夏の夜空に架かる橋
必死にしがみついていた薔薇だったが、たくましい胸に押しつけた頬にざらりとした感触を感じてふと我に返る。
涙の筋に砂がびっしりと張りついているらしい。
考えてみれば、いったい自分は今どれほど汚れた格好をしているのだろう。気になりだしたら、たまらなくなった。手の力を抜いて、そっと離れようとする。
「そうびっ」
するとあせったような声が落とされて、……不思議な予感に誘われてふと顔を上げた。
「…………っ」
小さな叫びは、すぐに心の奥に飲み込まれる。
顔の造作などわからないはずだ。触れて想像したことはあっても限度がある。だが、炎のような流れる髪が揺れるなかに深い緑の瞳が真摯に向けられている。薔薇はその姿を美しい、と思った。
透明な涙は赤銅の肌をいたわるように流れてゆく。主の弱さを知った薔薇に、母性愛のような保護欲が沸きあがる。しかしそのときはそれがどういった感情なのかわからなかった。
気まぐれに映された幻影はすぐに幕が下ろされたが、ふと昔言われたことを思い出した。
視力は、本来ならば蟲を入れた時点で治るはずだったのだと向日葵は言った。
もしかしたら。
この、赤江津の環姫となった暁には、全治はしなくともたまに愛しい男の姿を確かめるくらいの幸福が得られるのかもしれない。薔薇は妙な確信をもってそう思った。
「赤江津さま……、千華が……」
「ああ」
遥か先の砂漠の入り口から、赤江津は一部始終を目撃していた。
薔薇がこちらに向かって駆けてくる、その光景を認めたときの感動は終生忘れることはないだろう。
赤久羅派の残党が脱獄したという報告を受けて、ひどく胸騒ぎがして薔薇を追いかけた。鋭く太陽に反射された刃を見たときには、砂漠に生きる生物をすべて焼き殺してでも誅滅しようと思ったが、薔薇を胸の中においた今ではその激情は消えている。心はひどく凪いでおり、豆粒ほどの大きさの呆然とたたずむ男の元に、たった今兵士が辿り着いたのを静かに確認していた。
吉兆の子と言われ、結局愛しい人ひとり永く幸せにできなかった。
彼の代わりに、最後まで環姫に尽くし守りきった痩せた老女は、果たして一国の主よりも偉大でないと言えようか。
自分ではない、純粋に他人のことを思う心はなによりも強い。
そうだ、なによりも強い。
再び光と色だけの世界に戻った薔薇を、もちろん南の国主は知らない。震える手で、その未来の環姫の柔らかな頬を撫ぜた。乾いた指先で触れられるのが心地良いいのか、うっとりと瞼を落とす。
するとまた奇跡の瞳からぽろりと雫が溢れてくる。
涙とは、これほど甘く優しい香りがするものなのか。
薔薇はすべてを浄化するかのような清らかな流れにただただ酔いしれた。
しかし主はそうは思わなかったようだ。慌てて手を離すと、今度は気遣うように抱きしめてくる。
「もうよい。わかった。……泣くな。お前が泣くと俺はどうすればいいかわからない」
「…………はい」
薔薇は、もう眩しさを感じない。盲目の環姫は、しかし誰しもが見落とすいちばん大切なものを見た。己が光となれば、太陽の中にいてもその目を焼かれることはない。どれほど暗い夜でも、愛しい星を見つけることができる。
そうしてその星に、駆けてゆくことができる。
了




