生きるための音
薔薇はほんとうは、心のどこかでわかっていたのかもしれない。
己の体をまさぐる手の持ち主が、主ではないことを。しかし心は許してしまった。それはなぜなのか。
南の環姫はもう、待ってもいない人を待ち続けるのに疲れてしまったのかもしれない。傲慢にも手短に死を与えて欲しかっただけなのかもしれない……。
「薔薇。ご機嫌いかが」
子ども特有のちょっと高い声に薔薇は伏せていた顔を上げた。
「ヒキ……」
顔に触れさせてもらったことがあるが、造作は子どものものだった。しかし前任の店主を知る者に会ったことがない。いったい何百年前からこんなふうに壊れていく子らを見送ったのだろう。血まみれで四肢を投げ出す薔薇を見ても取り乱すようすもないのだ。
冷酷か、いや環姫はそう思わなかった。
薔薇は少しだけ後悔した。環姫となってから、この人は南の外れと延珠亭とを何度往復したか知れない。その度に庭の花や他国の珍しい菓子を持って慰めてくれたのに。
声をかけようとして、もう声帯を震わす力もないことに気づく。
「悪いけど、まだ剥製にしてやることはできないわよ」
にこりともしないで延珠亭店主、向日葵は言い放つ。
あまりに薔薇の容姿を絶賛するものだから、死ぬときは首を飾ればよいと笑ったのがついこのあいだのことのようだった。
薔薇の口角が少しだけ持ち上がる。ともすれば冷淡と思われがちな美貌が、それだけで愛らしい印象に変わった。
「そう。そのままでね。いい子ね」
囁くように耳元で声をかけられて、薔薇は部屋に迎えた別の存在に気づいた。
心がざわついた。赤い光を感じ取ったからである。ただ、それは先日のものより弱くぼやけていて、そうしてひとつではなかった。部屋の中にいくつも転々と確認できる。
「こ、これはどういうことでしょうか……」
薔薇を胸に抱きつつ、千華は青ざめた顔で問うた。
環姫自身はどう思っているか知らないが、延珠亭店主は千華のような普通の人間から見ればあまりに異質で理解に苦しむ存在だ。その訪れを楽しみにしていた薔薇には悪いが、いつも胡散臭く思っていた。
それが、今、このような状態の環姫に眉のひとつも動かさず、不躾にも承諾も得ることなく部屋に侵入してくる。しかも、大層な客まで伴って……。
「これはどういうことだ。盲目とは聞いたが、死にかけかけているなど初耳だぞ」
「赤久羅が脱却して、おこぼれに預かろうとしてたのにな」
「まあまあ、よく見てみたら? こんなにきれいな子は赤須磨が誇る後宮にだっていないよ」
いったい、どういう神経をしているのか。
両性とは言え、仮にも次期国主に輿入れする身である。このような整えていない姿を晒さねばならぬ羞恥をなぜ思いやってくれない?
「殿下、お静まりあそばせ」
延珠亭の女は冷静に笑いを浮かべる。
なぜ笑えるのだ。
なぜ。
千華の肩に熱い息がかかる。ぜいぜい、と病んだ肺の音がする。
「薔薇さま」
帯刀したまま乗り込んできたのは、全部で5人。
延珠亭店主、そうして朱雀の王子たち。第2子から末弟まで揃っている。なまなかな儀式では拝めない光景だ。
欠けたひとり、それが薔薇の夫となる人物だった。
「どういうことです」
まさか。すぐさま心に沸いた可能性を必死になって打ち消そうとするが、薔薇の呻き声によってあえなく中断される。
「あらあら、苦しいのね」
のんびりとも取れる口調に、千華はかつてない怒りに囚われた。醜いことばが体中を巡る。それでも、口に出すことはない。薔薇に聞かせたくはない、その祈りだけが千華の冷静を保たせた。
小鳥のさえずりや、歌や、笑い声、そうして鞠がとんとんと床をつく音。目の見えない薔薇に用意した、千華の部屋が土足で踏みにじられようとしている。発せられる声も音も、弱った環姫へ捧げてよいものではない。
「主人替えをおこないます」
少女が告げたのと、そのとき部屋に運び込まれた物体が叫ぶのとでは、どちらが早かっただろう。
「こっ、このっ、薄汚い娼婦め! 主以外に体を開くとは、環姫の風上にも置けぬ!」
そうしてすぐに蛙がつぶれたような悲痛な声が続く。兄弟に腹を蹴られた男は、ごろごろと床を転がった。
「まだ言うか。情けない男だとは思っていたけど、ほんと、もう、どうしようもないね。そんなんだから寝取られるってなんでわかんないかな」
くすくす、と笑いながら兄を眺める顔は、まるで楽しい見世物を前にしているようで。
「赤座、仮にも同腹の兄だろー? お前くらい優しくしてやれよ」
「冗談。僕は兄さんほど崇高な人物ではないもので」
言いながら、なおも兄の横腹を蹴り上げる男に笑った。
「崇高、ね。お褒めのことばをどうもありがとう」
「ひいっ」
悪い夢でも見ているのではなかろうか、と薔薇の忠実な侍女はそれでも環姫の耳を塞ぐところまでは気が回らない。
牢で処刑待ちの赤久羅が悲惨な姿で千華の足元を転がっている。かつて侍女などごみのように扱った人物が、今では縋りつくように手を伸ばしている。
「……」
吐き気がした。
呆れたように兄弟たちを見やるのは、二子である赤須磨だろう。にやにやと笑っているのは三子の赤月、反対にまったく表情を浮かべない四子の赤座。そうして、初めから部屋の隅にたたずんでひとことも発しない末子の赤江津。
すると、南の大国朱雀の王子がこの小さな部屋に一同に介したこととなる。
なんの冗談だろう。
千華は笑おうとしてできなかった。
見下ろした薔薇の顔は、血が通っていないほどに白い。
慌てて血の玉を口元にかざす。本人が目の前にいるのに、つくられた紅玉を舐めさせる不自然さに千華は気づかない。
もう何十年もおこなってきた習慣に疑問を抱かないでいられるから千華はいつまでも侍女なのだ。彼女には、薔薇の主と足元の男を結びつけることができない。知っているということとは違うのだ。
「さ、薔薇さま」
ほんとうは、向日葵がそれを止められれば良かった。
彼女がほんの一瞬王太子に気を取られたとき、あまりにも滑らかな動作でそれがおこなわれたものだから止める間もなかった。
薔薇も、差し出されたものに対して反射的に舌を出す。
「…………っ!!」
全身の力を奪うかのような、苦み。舌から始まった痺れが足の爪の先にまで達したとき、薔薇はとうとう瞳を閉じてしまった。
見えないながらも瞼を開けていたのは、薔薇が生に執着する最後の砦。それを失ったとき、環姫は天に昇れるのだろうか。
甘い紅玉は、今や環姫を脅かす毒の玉でしかない。主を裏切った環姫には当然の報い、しかし盲目の姫に課すにはあまりにも酷な試練だった。