中学生四人が鬼ヶ島に迷い込んでしまった件
「高校生四人が鬼ヶ島に迷い込んでしまった件の事後報告(聴取有り)」を童話祭参加のために、登場人物の設定をを中学生に変え、一部加筆修正したものです。主に、登場人物の年齢を変えて、児童向けにしただけですが、自分で読み直してみると、こっちのほうが、しっくりくるような気もしました。なので、お時間頂けましたらお読みくださいますようお願いいたします。<m(__)m> 村上ガラ
10月6日午前7時半。
武田麻理恵はその時通学途中だった。
麻理恵の住む、この地方は、もう10月と言っても、今日はまだまだ残暑と言っても良いほどの暑さだった。この地域では制服の衣替えも10月1日から、と厳しく決められるわけでなく、一応の線引きはあるものの、各自の判断にゆだねられるところも大きかった。ここのところ、秋らしい涼しい日が続いていたが、今日は一転してこの暑さ・・・気候の変わる時期の、その日々の天候の不安定さも、それに拍車をかけていた。学校の制服も、今の時期は、夏服冬服、そして冬服のジャケットだけをとった合服の生徒が入り混じっていた。
麻理恵は中高一貫校の私立理文館学園の中等部に通っている中学2年生だ。理文館はこの地域では随一の進学校で、中高一貫校ならではの先取教育を行っている学校だった。
麻理恵は、美少女だった。身長は高いほうではなかったがバランスの良い体形で、輪郭のきれいな小顔はつややかな色白で、鼻筋の通った形の良い鼻、引き締まった口元を持ち、特に茶色がかった大きな瞳が印象的だった。
今日、麻理恵は合服で登校していた。麻理恵の母親は『衣替えは10月1日』の意識が捨てきれず、麻理恵は、今月初めから合服を着せられていた。仕方がない、と麻理恵はあきらめていた。私服はともかく、制服の管理は、母親に任せているのだから。
いつも登校するのはギリギリだが今日は違った。昨日同じクラスの川本良太に「明日、話したいことがある。授業の始まる前に教室で。」と呼び出されていたので、そういうことには律義に答えると決めている麻理恵は早起きをして、今この道を歩いていた。
たぶん告白されるのだ。誠心誠意、友達でいたいと伝えるつもりだった、いつものように。
頻繫に告白されることについて麻理恵は、ありがたいことかもしれないが、正直言うと、めんどくさいことだなあ、と思う気持ちが強かった。自慢でも、ひけらかしでもなく。告白してくる男子は、麻理恵の容姿しか見ていない人ばかりで、付き合っても長続きしないことは目に見えていた。
いつもの道だった。だが、少し眠かった。早起きのせいもあるが、昨夜はまるで夏が戻ったような暑さで、よく眠れなかったからだろう。加えて、この時刻ですでに、長袖のブラウスの上に重ねたニットのベストが暑苦しく、不快で、集中力を欠いていた。学校についたらベスト脱ごう・・・、麻理恵はそう考えながら ボブの髪をかき上げ小さなあくびをした。時間を確かめるため、スマホを手にしたときに眠さと暑苦しさののせいか少し手元が狂って地面に落としてしまった。道路の真ん中近くに転がったそれを拾おうとしてかがんだ麻理恵に、右の角を曲がってきたトラックが、麻理恵に気づかず迫ってきた・・・。
新藤司はその時、学校の屋上にいた。
司はこの理文館でもトップクラスの成績を常に保ち、その上、高身長で、細面の整った顔立ちで、知的な涼しい瞳を持ち、日課にしているランニングのおかげで体幹も鍛えられていた。
司も、ここ2、3日続く早朝の涼しさに合服を着用していたが、今日はベストはいらないな、とこの時刻から思われた。
