのだ。
「なぜ……だ……」
小さくなる背中。追いかけなくてはいけないのに。足が動かない。
両性は国の宝か。
だからなのか、体中が赤く光っているように見えるのは。
砂漠で育った男の目が、遥か遠くの人物の姿を捉える。
「…………」
ふと足元を見下ろしてみた。
風が吹いて、もう刀も環姫の落とした涙の跡もすべて埋もれてしまった。
刈甫は悟ったのだ。だから、もうそのまま動かずに待とうと思った。
終わりを告げる、その合図を。
……声が聞こえる。
そんな気がするのは、甘えだろうか。
「あっ……!」
心臓が弱音を吐いたのか、薔薇は派手に転び、正面から倒れこんだ。
「はっ……はあっ、はあっ」
苦しい。走るなど、今までの生活では考えられなかった。自分にこれほどの激情があるなど、知らなかった。
薔薇はたまらず、そのまま身を柔らかな砂に預けてしまおうかと誘惑に負けそうになる。
けれど、もう諦めることはできない。
千華が殺されて、己も覚悟をした。
諦めが、その脆い心を支配しようとしたとき、その叫びが響いたのだった。
――――薔薇!
はっ、と胸が鳴る。密かに、微かに。
――――来い! 俺だけを思って、ここまで駆けてこい!
それは幻聴だ。頭のなかに直接響いてくる。
ふるふると、首を振った。見えるのはぼやけた白い霧のようなものだけ。声はしても、どこにいるかさっぱりわからない。しかも、傷ついた臓腑のせいで、立ち上がることすら難しそうだった。
――――お前は、何かを望んだことはあるか!
「……ございません……」
ぽたり、と今まで感じたことのない鈍い痛みが瞳の奥から湧き上がってくる。
頬が、濡れている。
私は、泣いているのだろうか。私は、泣けるのか。
この役立たずの目は、涙を生み出すことができたのか。
――――俺のために、俺のために……今、望んでくれ。俺はここだ! ここにいるぞ!
あ、あかえづ……さま。
気づいたら、走っていた。
いや、走っていると思ったのは自分だけで、ほんとうは歩みよりものろい足取りであったかもしれない。
ただ、薔薇は目の前に輝く星が見えたので、それに向かって一心に進んでいっただけだ。
涙を流して、しゃくり上げながら、長く地に垂れる裾に足をもつれさせて転びそうになりながらも、薔薇は必死に走った。
「あっ、んっ、えくっ、……あ、あかえづ……さまっ」
どれほどの距離を進んだか、わからない。
薔薇の瞳に強烈な光が迫ってきて、他のすべてのものを燃えつくすように巨大に広がっていく。眩しくて眩しくて、ついに瞼を閉じたとき、薔薇のからだはしっかりと抱きとめられていた。
手に胼胝を持つ男。
「薔薇」
耳元で、囁かれる名。
いつか、きれいだと言われた。笑っていた声は少年のもので、幼く無邪気で、薔薇をいつも慰めた。
「薔薇」
呼ばれるたび、回された腕の力が増していく。薔薇の細い体などたやすく折れてしまいそうなほどだった。
「選びます……」
しかし、環姫の口から生まれたことばは抗議でも拒絶でもなかった。
「あなたを選びます……あなたを、あなたを……」