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南十字星  作者: 延珠
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針に刺す、夢のことのは

 翌朝、薔薇そうびの寝室へ足を踏み入れた侍女が、手にしたたらいを落としたのを咎める者はいないだろう。


 篭った空気が、朝日を受けて更にその密度を上げ、じわりと汗が滲んで視界がぼやけてしまった。


 なにかがすえたような臭いがする。


 嫌な予感ほどあまり外れないものだ。


 部屋にも、薔薇自身にも、明らかな陵辱の跡が残っていた。


 床から響く金属と水が跳ねる音に、環姫はようやくその奇跡の目を薄く開ける。


千華ちか?」


「薔薇さま……」


 千華と呼ばれた女は、濡れた衣に不快を感じる余裕もなく、ふらふらと寝台まで歩み寄った。


「どうなさいました?」


 と聞く、己の愚かさに頭のどこかで嘲笑を浴びせる。その甲高い声が止むことなくいつまでも繰り返され、目の前の血の混じった精液に吐き気をもよおしそうになった。


 千華が薔薇に仕えて早30年。初めて会ったときは童話のなかの王子さまが現れたかと口を閉じるのを忘れるくらい見入ってしまった。その美しさは相変わらず、ただ、今目の前で疲れたように横たわる人はあまりにも華奢で、小さく可愛らしくさえ映った。


「薔薇さま……」


 ああ、とうとう、この日が来てしまったのだ。


 幼少のころより胸の内だけで温めてきた感情が、準備されていた奥の牢に向かって静かに連れ去られるのがわかった。


赤久羅あかくらさまがいらしたのですか?」


「……うん」


「おめでとうございます」


 その祝福のことばが、少々ぎこちないのはなにも千華の感情のせいというわけではなかった。引き裂かれた衣、手首に残る締められたような赤い痣、内股から幾筋も伝う血の混ざる流れ。


「待ち望んで……おりましたものね……」


 優しくは、されなかったのだ。


 これほど美しい人を、なぜこんなふうに扱えるのだろう。


 千華は泣いた。必死に嗚咽を我慢すれば、薔薇に気づかれることもない。服も床もすでに濡れている、今さら少し足したとして、その涙が尊いものにはならない。今まで培ってきた愛情は、報われない。でもそれが無意味だとは侍女は思いたくなかった。


「もう一度、湯をお持ちいたしますね」


 微笑んだ先で、環姫はまた意識を手放していた。知らず指が伸びて、今はごわついている髪をそっと耳の後ろに流してやった。


 白い頬、対比するは少し血管の浮き出た骨のような己の手。


 蟲の入った環姫の命は、主である王と同じく数千年とも言われる。一生をかけてお仕えしても、薔薇にとって自分は何代も入れ替わるうちのひとりでしかないのだ。


「……」


 それでも、千華は幸せだ。


 薔薇は千華の王子ではなかったが、あの赤い国主の横に侍る姫の姿を、命の尽きる前に拝むことができるのだから。





 赤久羅の訪れは公にはされなかった。


 元々、即位後に正式な輿入れとなっているので、まだ紛争の片付けも済んでいない状況に要らぬ種をまく必要もあるまい。


 急に始まった月のもの、ということで周囲をごまかしたが、それも一月も続くとなれば不審がられるのも当然だった。


「薔薇さま、ご気分はいかがですか」


「……うん」


 環姫の口数はめっきり減ってしまって、寝台から離れることもできないでいた。


 無理やり食べさせてはいるが、物を口に入れるのも困難になってきている。


 見るからにやせ細っていく姿をただ見守るだけの生活に、千華はもう耐えられなかった。


 そうして、無情にも事態は好転するどころか、とうとう恐ろしい場面に遭遇してしまう。女中頭として若い侍女を叱りつける役目となった千華も、そのときばかりは仕事始めの小娘のように役に立たない。


 ただおろおろするだけで、環姫を不快にするような奇声を発してすぐに改められないでいるのだ。


「薔薇さま!」


 もはや傍にいるのが誰かということも理解しているのか、血を吐いた環姫は、汗交じりの髪を振り乱し、神秘の瞳を翳らせ、壮絶な美しさでもって寝台の上で踊りつづけている。


「ああ、ああ、ああ……」


「そ、薔薇さまっ、薔薇さまぁ……!」


 この姫は、ついぞ弱音を吐いたことがない。いつも静かに、そうして少し冷めた瞳で周囲を受け入れていた。


 幼くして親から引き離されても、強制的に蟲を飲まされ王太子と契約の儀をさせられても、圧倒的な暴力で体を開かされても、そうして今も。


「…………」


 環姫さまは泣くことができないのですか、と不遜にも質問をした女がいた。やはり瞳が病だとそうなるのでしょうか、と傾げた首を絞めそうになったのを覚えている。


 あらゆる薬は試した。


 子守唄も歌った。


 きれいな鞠も手に入れた。


 それでも。


 薔薇の体から最後の一滴まで絞り出すかのように出血は止まらない。思い余って王宮まで出かけて、そうして帰ってきたら。とどめとばかりに口から生命の液体を捨てていく姫の姿が夕焼けを受けて神のように輝いていた。


 薔薇が赤久羅を待っていたかは知らない。


 少なくとも、千華は主の訪れを心待ちにしていた。


 しかし、彼は来ない。恐らく今後も来ることはないだろう。


 沈静化したと思った内乱は、実は見せかけにしかすぎなくて、薔薇の夫はすでに幽閉され、環姫よりも前に死を待っている。


「薔薇さま……」


 この場所にひとり、囚われて百年、それとも二百年、私の環姫がいったいなにを望んだというのか、いったいなにに抗ったというのか、なぜこんなところで終わらせなければいけない?


 千華は泣いた。薔薇の代わりに泣いた。


 あの日、あの夜。


 薔薇の元を訪れたのは赤久羅ではない。そのころにはすでに主は捕らえられている。


 神の子を汚した暴漢を恨む権利を、どうか今ひとときだけ持つことをお許しください。環姫の吐いた血で全身を汚しながら、見た目は親と子ほどに離れているふたりだったが、千華の目は在りし日の少女の眼差しを湛えて愛しい環姫を抱きしめた。


「薔薇さま。鞠をお持ちしましょうねえ。千華が赤い糸で鳳凰を刺したのですよ。とってもきれいにできたんですよ」


 ぴくり、と薔薇の睫毛が震える。


「鞠つきをいたしましょう。歌はなにがよいでしょうか。楽しい歌がよいでしょうね、蜜蜂の歌、それとも魚のお嫁さんの歌……ええ? なんとおっしゃいました? あか、ひと? 赤人ですか。まあ、薔薇さまはあの歌がお好きなんですわねえ。亡くなった王に捧ぐ歌なんて。いえ、よろしいんですよ、では鞠をお持ちしますからね。ね、薔薇さま?」


 環姫の口が細かくなにかを訴えるかのように痙攣している。


「あか……あかい……」


 白い夜着も敷き布も、薔薇が吐き出したものですっかり染まっている。


 千華はかつて朱雀を刺繍したことはなかった。そのことに薔薇は実は気がついていた。思いに応えられないことも。


 だから、最期にこの幸薄い女に体を預けられたのは良かった。偽善的な自己満足を納得させることにきまり悪くならないわけではなかったが、鳳凰の刺繍も見てあげられないから。だから。


 薔薇が庇護される子どものように力を抜いたとき、炎が迫ってきた。血ではない。赤い鞠でもない。炎だ。


「殿下が……!」


 招かざる客に騒然とした夜が、今、幕を開ける。

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