司は朝のこの時間、一人で屋上から遠くに見える海を眺めるのが好きだ。心がしん、と静かになり、進路の悩みもその時だけは忘れられるようだった。
司はいつものように、屋上の外側への出入り口である、鍵のかけられた扉の前に立っていた。たぶん、清掃の際にだけ使用されるその扉の所だけフェンスが低く、金網越しで無い、外の景色を自分のものにできるのだった。
だがその日はいつもと違い、一年生らしい女子の集団がバレーボールを輪になって打ち合っていた。いつもの静けさは今日はなかった。それで、司は場所を移そうと、フェンスの下のほうにかけていた右足を外した。一瞬体が不安定になった。
ちょうどその時「アターック!」という声がしたかと思うと大きな衝撃が司の頭に起こり司はフェンスを越えて前のめりに倒れることとなった。女子生徒たちの悲鳴を聞きながら・・・・。
池辺拓斗はサッカー部員の中でも小柄なほうだったが、その技術力でチームを勝利につなげる重要なメンバーだった。
拓斗はその日、他県で開催されるサッカーの遠征試合で前日よりその地のホテルに宿泊していた。学校は公欠扱いとなる。堂々と今日は英語の授業がさぼれる、と拓斗はひそかに喜んでいた。拓斗は英語が苦手だったのだ。
遠征先でも朝練は欠かさない。学校指定のジャージ姿で朝食前にサッカー部のメンバー全員でホテル近くの川沿いをランニングしていた。その時「誰か、誰か、助けてください!」女の人の悲鳴に近い声がした。見ると、川に小さな男の子が落ちて、おぼれかけていた。拓斗は迷わず、飛込み、男の子を岸へ押し上げたが、そこで強い胸の痛みに襲われ、這いあがることができなくなり、ずぶずぶと、川に沈んでいった・・・。
中山祐奈は自分の部屋にいた。祐奈は、小柄で細く、色白で、おとなしい子だった。いつも肩の下まである髪を自分で編み込みにしていた。今朝はその色白の顔がいつもより、一層白く、むしろ青ざめていた。
祐奈は迷っていた。
・・・昨日、足のギプスが外れてしまった。母親は早起きして弁当を作ってくれていた。階下からただようにおいでそれはわかった。きっと、ひさしぶりの学校だからと、張り切って可愛く作ってくれただろう。制服には着替えた。母親は前日から「季節が変わっちゃったわね。」と言って合服の用意をしてくれていた。
学校へ行くなら、もう、部屋を出て一階へ降り、顔を洗って朝食を食べなければならない。いつまでも降りていかなければ母親が不審に思って、二階のこの部屋へ上がってくるだろう。もう時間がない。
祐奈は覚悟を決めた。椅子の上に立ち、ロフトの手すりにかけたロープの輪へと頭を通し、体重を預け、椅子をけった・・・。
「ここ、どこ?」
最初に声を出したのは麻理恵だった。気づくと自分と同じ学校の制服を着た男女二人とジャージ姿の男子一人、だが顔は初めて見る人たちと一緒に、野原の中に寝ころんでいた。
ほかの三人も次々と目を覚まし、不思議そうにあたりを見回していた。
「理文館学園の制服だよね・・・。」
次に口を開いたのは拓斗だった。拓斗自身はジャージ姿だったが、学校指定のものだったので、ほかの三人も警戒を解いた。麻理恵は、まず自分から名乗ることにした。
「あたし、2年8組の武田です。武田麻理恵。あなたは?」
「俺は2の4の池辺。池辺拓斗。」
君らは?と拓斗に促され、司と祐奈も自己紹介した。「2の1の新藤司。」「1の6の中山祐奈です。」祐奈は辛うじて聞き取れるような小さな声で答えた。
祐奈だけが一年生だった。
周りは見慣れぬ風景だった。あたり一面緑に覆われ、随分田舎のようだが。
