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短編集

菊と太刀魚

作者: 孫 遼


 私が君に教えてあげられる有用な事はたった一つ、この時期に馴れ馴れしく喋りかけてくる人間には絶対に反応しちゃいけない、それだけだ。


 彼らは君たちの気を引く手段を選ばないだろう。闇の中に急に現れたり足音を立てたり、ありとあらゆることをするだろうが、返事はもちろん目を合わせることもしてはならない。


 私の言っていることの意味がよくわからない? それはおめでとう、幸運の星の元に生まれたことを感謝すべきだ。


 何故ならあいつらの対処方法を熟知している私でさえ、不意打ちを食らう瞬間があるのだから。


 たとえばプライベートな空間に唐突に踏み込まれる。そう、まさに今の状況のようにね。


 あいつらにもある程度の分別というか礼儀というものはある、だからトイレまで踏み込んでくるのは余程稀なケースだ。


 だが、彼は特別だった。私がトイレで用を足している時に(失礼、でも事実なのだから仕方ない)扉の向こうから頭を突き出すようにして入ってくると私の顔を覗き込んだ。


 近い。どのぐらい近いかというと、それはもう、唇が触れるほどに近い。


 その男性は童顔で、一般的に見れば整った顔立ちの方ではあった。だが私が初対面の人間に許せるパーソナルスペースの限界はせいぜい30センチといったところだ。ましてや吐く息はトロ箱に顔を突っ込んだ時のあの臭いがする。


 生理的嫌悪を催した私は顔を背けるしかなく、彼はそれによって私が彼の存在を『視界に捉えている』ことに気づいたらしい。


「あなた、視えますね」


 私は洋式便所に座ったまま、大きくため息をついた。


 本当にこの時期は油断も隙もあったもんじゃない。こんなことなら早めに墓参りに行っておくんだった、週末に時間はいくらでもあったじゃないかーー


「少し離れてもらえますか」


「ああ失礼」


 彼はするりと横に移動すると、一度壁を抜けて顔だけをこちらに出した。


「ここは狭いですね」


「単身者用のマンションですから」


 やれやれ。都内の駅近、バストイレ別という条件で探すと、これでもまだましな部類に入るという不動産相場から説明すべきだろうか。


 それにしても自分の家のトイレで本当に良かった。彼がもし、スクランブル交差点や、公園や、駅のホームなんかで話しかけてこようものなら、何もない空間に話しかけているというその異様な絵面を大衆の目前に晒すことになる。


 別に他人にどう思われたところで気にしないが、私の頭が大丈夫か大丈夫じゃないかを他人に心配されるのはあまり愉快じゃないな。


「で、ご用件は?」


 この質問は悪手だ、悪手すぎる。自分で言っていて呆れてしまう。


 こいつらが現世の人間に何かをしてもらえるなんて気付こうものなら、ひどい要求を出してくるに違いないのだ。たとえば一緒に三途の川を渡ってくれとかね。


 金はあの世に持っていけないと言うけれど、三途の川の渡し賃ぐらいは、持たせるべきだと思うよ。信仰がどうとかのレベルじゃない、あの世にだって経済はある。


「いやすみません、用事は特になかったんです。たまたま通りがかったもんで」


 本当にそうだろうか。これでも彼らの『道』にはかち合わないように、散々間取りを気にして選んだ物件なんだけど。特に水回りには今でも神経を使っているし、霊道に使われないよう定期的に塩をまいている。


