蟲下すとき
南の末王子が生まれたとき、周囲にもたらしたのは歓喜と困惑と、そして怒り。
もともと南は末子相続を慣行としていたが、長子、二子と一応まともな子が続いたのち、第三子は妾腹の生まれであったし、四子に至っては奇形児で話にならなかった。珍しいことながら継承権は長子であった赤久羅に移り、そのまま穏やかに時は過ぎていくかに見えた。
突然の王妃の妊娠は数々の協議をもたらした。後続の子をいかに多く儲けることが南の男の一生をかけての課題であったが、体の弱い妃を盲目的に愛してしまった王にとって彼女に対するときだけその常識を捨てていたのだ。
子を産むのに耐えられないかもしれない。そう医師に言われ、皮肉にも他の妃に構う時間が多くなった。四子が成人まで育つと、ようやく荷を降ろしたかのように王妃のもとに戻り、気が緩んでしまったのかもしれないし、王妃自身が望んだのかもしれない。
とにかくも、末子は生まれてしまった。
卵から孵った姿に、王は一瞬ながら産後の体を休める妃の存在を忘れた。羽から光の粉が舞う、伝説とも言われる吉兆の子であった。
祥気はすぐにも現れた。城下から両性が出たとの知らせがもたらされたのである。明らかにこの次代の王に用意された繁栄の印に、王宮は欣喜雀躍の態であった。それでなくとも最も愛する妃の子どもである。可愛くないわけがない。その瞬間から、王は他の子の存在を忘れ、末子の赤江津にのみ盲目的な庇護を与えることとなる。
二子の赤須磨は執着のない質で、毎日快楽的に過ごせればそれでよかった。
三子の赤月もしかり、王宮に留まることも稀なくらいそもそも王位にまったく興味を持っていなかった。
四子の赤座はなにも語らなかったが、兄に誰がいようと弟にどんな存在が生まれようと、彼はいつも己の立場をわきまえている。
問題は、長子の赤久羅だ。
自尊心が異様に高く、権力にこの上ない魅力を感じていた。一度は次期王の許しも得ている。この事態は彼にとって納得できるものではなかった。
あっさりと彼から継承権を奪い、両性までをも手にしようとする弟に向けた狂気は赤久羅の精神を確実に侵していった。
一時期、南の国で流行ったことがある。夜が更けてしばらく経ったとき、夜空に光の粒を撒く小さな朱雀が現れるのだ。それを人々はあらゆる作業の手を止めて見上げるのである。
彼の目的地も誰もが心得ていた。
粗末な小さな民家の窓はこの時間いつも開け放たれている。実に自然に体を滑り込ませた先に、横たわる小さな体。
目も見えず、体も弱く、いつも寝てばかりいる彼の環姫だ。傍らで籠を編んでいた母親が立ち上がって礼をする。当初は恐れ多くて直視できなかったが、今ではすっかり慣れてしまった。茶はどうかと声もかけられるようになった。
「いや、よい」
ゆっくりと人に変化するようすは、いつ見ても不思議な気高さを感じる。
王子が人型を取れるようになったのはつい最近のことだ。盲いた薔薇はその姿を見ることはできないが、温かな手で頬を撫でられるのは好きらしい。
「では、わたくしは下でやることがありますので……。薔薇をよろしくお願いいたします」
「うん。わかった」
さすがに今夜は腕白な王子もいささか緊張しているようである。
薔薇の蟲入れの日が決まった。もちろん赤江津の環姫となるわけだが、もしかしたらこれで薔薇の眼球も己を映すことになるやもしれない。迎え入れる部屋も準備した。
母親はまだなにも言っていない。
赤江津が自分から伝えることを望んだからである。
木の戸が閉めかかる前に、我が子を優しく起こしている声が聞こえた。
幸せはそのまま、平穏無事に訪れるのだと、誰もが疑わなかった夜だった。