皆、何か違和感を感じていた。祐奈が口を開いた。
「電柱、無いですね。」
確かにそうだった。いつでも、どこでも私たち日本人のそばにあるはずの電柱がない。そして田舎なら必ずどこかに見えるはずの鉄塔も、無い。
それに加えて・・・四人が感じる最大の違和感、・・・とても静かだった。
「車、走ってないのかな。」麻理恵がつぶやいた。
「今、何時なんだろ。」拓斗は、スマホを見ようとポケットを探して、ホテルの部屋に置いてきたことを思い出した。
「多分お昼近いかもしれませんね。」祐奈が言った。「太陽が真上に来てますから。」
「コンビニか何か探そうか。とにかく人を探そう。」拓斗が言って立ち上がろうとしたその時、すぐそばの茂みから、石が飛んできた。
「わっ!」「え!」「きゃあ!」「なにっ!」しばらく四人の上に石礫が飛び続けた。四人はみな自分の頭を必死に守った。石礫がやんだかと思うと、茂みから十数人の人間が飛び出てきて、四人は押さえ込まれてしまった。あっという間に四人は捕まり、縄をかけられてしまった。縛り上げられて、身動きもとれないまま、襲ってきた者たちを見ると、彼らは皆、時代劇のような、だが見たこともないくらいぼろぼろの着物をまとっていた。
四人は縛られてどこかの小屋のような建物の前に座らされた。
しばらくすると少し身なりの好い老人が現れて家の縁側のようなところに座って、四人のことをじろじろと嘗め回すように見た後、「あいつらの仲間か。」と言った。
「あいつらって誰ですか。」麻理恵が答えた。老人はそれには答えず、「珍奇な格好をしておるのう。」と言って縁側から降りて四人のそばに立って見下ろした。そして
「恥ずかしいと思わんのか。おなごがそのように足をだすなぞ・・・。」と言った。
麻理恵は「いえ、・・・制服ですから・・・。」と答えたが、
「せえふく?なんじゃそれは・・・。」老人には通じなかった。
老人は縁側に戻った。
「この村には昔からの掟があってな、村の外から来たものはすぐに追い出さんといかん。よくないことが起こるでな。」
「えっ?よくないことって。」
「よくないことはよくないことじゃ。疫病を持ち込むかも知れぬ、盗賊かも知れぬ、村に火をつけるかも知れぬ・・・とにかくそういう掟がある。村を出すときは対岸の島に打ち捨てるべし、と言い伝えられとる。・・・まさにお前たちのことじゃ。」
「えっ?困ります。そんな、人道的にもおかしくないですか?大体、今の時代にこんな野蛮なことして、うちの親が知ったら・・・」
「武田さん。」新藤司が口をはさみ、麻理恵に目配せした。
老人は「明日の朝、島に送る。それまで、閉じ込めておけ。」と言い残して、どこかへいってしまった。
両手を後ろに縛られたまま、物置小屋のようなところに閉じ込められた後、麻理恵は司に問いかけた。
「さっきのあれ、何。」
司は考え込みながら、「なんだか変じゃないか?様子が。」と言った。
「俺もそう思った。」と拓斗が言い出した。「なんだか、ずいぶん貧しそうな暮らししてるし、からだつきも小柄で、とても筋肉質だ。まるで毎日重労働してるみたいに。」
「まるで、戦国時代とか江戸時代とかの農民みたいな…。」祐奈もつぶやくような声で言った。
「おかしなこと言うと思われるかもしれないけれど聞いてほしい。もしかするとここは、違う時代なんじゃないか?つまり、何らかの力で僕らこの時代に飛ばされたんじゃないのか。」司が言った。
「ちょっと待ってよ!」麻理恵は吹き出した。吹き出しながら何かカクンと胸に落ちてくるものがあった。もしかして本当に?
