道は楽なほうに
どうにか身を起こせるようになった薔薇だったが、生活は特に変化なかった。相変わらず寝台の上でぼんやりと日の出から日の入りまでを過ごし、光と色を失ったことを改めて思い知りながら鞠を手の中でもてあそぶ。
今手にしているのは千華が作ったものではなく、母親が残してくれた形見だ。
蟲を入れられた薔薇と違って、普通の民だった母はもう数十年も昔に世を去っている。
最後まで、不憫な子に何度も何度も謝りながら病で静かに逝った。
「ほら、薔薇、これが赤よ。赤。きれいでしょう。この国の色よ。薔薇の大好きな人の色なの」
大きな布を掛けられて、その中で抱きしめられた。ことばにはいつも嗚咽が混じっていて、どうしてそんなに悲しいのか、いくら聞いても答えてはくれなかった。
「…………」
長年触れていたせいか、刺繍の糸が細くなっている気がする。薄くなった凹凸がかたどるのは、朱雀だと母は言った。
ぽん。
鞠をつく。
ぽん。ぽん。
鞠が跳ねる。
「そんな悲しい歌はやめて」
母は言った。
でも、悲しみを埋められるのは悲しみしかなかった。母がいなくなって、薔薇はずっとずっと後を追いたかったのに。
「薔薇、どうする?」
聞かれて、黙するより他に術はなかった。
今までずっと、従順に導かれるまま歩いてきた。急に手を離されて、さあ自由をやると言われてもどうしたらいいのかわからない。突然、選択肢でも与えようと親切心が生まれたのか。
感情をすっかり捨てた気でいたが、薔薇は軽く唇を噛む。
もう、今はほんとうになにも見えないのだ。
一歩進む先が、底の無い深淵の崖かもしれないのに。それなのに、勇気を持って進めと言うのか。
途中で気が変わったなどと、簡単に言わないでほしい。
そんなのは、卑怯ではないか。
このまま南に残るか、と言われるのをぼんやりと耳に流す。
放心したかのような環姫とは反対に、部屋に集まった人々の表情は硬い。
「薔薇。もうあまり生きられないけれど、延珠亭へ行く?」
向日葵が優しく提案をしてくれて、軽くうなずいた。
南の国が道を与えてくれないと言うならば、薔薇はこの先もう指ひとつも動かせない。ならば、延珠亭に行って死を待つという明快な未来があるほうが心が安らぐ。
薔薇の白い首が了承のために前に傾いたとき、赤江津はそれがまるでからくり人形のような動きだと思った。
嘘だ。
まばたきをした。
嘘だろう。
もう一度、目を瞑って、そうして開けたら……きっと環姫は己に向かって微笑んでくれているはずだ。
「薔薇っ」
名を呼ぶと、少し目線を上げてはくれるがその顔はまったく方向違いのところを向いていた。前までは、見えているのかと錯覚しそうなほどしっかりとその双眸を預けてくれていたのに……。
「そうび……」
もう、いないんだな。
ほんとうに、ほんとうに、もう、お前の中に俺は残っていないんだな。
あの孤独な塔に閉じ込められて、もしかしたら己を待ってくれているかもしれない、そう淡い期待を抱いていたことを否定することはできない。
でも、記憶がないと言った。
薔薇は赤江津のことを思い出して、泣いたりはしなかった。
延珠亭の店主が振り返って、にこりともしないで瞳を投げかけてくる。
それに対して、南の国主はゆっくりとうなずいた。
薔薇、お前がいなければなんの意味も魅力もない冠だけれど。赤江津はそれでも環姫の選択を尊重するように首を縦に振るしかないのだ。
さようなら、薔薇。
そのことばは、やはり声に出せなかった。ふらりと立ち上がって、部屋をあとにする。心配そうな兄たちの姿も、風景に混じって霞んでしまう。
歩く速度がだんだん速くなる。最後には、息が上がってしまうほど。
はあ、はあ、はあ……。
日が傾きかけている。
壁のない、開かれた廊下にたたずめば、近くに砂漠が、遥か向こうに海が見える。広い世界から集まった風が、国主の髪を恭しく通り抜けていく。
赤江津はこくりと唾を飲み込んだ。
多くのものを失った夏だった。
俺はそれでも、お前に会えて嬉しかった。嬉しかったんだ。
こうして、南の環姫は王宮に戻ることなく国を去ることとなった。
「じゃあね、待っているわ」
と言い残して、向日葵は先に延珠亭へと戻っていった。薔薇を迎え入れる準備に妙な意気込みを表しながら。
「薔薇さま。このご衣裳はどうなさいます? 紫の糸で右袖に菫があしらわれているものですが……」
千華はこの国の民だ。南で生まれてそうして故郷の砂に戻る。しかし忠実な侍女は中立市まで供すると言い張った。
あまりの剣幕に、延珠亭店主もさじを投げ、薔薇としても渋々許可せざるを得なかった。薔薇が死した後は帰るように命じたけれども、素直に従うかどうかは怪しいものだ。
千華の愛情は、すでに常軌から逸脱している。
正直、この環姫が延珠亭に行くと決まったとき小躍りするほど喜んだ。
薔薇の弔いができることに、暗い喜びを感じてしまう。もう自分は、薔薇の人生の単なる一部分ではない。最後まで伴うことができる唯一の侍女だ。
それでも、偏執的な愛は薔薇を脅かすものではなかった。彼女は単なる侍女で、薔薇を助ける力もなければ、反対に害する人物にもなれない。
「薔薇さま。千華がついておりますからね」
晴れ晴れとした笑みは、幸いにも盲目の環姫は目に映すことができない。できたとしても、心はすでに下界から遠ざかっている。
遠い遠い、取り戻せない過去に思いを馳せることも、近い将来迎える終焉に心震わせることも、ましてや愚かな侍女のように胸をはずませることももうないだろう。
用意された車に乗って、赤い駱駝の群れは砂漠を越えるために出立した。
小さくはない揺れの中で、薔薇はそれでもお人形のように姿勢よく座っていた。
初めて遠出をするという千華は興奮状態なのか、今はまだ声が明るい。これが例えば明日になればどう変わっているかは想像するまでもない。
それでも薔薇は、零れて飲めないに決まっている茶を当然のように勧められても、丁寧に断りを告げた。
思えば、哀れな女だ。
こんな自分に関わって一生を台無しにしてしまった。それでなくとも短い生涯だというのに。結婚もせず、子もなさず、ただ環姫のためにと仕えた。王宮を見ることもなく、あんな寂れた郊外の塔で。
だから、今、女が幸せそうに笑うのがとても切ない。それなのに、薔薇はもう誰かを思いやる心すら風化してしまう寸前なのだ。瞳を開けても広がる闇が、じわじわと己を飲み込んでいくのがわかる。
「中立市とはどういった場所なのでしょうね。南の国のようには暑くないのでしょうか」
窓を覗いているのだろうか、砂交じりの風が頬に当たり、時折侍女の上げる歓声が薔薇をふと意識の底から戻した。
「さあ……」
「薔薇さまは、延珠亭に参られたことがございますでしょう。そのときは、どんな季節だったのですか?」
「…………」
延珠亭。
言われて、薔薇は記憶を探る。
そのころ、もちろん母はまだ生きていたはずだ。ずっとずっと小さいころ。首も座らない幼児のころだったかもしれない。母親に抱かれて……そうして、傍らに大きな気を感じていた……そんな予感がするなんて。
「う……」
頭が痛い。
温かい、舌足らずな甘い声で、自分の名を呼んだのは、誰だった?