ep16・『コウくん』。
ブクマ評価感謝です。
――十年前。
俺が――《コウ》と呼ばれる人間が小学校に入る、少し前。
「少しは家のことも手伝ったらどうなの!?」
「五月蠅いなぁ。こっちは仕事で疲れてるんだ。一日中家にいるんだからそれぐらいはやってくれ」
「それくらいって何!? こっちだって大変なのよ!」
「だからなんだよ。俺だって大変だって言ってるだろ!?」
俺の家に響くのは、両親が喧嘩をする声だけだった。
父はエリート社員で母は専業主婦。生活には一切困らない、裕福な家庭が俺の家だった。
でも、父はいつも仕事で忙しく、帰らない日もまちまちで。
だから母との言い争いは絶えなかった。
あとになって思うと。
二人は別に嫌い合っているわけじゃあない。
両親を取り巻く環境が悪いだけなんだって。
けれど当時の自分にはそんなこと理解できなくて。
ただ部屋の隅で耳をふさぐことしかできなかった。
父と出掛けた記憶はほとんどない。
いつも仕事仕事と言って土日でも関係なく働いている。
休みの日はいつも母と一緒だったけれど、母も父に会えないことが寂しかったからだろう。言葉を交わすことはほとんどなかった。
そんなある日――確か、クリスマスが近かった気がする。
その日、父が休みを取り、久しぶりにみんなで出かけようと言う事になった。
「コウ、何処に行きたい?」
いつも見せない優しげな表情を父は浮かべていた。
正直何処でもよかった。
家族三人で過ごせるなら、それこそ家で遊ぶだけでもよかった。
でも、強いて言うなら……と、俺は人生で初めて彼らにお願いした。
「すいぞくかんに行きたい!」
理由は、何だっただろう。
テレビで見た魚特集とかそんなだった気がする。
口にした瞬間、二人は目を丸くして、お互いに顔を見合わせていた。
「そっか、まだ連れて行ってあげたことが無かったか……。よし、行くか!」
意気込む父を横目に見つつ、母が俺の頭を撫でる。
「コウはお魚さんに興味があったの?」
「うん!」
「将来はお魚博士だね!」
そうして向けられる笑みは、俺が見た中で一番温かい物だった。
でも、俺はその日を後悔する。
何で水族館にしたのだろう。
別の場所なら、別の日なら……って。
一生、後悔する。
†
『それ』が現れたのは、夕方だった。
両親と一日中水族館で遊び倒した後、お揃いのイルカのキーホルダーを買って、手を繋いで歩いている時だった。
最初に聞こえたのは足音だった。
物凄い勢いで、誰かが近付いてくる。
それに気づいた俺達は揃って振り返り――眼前を鮮血が舞った。
鮮血の出処は、母であった。
黒のレザージャケットを羽織った、恐ろしい形相の男が、母の腹部を包丁で貫いている。
「あああぁぁぁあああ――ッ!!」
激痛に耐えかねた母の絶叫が、鼓膜を引き裂く大きさで響き渡る。
だが、関係ないとばかりに男は包丁を抜くと、今度は脇腹を刺す。
「……死ねよ、死ねよ、死ねよ。マジで死ねよ。クソが、クソ共が。殺す殺す、全員殺す」
呪詛の様に何事かを口にする男は、いつの間にか静かになった母から包丁を抜いて、俺に切っ先を向けてくる。
滴る血液が、血だまりの足元に落下した――刹那。
「コウ!」
父が俺を守るように抱きしめ、同時に「うぐっ」と鈍い声を漏らした。
「お、とぅ、さ……」
訳も分からず、ただ呻く父に抱きしめられる。
でも、次第にその体から力が無くなって行く。
父は俺にもたれるように、自重を預け、俺は生暖かい液に触れながら下敷きになった。
這い出ると、男は別の人を襲っていて、そして周りの大人の男の人に押さえつけられていた。
俺は視線を両親に映す。
父の背中は穴だらけであった。
十以上の傷跡。
母も動かない。
二人とも、ピクリともしなかった。
「……」
パキッ――と、何かが壊れる音がした。
目をやると、父と母のキーホルダーが、落ちた衝撃なのか、犯人が踏んだのか。
理由は定かではないけれど――ひび割れて砕けていた。
俺がそれを拾い上げると、キーホルダーは完全にばらばらとなった。
「……」
動かない二人を見て……俺は、気を失った。
暗い、暗い世界。
誰もいない、何も信用できない。
後悔と、恐怖で身が凍る世界。
何でこうなった。
どうしてこうなった。
俺はただ、楽しい家族でありたかっただけなのに。
怖い。怖い。
もう親しい人が傷つくのを見たくない。
好きな人たちが悲しむのを見たくない。
誰かが苦しむくらいなら、俺が代りに苦しんでやる。
でも、そんな力は俺には無くて……。
だから思わず、願ってしまう。
……誰か助けて。
と。
――くん。
不意に、声が聞こえてきた。
どこか聞き覚えのある、優しい声音。
――う、くん。
甘い誘惑。
俺は誘われる昆虫が如くその声へと向かい手を伸ばして……。
「コウくん!」
暗い世界から意識が覚醒した。
†
「コウくん大丈夫!?」
最初に視界に入ったのは可愛らしい一人の少女の顔。
その表情は心配そうに歪んでおり、原因が自身であると理解すると、僅かに胸が痛んだ。
「マヤ、ちゃん……?」
「コウくんがうなされてたから……凄い汗」
マヤちゃんは懐からハンカチを取り出すと、汗を拭ってくれる。
「ごめん、ありがとう。洗って帰すよ」
「いいよいいよ。それより、大丈夫?」
言われて、俺は今更ながらに周囲を見渡して状況を確かめる。
白い天井とカーテンで区切られたわずかな空間。
ここは保健室のベッドの上か。
水族館が話題に上ったため、気分が悪くなってそのまま寝たんだっけ。
「もう、大丈夫だよ」
これは嘘だ。
本当は、いますぐにでも家に帰りたい。
気分は全不調。
家に帰って泣き叫びたかった。
でも、そうなればマヤちゃんは心配するだろう。
それは申し訳ない。
だから嘘を吐く。
なのに、マヤちゃんは淡々とした様子で切り返した。
「嘘」
「え?」
「コウくん嘘つかないで。私に嘘吐かないでよ……」
俺の手を握りつつ、俯いてしまうマヤちゃん。
「嘘なんて……」
「大変な時くらい私を頼ってよ。彼女なんだよ? 私コウくんの事なら何でも受け止められる。何があってもコウくんの傍に居るし、居たいよ……」
「……マヤちゃん」
マヤちゃんを見つめると、彼女も顔を上げて視線が交わる。
「私、コウくんのことが好き。だから、もっと私を頼って、ね? 力になりたいの」
「……ありがとう」
こんなの、卑怯だ。
「私がコウくんを助けてあげるから、ね?」
マヤちゃんは、本当に俺のことを知っている。
俺のことを理解してくれている。
「ずるい」
「……え?」
今度はマヤちゃんが困惑の表情を浮かべていた。
でも、関係ない。
俺はベッドから身を乗り出して、マヤちゃんの頬に手を伸ばすと。
「……好きだ」
彼女の唇を自分の唇で塞いだ。