「ねえ、ここに来る前、みんな何してた?」麻理恵はふと思いついて尋ねた。
「あたしは、いつもの通学路を歩いてたの。スマホ落として、ひろおうとして、」それから、・・・それから。そうだ。
「トラックにひかれた、と思う。」麻理恵は空くうを見ながら言った。ほかの三人は息をのんだ。「多分、そうだ。だって最後に見たの・・・・、トラックのタイヤだもの。」みな黙り込んだ。しばらくして司が口を開いた。
「僕も似たようなもんだ。僕は屋上にいて、フェンスを超えて落ちたんだ。」
「俺は試合の遠征先で川に落ちた子供を岸に上げた後、自分は上がれなかったと思う。」拓斗が言った。
「わ、私・・・。」祐奈は口ごもって黙ってしまった。
「言いたくなければいいよ。無理しないで。」司が助けるように言った。怖い思いをしたのだろうと思いやったのだった。
「と、いうことは、ここは時代が違うんじゃなくて、あの世だってこと?俺たち死んだってこと?」
拓斗が焦り気味に言った。
「もしかしたら、異世界に転生したってこともありえるかな・・・。」麻理恵は力なくいった。
「なんだよそれ!」拓斗は大声を出した。しばらくして「ごめん。」と言った。
「いいよ。」麻理恵は答えた。そして「でもお腹すいたね。やっぱり、あたしたち生きてるんじゃない?」と言った。
「あの、」祐奈が言った。「誰かいます。」
小屋の外で音がして小窓から小さな男の子がのぞき込んでいた。窓と言っても、くりぬかれているだけで、網戸がついているわけでもない。麻理恵たち高校生のからだの大きさでは無理でも、その子なら通り抜けられそうだった。
男の子は手には古びた毬をもっていた。
「おいでよ。こわくないから。」拓斗が優しく声をかけた。けれど男の子はただじっとこちらを見ているだけだった。
拓斗は両手を縛られ、バランスをとれずよろよろしながら立ち上がり、
「その玉、こっちに投げて。」と男の子に言った。男の子は怪訝な顔をしながらも毬を拓斗の足元に投げた。
「見ててね。」男の子にそういうと拓斗は毬をサッカーボールを操るようにリフティングし頭に乗せヘディングで小さな小窓から男の子に返した。男の子は魔法を見たような興奮した顔になった。
「ありがとね。」男の子に言うと拓斗はもう一度腰を下ろした。
「うまいもんだねえ。」麻理恵が言うと
「ははは、俺、これしかできないからね。」と拓斗は照れたように答えた。
しばらくするとさっきの、毬を持っていた男の子がもう一度やってきて、窓から何かを投げ込んだ。よく見るとそれは細い縄でつながった干し柿だった。四つあった。男の子は拓斗のことを尊敬のこもった目で見つめ笑顔を見せた。
「もらって、いいの?ありがとう。」腕を後ろ手にしばられてはいたが、何とかお互いの口元にもっていくことで食べることができた。
麻理恵と司は朝食をとっていたが、拓斗と祐奈は朝から何も口にしていなかった。腹にしみるほどおいしかった。
いつの間にか男の子はいなくなっていたが、これがあの子のうちにとってどれほど貴重な食料かは皆察しがついていた。ただただ感謝するしかなかった。
翌朝になって、また屈強な男たちがやってきて四人を手漕ぎの船に押し込み、海に漕ぎだした。そして船を対岸の島につけ、そこに放り込むとまた船に乗り込み、帰っていった。縄はほどいてくれたが、ほかは何にも持たせてくれなかった。
「手首しびれれてるよ、ひっでええ・・・。」みんな体がガチガチでほぐすのにしばらく時間がかかった。
「無人島かな・・・。」拓斗が言った。
「どうしようか、・・・これから。」麻理恵が言った。しばらく間をおいて司が
「とりあえず、向こうの森に何か食べ物無いか探してくるよ。木の実とか・・・、昨日干し柿もらったろ、柿の木か何かあればいいんだけど。」
そうだな、と拓斗もつぶやいて男子二人は立ち上がった。周りの様子から、何となくだが、今は秋なのだと四人は悟っていた。季節は変わっていないようだった。秋なら、木の実のようなものが見つけられるかもしれない。
「女子、ここにいてよ。二人でちょっとその辺、見てくるから。」
その後ろ姿に、たのもしー、ありがとう、と麻理恵は声をかけた。
麻理恵は祐奈と二人になると祐奈に向き合い、
「大丈夫?」と声をかけた。
「はい、大丈夫です。」と祐奈は小さな声で答えた。
麻理恵は、
「大変なことになっちゃったねえ。」と海を見ながらつぶやいた。
麻理恵はしゃべり続けた。
「でも、変だよね、あたしたちみんなバラバラな場所にいたのに、何でここに集まっちゃったのかな。」そして、
「本当に死んだのかな。あたしたち」と言った。
「毎日前に進んでいくだけだと、思っていたのに。昨日の続きが今日もあって、明日もあって、ずっと続いていくだけだと思っていたのに・・・。」と続けた。すると、
「私、そんなの嫌です。」思いがけず祐奈が強い口調で言った。
「嫌だそんなの。昨日の続きが今日もあるなんて。ずっと続くなんて・・・。」驚いて祐奈を見ると泣いていた。
「中山さん・・・。ごめん・・・。泣かすつもりじゃ・・・。ごめん。」
何とか麻理恵が祐奈をなだめようとしているその時、森に食料を探しに行った司と拓斗が戻ってきた。
二人の二倍ほども容積のありそうな・・・鬼に首根っこをつかまれて。
鬼は二人だった。一人が司を、もう一人が拓斗を、それぞれ片手で、ほとんど宙づりにして、引きずりながらこっちに向かってきていた。
麻理恵は、これは・・・、コントじゃないのかしら?と思った。鬼は革のパンツは履いていなくて、村人たちと同じような着物姿だったが、肌の色ががそれぞれ赤と黄色だった。頭髪は両方とも茶色がかっていたが、その頭に5センチほどの角が左右一本づつ生えていた。昔のテレビの懐かし映像で見た、鬼のコントにそっくりだった。
「お前ら、何もんだ。あっちの村の人間か!」鬼は日本語を話した。
この人たちは芸人ではなく、昔、絵本で読んだ赤鬼と黄鬼だろうか?本物の?
