35.サディストって言われるんだよ
エドラは、一度ラーゲルフェルト伯爵家へ戻ることにした。マリーはこのまま宮殿に置いていく。屋敷に戻してもいいが、今は移動しない方が良いだろうと考えたのだ。
マリーには王太子の恋人として、宮殿からフェストランド大公家に行ってもらう。屋敷にいる母と弟には、屋敷から出ないようにしてもらわねば。ただし、屋敷の中にスパイがいる可能性があるので、エドラが一度様子を見に行くことにしたのだ。
廊下を速足で歩きながら懐中時計を確認したエドラは、人通りの少ない廊下の角を曲がり、その壁に寄りかかってため息をついた。そのままずるずると座り込む。
カーリンは無事だろうか。怖い目に合っていないだろうか。まあ、うちの兄弟で一番小心者なのがフランで、カーリンも見た目に寄らず図太いから大丈夫かもしれないが……。
カーリンの誘拐犯はサムエル王子だろう。彼はよほど、エドラのことを腹に据えかねているらしい。あの戦争での総指揮官はフェストランド大公グレーゲルだったのだが、どうやら彼は、自分の目の前に現れて自分を窮地に追い込んだエドラを復讐の相手として選んだようだ。
その心理は理解できないものではないし、やはり、エドラがおごっていたことがこの状況の原因だと思われた。自分の安易さに腹が立つ。
「ああ、やっと見つけた。エドラ」
「……なんでわかったの」
声で誰かがわかったため、顔も上げずにエドラは言った。衣擦れの音がして、エドラの前に膝をついたのはレンナルトだった。彼はエドラの頬に手を添えると、無理やり彼女の顔を上げさせた。
「人がいなさそうなところを探し回ったんだよ。君の行動範囲内でね。君が落ち込むのなら、絶対に人目につかない場所で落ち込むと思ったから」
「……」
よくわかっていらっしゃる、と思った。少しむくれたエドラにレンナルトは微笑んだ。
「うん。君は気持ち悪いって思うかもね。でも、これくらいしないと、君は一人で、泣くことすらしないだろう?」
「何を……」
言いたいの、と続けるはずだったが、続かなかった。レンナルトに抱きしめられたからだ。
「ちょ……っ」
放して、と自分を抱きしめる男の体を押しやるエドラだが、逆にぎゅっと抱きしめられた。彼の手がぽんぽんと背中をたたいてくる。
「泣いてもいいよ。疲れただろう?」
再び何を言っているの、とつむがれるはずだった唇は開かれたが、音にはならなかった。代わりに嗚咽が漏れた。
泣いてもいい、と言われた瞬間に、自分は泣きたかったのだ、と理解した。彼の言うように疲れてもいた。それでも。
助けに行かなければ、カーリンを。
「……たしの、せいだ……」
「ん?」
自分の肩にエドラの顔を押し付けて頭を撫でていたレンナルトが、エドラの判然としないつぶやきにレンナルトは首をかしげる。エドラは彼の背にすがりつき、絞り出すように言った。
「私のせいだ……私の家族に累が及ぶなんて、考えもしなかった……私が甘かった。自分がこれほどに恨まれているなんて、思いもしなかった……!」
考えてみれば、エドラが王国騎士団員の一人で、命令に従って多くの人を犠牲にしてきた。彼女は騎士として優秀であったが、一個人としてはどうだろう。
「私のせい……私の、せいなの……」
「……そうかもしれないね」
否定してもらいたかったわけではないと思うが、レンナルトの肯定の言葉はエドラの心に強く響いた。
「でも、まだ間に合わないわけじゃない。君のせいじゃないと言うのは簡単だけど、君のせいであっても、まだ取り返しのつかない事態にはなっていないんだよ」
優しい声音で紡がれる言葉に、エドラは次第に心が落ち着いてくるのを感じた。不思議なもので、吐き出してしまえば少し楽になったのである。
いつだったか、これもレンナルトが言っていた。頼れるところは頼らなければ、と。意味が分かった気がした。一人で背負いこみ過ぎると、どうしようもなくなるのだ。
聞いてもらうだけでもよい。実際に、助けてもらわなくてもいい。側にいてくれるだけでもいいのだ。
父が亡くなり、図らずしてその役割を担うことになったエドラは、気負い過ぎていたのだろう。もっと、人に頼ってもよかったのだ。
涙が止まってきたエドラは、一時期の感情の嵐が過ぎ去ると、この状況……つまり、レンナルトにすがりついている状態が恥ずかしくなってきた。剛毅と言われる彼女にも、羞恥心くらいは存在する。おとなしくなったエドラに、レンナルトが顔を覗き込むようにして尋ねる。
「落ち着いた?」
「……まあ……」
顔を伏せたままエドラがもごもごと言う。恥ずかしがっていると察したのだろう。レンナルトがグイッとエドラの顎をつかんで顔を上げさせた。目元を赤くしたエドラを見て、レンナルトが微笑んだ。
「……だからお前、サディストって言われるんだよ」
「いやあ、珍しいからね」
悪びれずに言うレンナルトであるが、彼はエドラの目元に手を当て、治癒魔法で泣き痕を隠してくれた。
「……ありがとう」
泣き痕を隠してくれたことに対する礼か、それとも、彼女を受け止めてくれたことへの礼か。たぶん、両方だろう。
先に立ち上がったレンナルトが、エドラの手を引っ張って立たせる。レンナルトは優しい表情でエドラを見下ろして言った。
「泣いたら、落ち着いたでしょう」
「……そうね。少し、すっきりしたわ」
エドラは目を細めてレンナルトを見上げたが、すぐに表情を引き締めた。
「さっきも言った通り、私はこれから一度屋敷に戻る。そのままカーリンを助けに行くから、悪いけど、マリーのことも気にかけてもらえるとうれしいわ」
「君からの頼みごとなら、喜んで」
と、レンナルトは飄々と、からかうような調子で言ったがエドラはスルーした。
「あと、エーミルさんを借りていくけど、本当にいいの?」
「うん。役には立つと思うよ」
「まあそうでしょうけど……本当に、どうなってもいいのね?」
妙なエドラの念押しに、レンナルトは目を細めて薄く笑った。
「そうだね」
「……」
敵に氷の魔女と呼ばれたエドラが戦慄した。彼女は、レンナルトを見た目通りの優しい男だとは思っていないが、自分の推察が当たっていたからと言って別にうれしくはない。
切り替えるために、エドラは息を吐いた。こちらも冷静な魔法騎士の目に戻る。
「では、お借りすることにするわ」
「うん、そうして。そう言えば、カーリンの居場所に目星はついてるの?」
レンナルトはふと思い出したように尋ねたが、エドラはしれっとのたまった。
「それは、これから口を割らせに行くわ」
さらりと恐ろしいことを言う女である。でも事実は事実だ。
「じゃあ、その、行ってくるわ」
なんと言えばいいのかわからず、ありきたりな言葉を吐いたエドラに、レンナルトは微笑んでその頬にキスをした。
「武運を祈っているよ……」
「……それって、普通、私のセリフだと思うのだけど……」
「え、祈ってくれるの?」
嬉しそうに顔を輝かされると、「否」と言いたくなるあまのじゃくなエドラである。しかし、マリーのことを頼むのだし、少しくらいはいいかな、と妥協することにした。
少し背伸びして頬に触れるか触れないほどのキスをした。すぐに離れる。
「無事を祈っているわ。……お互いのね」
そう言うとエドラは踵を返した。時間がないことを思い出したのではなく、ただ、少し、恥ずかしくなっただけだった。
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