46.誰が好き好んで
ヨアキム・フルトクランツは、フルトクランツ侯爵家の長男で、十六歳から十八歳までの間、父の友人の娘エドラ・ラーゲルフェルトの婚約者だった。六歳年の違う婚約者を、ヨアキムはそれなりにかわいがった。まあ、妹に対するように、であるが。
当時、帝国に留学に出ていたヨアキムは、十八歳のころに帝国での勉強を終えて帰国するはずだった。はずだった、と言うのは、帰国できなかったと言うことである。帝国から大陸の外側を船で回り、ニヴルヘイムに入るはずだったのだが、船が難破したのだ。
捜索はされたが、難破船は見つかることはなかった。乗組員は全員、死んだと伝えられた。ヨアキムもそうだ。彼は、たったの十八歳で冥府へと下ったのだと言われた。知らされた当時、エドラは十二歳、レンナルトは十六歳だった。
それが、どうやら生きているようだ。
死んだと思っていたから、詳しく調べたことがなかったが、今のエドラの権限があればいくらでも調べることができる。
「……あれはやっぱり兄さんだったんだろうか」
レンナルトのつぶやきに当時の資料を読んでいたエドラは彼の顔を見た。何となく、彼が深刻な表情をしていると何となく調子が狂う。一応同じ会議室にいるアルノルドも何となく居心地が悪そうだ。その他同席者もエドラをちらちらと見てくるので、彼女は冷静に言った。
「少なくとも、私にはそう見えたわね」
死に別れた……と思ったとき、エドラはまだ十二歳だったが、さすがに幼いころからよく顔を合わせた人物の顔を間違えるとは思えない。似ていただけでは? と言われるとちょっと自信はないが。
「あなたには、自分の兄には見えなかった?」
「……そう、だね。死んだと思っていた」
葬式もしたし、埋葬もした。まあ、棺桶の中身は空なのだが。墓もある。
「……だけど、私もあなたも遺体を確認したわけじゃないわ」
「……」
レンナルトが沈黙した。エドラの発言のせいであるが、居心地の悪い空気になってしまった。
エドラたちは、ヨアキムの死をその目で確認したわけではない。と言うことは、生きていても不思議ではないと言うことだ。戦場ではよくそういうことがあった。お前、生きてたの、みたいなことが。
「何があったかは知らないけど、ヨアキムは死んだように見せかけて帝国に渡ったんだろうね」
「……さっきから思っていたが、何故帝国だと言いきれるんだ?」
アルノルドが口を挟んできた。この凍りついた空気の中なかなか根性が座っている。
「話している言葉が帝国語でした。それに、魔法に頼らない銃器火器と言えば、帝国ですからね」
エドラは資料を机に置いて言った。レンナルトが眉を顰め、ため息をついた。
「何故兄さんは、僕たちに何も言わずに帝国に渡ったんだろう」
「わかってるじゃない」
年上の恋人に対して、エドラは上から目線だった。一度、爆発させるべきだと思ったのだ。
「あんたは自分の兄と戦わなければならないと言うわけだね。ヨアキムが帝国側に付いたのなら」
「エドラ!」
アルノルドが小さくエドラの名を呼ぶ。グレーゲルやヴィリアムもいるが彼らは黙って様子を見ていた。
「……まだ兄さんが敵対していると決まったわけじゃない」
「くどいわね。あの巨人、ひきつれていたのはどう見てもヨアキムだったでしょ。そもそも、生きていたのならなんで家族であるあなたに便りも何もなかったのかしらね。海難事故と言うものは、偽装死亡の常套手段だってわかっているでしょう?」
「……」
エドラは立ち上がり、レンナルトの前に立つとその頬をはたいた。かなりいい音がして、凍っていた空気が砕けた感じがした。
「エ、エドラさん……?」
アルノルドが怯えたようにエドラを呼ぶ。ぼそっと「ご乱心」とつぶやいたのはヴィリアムだろうか。
「いい加減にしなよ。帝国に与していてもいなくても、ヨアキムは私たちに対して敵対行為を取ったわ。だとしたら、こちらが友好的な態度をとることはできない。私はもう決めたよ。あんたも決めなよ」