隣を見ると祐奈はすでに気を失っていた。昨日からの出来事が限界を超えたのだろう。男子二人も鬼の腕力に震え上がっているように見えた。それらのせいで麻理恵の頭は、よりはっきりしてきた。すなわち、肝がすわった。
「あたしたち、村の人間じゃありません。あそこで捕まって縛られてここに連れてこられたんです。その二人を放してください!」勢いをつけて鬼に言い放った。
鬼たちは顔を見合わせた。そして司と拓斗を砂浜に放り出した。二人は「ああっ!」「わあっ!」と言いながら、砂浜に倒れこんでそのまま起き上がれなかった。
「じゃあなんで村で捕まったんだ・・・。何かやったのか。」赤鬼が尋ねた。
「なにもやってません・・・。私たち・・・信じてもらえないかもしれないけど、自分たちでもなぜここにいるのかわからないんです。目が覚めたらあの村にいて。」麻理恵は対岸の村を指さした。
「なぜここにいるのかわからない・・・。」黄鬼がつぶやいた。「俺たちと同じだな。」と。
えっ・・・どういうこと?麻理恵が聞こうとしたとき、
「兄さんたち、なにやってんだ!」と声がして、見ると誰かがかけてくる。
もう一人、いたのだ、鬼が。そして肌の色は青かった。
「あああ、しみるううう・・・。」
鬼たちの作ってくれた海鮮鍋は最高だった。何より生まれてきてこんなに空腹になったこともなかった。
鬼たちは親切だった、村人たちよりはるかに。特に、あとから走ってきた青鬼は、気を失った祐奈を介抱してくれて、自分たちの家のベッドらしきものまで運び、寝かせてくれた。そして今も、ベッドに横になっている祐奈に、鍋の中身を小分けにして持って行ってくれている。
「・・・んじゃ、ほんとに、俺たちを懲らしめに来たんじゃないんだな。」赤鬼が確認するように言った。
「ほんなころないれす、らいいち、あらしらち、へふらひゃないれすかあ(そんなことないです、だいいち、あたしたちてぶらじゃないですか)。」
麻理恵は鍋の具を口いっぱいにほおばりながら答えた。
男子二人はまだ鬼の恐怖が去っていないようで、もくもくと具材を口に運んでいた。
鬼は麻理恵の答えに納得したようで、「ま・・・、喰え。どんどん、喰え。」そう言って立ち上がりながら司の肩を、悪かったな、と言いながらたたいた。司は本当に漫画のように飛び上がり、むせた。ちょっと大丈夫?大丈夫か、おい?とみんなで声を掛け合いながら笑った。笑いながら麻理恵はそっとため息をついた。
食べ終わって片付けているところに青鬼が戻ってきた。手にした食器は空になっていた。
「中山さん、食べたんですね、よかったあ。お世話になってすみません。」麻理恵は青鬼にお礼を言った。
いや、と言って青鬼は首を振り、片づけを手伝ってくれた。
「あの・・・、」と麻理恵は青鬼に話しかけた。「あたしたちの話、信じてくれてありがとうございます。」
青鬼は、うん、と言ってしばらく間をおいてから、
「僕らも似たようなもんだから。」と言った。
「さっき、お兄さん、・・・黄色の肌の方もそんなこと言われてましたけど、どういうことですか?教えてください。」
青鬼の話はこうだった。自分たち三人がこの島に来たのは、まだ子どものころで、特に自分青鬼はまだよちよち歩きのころだったという。一番上のガナヤ兄さん(赤鬼)も5歳、その下のテナイ兄さん(黄鬼)は4歳のころで、二人とも目が覚めたらここにいたとしか記憶してないということだった。そのころは自分たちの母親が一緒にいて(この人は薄むらさきいろの肌だったという)、対岸の村に塩をもらいに行ったりしていたという。
「塩?」海が目の前にあるのに?