「そうですか。ではお引き取りいただけるとありがたいんですがね。ご覧の通り、用を足しているので」


 私はそういうと、彼のお腹のあたりにあるペーパーホルダーから、紙を30センチほど引き出した。


 彼は興味深そうにしげしげとそれを見つめると、私の方に顔を向けた。


「あの、一つだけよろしいですか」


「ええ、まぁ一つだけなら」


 私はしぶしぶそう答えたが、彼らの要求だけが一つであった試しがない、そもそも彼らに単位という概念はない。試験も何にもない。だから諦めるしかない。


「僕、たぶん魚屋だと思うんです」


 そういうと、彼はするりと壁から出刃包丁を持った腕を出してきた。


 これが他の人間ならば、悲鳴の一つもあげるところだ。


 だが私はこういう事態には慣れてしまっている。ビルの間から覗く頭の割れた顔や、線路を走っていく足だけの姿が日常茶飯事なら、出刃包丁を持つその男に危機感を持つ理由はない。


 私は内心で、あいわかったと返事をした。


 この人たちの要求にはいくつかのパターンがある。


 『承認欲求』――つまり、僕のことを見て! 話を聞いて!と訴えかけてくるパターンだ。そして『未練』――この世に何かやり残したことがあって、協力者を探している。


 現時点ではどちらか判断がつかない。しかたなく私は彼の話を聞くことにした。


「僕は毎日アジやサバをさばいてたんです。鱗を取ったり、三枚に下ろしたり。けっこう楽しい職場でした。人と話さなくて済むので。でもある日うっかり指を落としてしまったんです」


 そう言うと、彼は壁から反対の手を出してきた。甲を差し出すようにーーちょうど婚約会見の芸能人のように。


 その先には確かに小指がなかった。私は眉を顰めてその痛みを想像した。


「お気の毒に、痛かったでしょう」


「はい、それはもう気の遠くなる程に」


「その指を探して欲しいと。そういうことですか」


「探す?」彼は意外という顔をした。「いえ、探さなくてもいいんです、きっと見つからないでしょうから。ただね、小指を失ったせいで色々トラブルに巻き込まれまして」


「まぁあり得ない話じゃないですね。失った場所が場所だけに」


「はい。ある日、一撃でやられました。後ろから」


 なるほど。殺されたのか。


 自分が死んだことすら自覚がないタイプが多いけど、この人の生前の記憶は意外にしっかりしているみたいだ。顔もきれいだし、家族に丁重に弔われたんだろうな。


「僕も応戦しましたが、まぁ不意打ちですし、相手も刀の扱いには慣れているみたいで。無理でしたね」


「それはそれは」


「で、僕が最後に作った刺身……美味しかったですか?」


 ……ああ、そういうことか。あそこのスーパーの店員か。


 私は冷蔵庫の中の半額になった刺身を思い出す。


 私が毎日魚を買う理由に思い当たってここに来ているのだとしたら良い勘をしている。


 こんな体質だからね、あまり肉は食べられないんだ――。


「あなたの捌いた魚は、私の生命線でしたよ」


 彼は得意気に笑った。


「それは良かった」


 トイレから出た私は手を洗うと、冷蔵庫から半額の刺身を取り出した。醤油を小皿に刺すと、薄く切られた刺身を箸でつまんで口に運ぶ。


 ガリッ。


 嫌な感触がして、おそるおそる口からその固いものを取り出すと、それは鈍く光る金属の欠片。


 銀歯だろうか。いや違う、これは……刃物だ。


 彼との会話を反芻してみる。小指を失った魚屋。霊界の常識からずれた言動。あれの正体に気づけないとは、私もまだまだだ。


 ああ、先祖が聞いたら何と言うだろう。また谷中墓地で正座に説教か。ぞっとする。


 しばらく考えて、玄関に生けてあった菊を一輪ハサミで切ると、ツマの横に添えた。


 彼との最後の会話を思い出す。


「この時期のオススメを教えてもらえますか」


「タチウオですね。鱗を処理しなくていいので楽です。あまり年間通して味は落ちませんが、強いていうとこの時期が産卵期で一番うまい気がします」


 残念ながら目の前にあるのはアジの刺身だ。次回はタチウオを探してみようか。


 私はいただきます、と手をあわせると今度こそそれを食べ始めた。


(了)

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