蟲が盗まれた、と家臣が白状したのに赤江津は特になんの感情も抱かなかった。
薔薇のことがきっかけなのか、南では今、環姫を持つ輩が多くなっている。買えると言っても、そこには厳しい審査が待っている。誰しもが手に入れられるわけではなかった。だからこそ男たちはより躍起になって環姫を望むのだろうか。
どうやら、臣の屋敷に向かう途中で盗賊に襲われたようなのである。不思議なのは、環姫本人や荷には見向きもしないで蟲だけを狙った意図を、赤江津は計れないでいた。
気の毒に、とは思うが、所詮他人事だ。どうしてやることもできない。
そのまま、王子はそのことを忘れた。
強制的に思い出させられたのは、もうすべてが終わってしまったあとだった。
「うそ……だろ? なにかの、冗談、だよ……な」
乾いた石の王宮、外からの風を通す広い廊下。赤江津は母親の手を取って歩いているところだった。久しぶりに気分もよく、庭に出てみたいと言われて喜んで腰を上げた。赤江津の見事な赤髪は母親譲りだ。光の下に立つふたりの姿は人々に嘆息を与えた。
そこへ、その場にそぐわない不快な音が鳴り響く。乱暴な足音と、そうして人々の悲痛な叫び声。
「あ、あかえづっ!」
名を呼ばれ、近づく人影に振り向いた。
「…………」
呼吸が止まる。
赤が迫ってくる。
母親の髪とは比べ物にならない、汚らわしい色だ。
「ふは、ふははは……」
男の笑いが鼓膜を刺激する。しかし、赤江津には届かない。
世界が真っ暗になって、ふと、右手から温もりが消えたのを感じた。あまりの光景に、母が失神してしまったのだ。慌てて抱き起こすところを、子どもは自分の体を動かすことができなくなっていた。
ぼんやりと倒れる女を眺めて、そうしてもう一度顎を上げた。
「薔薇…………」
ぐったりと、男に抱きかかえられる、彼の唯一の環姫。白くて滑々した肌には、赤黒い液体が乾いてこびりついていた。
腕をざっくりと斬った赤久羅は、今でも廊下を血で汚しておりそれに対してまったく頓着していないようだった。余裕がないのかもしれない。
「蟲を入れたぞ。お、俺の、俺の環姫だ!」
狂った男が叫んだとき、薔薇の瞳が開いた。
桃色の、奇跡の瞳。
「薔薇」
名を、呼んだ。
「あ、あかえ……づ、さま……」
皮肉にも、それが薔薇から発せられた初めての彼の名前だった。
赤江津は悪夢のような過去を脳裏に巣くわせつつ、淡々と己の役割を果たした。
腰から抜いた刀を、縛られた男の心の臓に無言で突き刺す。最後に、この愚かな長兄はなにを思ったのだろう。赤江津の世界は相変わらず闇のなかで、今だって周りの人間がどんな顔をしているかわからない。
美しい薔薇。王宮の醜い争いに巻き込まれて、こんな寂しい塔に長く閉じ込められていた。
赤久羅のせいで、……そうして己のせいで、苦しんでいる。
薔薇が紅玉に舌を伸ばしたのを見て、震えた。口を押さえて倒れたと同時に、足が出た。気がついたら、兄の髪を掴んで薔薇の前まで運び、背中から刀を突き立てていた。
断末魔の叫び……いや、そんなものは聞こえない。
ぼたぼたと鈍い刀身の先から滴る液体が、再び環姫を汚した。
蟲下しは、主の心の臓。その血液をもって、契約は終わる。
赤江津は薔薇を見ていた。薔薇だけを見ていた。
成長した環姫を確認してやろうと思ったのは軽い気持ちで、ほんの好奇心のはずだったのに。見た瞬間、すさまじい独占欲が蘇ってきた。そうして、その口から出た憎むべき名の響きに我を失った。
あの夜がなければ、こうして赤久羅も命を落とすことはなかったのかもしれない。
赤江津にとって、国主の位に価値など見出せなかった。ただ、それが薔薇を手にする札だと再認識したとき、登極の意思が決まった。
ただ、薔薇を取り戻すためだけに。