青鬼は説明した。「塩は海水を干しただけでは、なかなか口に入れられるものにはならないんだ。精製する技術が必要でね。対岸の浜には塩田があったんだ。」
青鬼は自分の名前はレンラだといった。よく見るとほかの二人の鬼のように髪の間から角が生えていなかった。その代り、額の左右に500円玉くらいの大きさの丸いこぶがあった。
「僕は母親に似たんだと思う。母も角がなくて額にこぶがあった。」
そうやって、時々母親が海を渡り塩を手に入れて帰ってくる生活を何年も続けていた。
ある時、母親の帰りが遅く三人で心配しながら待って居ると、漕ぎ手の姿のない船が流れてくるのが見えた。海に入り三人で船を引き上げると中には瀕死の重傷を負った母親の姿があった。持って行った絹は見当たらなかった。母親は村人に襲われたと言って息を引き取った。
三人兄弟は怒った。母はただで塩をくれと言っていたわけではない。この島には自生している桑があり天然の蚕がいる。母親はそれで糸を紡いで布を織って、塩の代金に支払っていた。暴力を受けるいわれはない。三人は対岸の村に乗り込み暴力の限りを尽くした。そして一生分の塩を奪い取り帰ってきた。
「僕たちは、本当に怒っていたし、村を襲ったことも当然だと思っていた。僕たちはまだ子供だったけど、体は村人たちより大きく強かった。随分向こうは被害があったと思うよ。」
青鬼は続けた。「僕たちは、しばらくは正しいことをしたと思っていた。あいつらに、母さんを殺した奴らに勝ったんだ、と。だけど、僕らはそれから本当に僕らだけ、になったんだ。三人だけに。」
青鬼はため息をついた。「僕たちは村にそれまで直接行ったことはなかったけど、母さんを通じて、僕らの味方をしてくれる人たちのことを知っていた。母さんに優しくしてくれる人たちのことを知っていた。でも。」
青鬼は麻理恵を見ていった。「僕らはそんな人たちをひっくるめて、村の人たち全員を憎んで無差別に攻撃したんだ。・・・母さんの友達を殴りつけたかもしれない。」
青鬼はため息をついた。「許されることじゃない。暴力を振るわれたからって、話し合いもせずに、いきなり暴力で報復するなんて。」
青鬼は言葉を継いだ。「それから、思い出したように時折、夜中に、対岸から村の人間が渡ってきて、僕らの家に火をつけたり、船を壊したりするようになった。僕らも命がかかっているから、応戦せざるを得ない。どうしたらいいかわからないよ。」
そして、そんな風に母親が突然死んでしまったので、自分たち兄弟三人は自分たちがどうしてここにいるのかわからないままになってしまった、と言った。
青鬼は下を向き悲しそうに続けた。「母は、僕らがある程度の年齢になったら話そうと思っていたんだと思う。どうして僕らだけ姿が違うのか、そのことは、こんなに嫌われて当然のことなのかってことを。」
翌日、祐奈は起きあがれるようになっていた。麻理恵が、昨日鍋をごちそうになった海岸で、鬼たちを手伝って朝食の支度をしていると、私も手伝います、とやってきた。「もういいの?」と麻理恵が問うと、大丈夫です、とまた小さな声で答えた。そして、何かしないと、と言った。麻理恵は「そうだねえ。」と答えながら、何ができるのか見当もつかなかった。ふと、祐奈が、
「・・・、向こう側、私たちの町ですよね。」と対岸を指さしながら言った。海岸線に見覚えがある、と。
「あたしたちの町・・・か。」麻理恵は答えながら思った。どこか見も知らぬ場所に来たように感じていたが、案外、場所的には遠くではなかった。ではやはり、時間を移動した、つまりタイムスリップしたということかもしれない。だとしたら、街の産業や何かが、これからやることのヒントにならないだろうか。自分たちの町に塩田があっことは昨日の青鬼との会話で初めて知ったことだった。自分たちのいた時代では聞いたことがなかった。規模としては小さなものだったのかもしれない。塩をつくる技術を手に入れられないだろうか、と。