右手でレンナルトの襟首をつかみ、しかし、静かにエドラは言った。しばらく淡い紫の瞳とアイスグリーンの瞳はにらみ合ったが、やがてレンナルトは立ち上がると静かに会議室を出て行った。張りつめていた空気が緩み、エドラは机に手をついた。
「はあ……」
「うん。お前はよくやったよ」
グレーゲルがエドラの肩をたたいた。エドラはうなだれたまま額に手を当てる。
「……もう帰っていいですか」
「さっきまでの気迫はどうしたんだ」
アルノルドがかなり引いた様子で言った。エドラだって好きでこんな引かれるような言動をしているわけではない。すごく情緒不安定な人みたいだ。
「……誰が好き好んで恋人を論破しますか」
「お、おお」
エドラは先ほどまでレンナルトが座っていた椅子に座りこむと机に肘をついて組んだ指に額を乗せた。わかりやすく沈んでいるポーズである。
「なかなか可愛らしいことをするじゃないか、エドラ」
半笑いで言ったのはベアトリスだ。ずっといたのだが、ずっと黙っていたのだ。
「ずっと黙っていたくせに何を言うのよ」
「ああいうのは近しい人間に言われるから効果があるのだよ。私が言ったところで、どうにもならない」
「……」
エドラはもう一度ため息をついた。
現在、襲撃者たちの資料をまとめており、対応策を考えていたのだが、エドラは立ち上がると言った。
「ひとまず会議は終わりですよね。戻ります」
「ああ。気の毒な連隊長を回収して行けよ」
「……了解」
グレーゲルに言われ、エドラは気が進まないながらうなずいた。この状況で、近衛の長を気落ちさせたままにすることはできない。
エドラはひとまず会議室を出たが、レンナルトはどこへ行ったのだろうか。ひとまず目撃証言に従って移動した。宮殿に働くもので、レンナルトの顔を知らない者はほとんどいないだろう。目立つし、容姿のいい者は男女を問わず話題に上るものだ。
そんなことを冷静に考えているエドラも、レンナルトと合わせて美男美女カップルとして話題に上ることが多いが、それは今は関係ないだろう。
ひとまず、バルコニーでレンナルトの姿を見つけたが、何を言えばいいのか。しばらく逡巡したエドラであるが、やがて歩み寄った。
「レン」
単純に名を呼ぶことにした。聞こえているだろうに、レンナルトは振り返らない。やはり、エドラの言動が気にくわなかったのだろうか。まあ、エドラだったら腹を立てる。確実に。
「……謝らないわよ」
「……わかってるよ。君が言ったことは正論だ……正論が、相手の心に響くとは限らないけど」
ちくりと嫌味を言われてエドラは「わかってるわ」と自分も答える。レンナルトの隣に立ち、バルコニーの手すりから外を眺める。
「私が言われたら、絶対に腹が立つもの」
「……はは」
レンナルトは力なく笑った。
「君に言われるまでもなく、僕にもどこかでわかっていたんだ。兄が、もう、僕らと融和を図る気なんてないって」
エドラは手すりに頬杖をつき、レンナルトの横顔を眺めた。むかつくほど整った顔だ。
「でも、覚悟ができていなかった。兄さんの言うとおりだ。君の方が覚悟が決まっていたね」
「……私の場合は、わりきりに近いかな。戦場では、昨日の友が今日の敵、なんてことがよくあったからね」
「そうか……」
レンナルトは小さくつぶやいた。エドラは姿勢を正すと、苦笑を浮かべて言った。
「まあ、あなたには災難よね。私なんかに兄と戦えって言われるんだから」
そりゃ気分も悪くするわ、とエドラが言ってのけると、レンナルトは「君も関係あるでしょ」と言う。
「兄は、君の婚約者だった」
「九年も前の話だわ。それに、私はまだ子供だったしね」
そう。十二歳だった。しかし、レンナルトは「それもだけど」と顔をゆがめる。
「もしかして、兄が好きだったんじゃないかなって」
「……はあ?」
エドラは本気で意味が分からない、と言うように首をかしげた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
軍隊的にいうと、エドラは現場叩き上げ。
レンナルトは士官学校を卒業したエリート。
くらいな気持ちです。