ふと祐奈を見ると、汲み置いていた真水をひしゃくで取り、手を洗っていた。料理を手伝う前に、とそうしたようだ。そして、ポケットからハンカチを出して、手を拭いた。そのハンカチには可愛い刺繡が施されており、思わず、麻理恵は「なにこれ、かわいいー。」と声を出し、祐奈が手を拭き終わって、道具が並べられた横に置いたそのハンカチを手に取った。にっこり笑ったクジラと夜空の星が小さなマークのように縫い取られていた。祐奈は照れたように「自分で、作ったんです。」と言った。
そういえば町では毎年盛大に弁天様のお祭りがある。弁天様は音楽の神様として知られているが、手芸の神様でもあり、わが町は昔、織物の一大生産地だったと聞いたことがあった。夕べ、レンラ(青鬼)と話したときに、以前、彼らの母親が、島に自生している桑に生息する天然の蚕を使って、織物をしていたとも聞いた。それらを使って何かできるかもしれない。
祐奈に言ってみると、顔を輝かせ、それなら私にもできます。という。
麻理恵は言った。「祐奈にもじゃなくて、祐奈だからできるんだよ!」気づかぬうちに祐奈と呼んでいた。
翌日から行動を起こすことにした。祐奈と麻理恵は鬼のレンラたちに聞いて鬼たちのお母さんが採取していた桑畑に案内してもらった。多くはないが確かに繭がついていた。そして、その繭は驚いたことに、染めているわけでもないのに七色に輝いていた。手芸好きの祐奈はその美しさに狂喜していた。
一方、男子二人は、鬼たちと塩田を作ろうとしていた。司が昔、観光用地を兼ねた塩田に遊びに行った時、そこに置いてあったリーフレットに塩田の仕組みが載っていた、何となくだが内容を覚えているよ、と言ってその記憶を頼りに作り始めていた。
夜は毎日鬼たちも一緒に、海岸で焚火を起こして焼き魚をしたり鍋をしたりして食事をした。
食材には事欠かなかった。赤鬼のガナヤは動きの速い魚を捕るのが上手く、黄鬼のテナイは息が長く続くようで、海の底まで潜って、海老やアワビをとってきた。青鬼のレンラは森へ行って山芋や野草をとったり、鳥や小動物を捕まえては、下処理までして、麻理恵や祐奈に渡してくれた。
そんなある晩、静かだな、と司が言って、板切れに糸を一本這ったものを演奏しだした。
「え-っすごいじゃん、新藤君。」麻理恵が感嘆の声を上げた。
司でいいよ、と司が答え、「じゃあ、あたしも麻理恵で、拓斗と祐奈ももう下の名前でいいよね。」と麻理恵が言い、みんながうなずいた。
一弦だけの弦が奏でる音楽は変化が少なかったけれど、久しぶりに聞く音楽だった。鬼たちもうっとりと聞きほれた。司の才能もあるのかもしれない。司は「俺、本当は音大行きたいんだよね。」と言った。 司はいつの間にか、一人称が俺になっていた。
「行けばいいじゃん。」麻理恵はバッサリ、即答したが、司は笑って、「うちの親、ピアノは習わせてくれたけど、あんまりそっち協力的じゃなくって。お前の成績なら医学部だろうって。音大に行くにはコンクールの受賞歴とか必要なんだけど、参加さえ、したことがないんだ。音大行って何するんだ、そんなことやって何になるんだって。」
しばらく誰も何も言わなかった。理文館は進学校で進路の悩みはつきものだったが、自分たちの今の状況を考えると、なんだかあまりに遠い世界の話のような気もしてきた。
司がポツリと続けた。「医者になるのが嫌ってわけじゃないんだけど。それも立派な仕事だと思ってる。俺の妹、体弱くてね。医者になれたらあいつを診てやれるし。」
「妹、いたんだ。」麻理恵が言うと、司はうん、とうなずいた。そして遠くを見る目をした。麻理恵たち四人は思った。みんなは、家族は、どうしているだろう、と。
しばらくして、「『一弦の琴』って小説、ありましたよね。」と祐奈が言った。物知りだねえと麻理恵が言うと、うちの父が書棚に持ってましたから、という。
司は、ひとしきり演奏した後、弦を増やそうかな、と言った。司にとって音楽のことは、とても馴染んだことで、内側から出てくることで、体が自然に動くことなのだと麻理恵は思った。
翌日には司はちゃんと弦を増やしギターのようなものを作りあげ、調律もできたようで、夜の食事の時に、「誰か歌って。伴奏するから。」と言った。遠慮しあいながらも最初に麻理恵と祐奈が歌い、司が弾き語りをし、俺、音痴だから、と言いながら拓斗も歌い、鬼たちも自分たちの歌を歌った。鬼たちの歌は今まで聞いたことのないメロディーの流れで、あわせるのが難しかったようで、途中で司は伴奏するのを諦めたが、不思議な、でも、いい歌だった。こんなに楽しいのは久しぶりだった。音楽は素晴らしいと真実思う。音楽は、鬼たちと私たちをさらに親しくさせてくれた。音楽には人と人を結ぶ力があるのだ。
そして歌を歌って、いい気分になった赤鬼のガナヤはもっと素晴らしいことを言い出した。
「歌うと、なんでかわからんけど風呂にはいりたくなるなあ。」
「ううううう・・・・はああ、ひょおー・・・・。」麻理恵は思わず声が出てしまった。今までも、もちろん、川の水を沸かして体を拭いたりはしていたが、お風呂に・・・お湯に・・・浸かったのは、こっちに来て初めてだった。
「風呂桶あったんだねー。」一緒に入っている祐奈に言った。ここでのお風呂の沸かし方は麻理恵たち四人誰もが初めて見る方法だった。木でできた長方形の風呂桶に水をためて、砂浜で焚火の中に石を入れて焼き、その石を風呂桶にためた水に入れ、石の熱を移し、水を湯に変えるというやり方だった。
「へえー!」黄鬼のテナイが教えながらやってくれるその作業を四人は感心して見ていた。
風呂に入る順番は麻理恵がじゃんけんで一番を勝ち取った。鬼たちはじゃんけんを知らなくて、四人で鬼たちに、そのやり方を教えながら勝負をした。
砂浜の真ん中に置かれた風呂桶は、当然のように目隠しする囲いなどなく、折しも、今夜は満月。煌々(こうこう)と照らす月明かりの下、視線を遮るものなんて何もない。
「見られませんかねえ。」祐奈は最初しり込みしたが、麻理恵は「もーみられてもいい。どーでもいい。」と風呂に飛び込んだ。祐奈はその後について入った。
村のある向こう岸が正面に見えた。
「あっちから望遠鏡で覗いたら丸見えですよ・・・。」と、まだ祐奈は気にしていたが、
「望遠鏡、誰も持ってないって!」と麻理恵は笑った。それに紳士の青鬼のレンラがこの島の男たちは寄せ付けない、と請け負ってくれていた。
しばらく無言で星空を見上げた後、祐奈が
「マリちゃん・・・。」と話しかけてきた。
「私、言ってなかったけど、あの日、ここの世界に来たのは・・・自殺したからなんです。事故じゃなくて。自分の部屋で首を吊って・・・。」麻理恵は驚いたが、黙って聞くことにした。
「入学したときは問題なかったんです。夏休み前ぐらいから、物がなくなりだして、みんなが無視するようになりました・・・。」
祐奈が言うには、おそらく、加担しているのは数名だが、クラスの女子のほとんどは知っていた。そして口をつぐみ、見て見ぬふりを決め込んでいたのだと思うと。「それでも夏休みが開ければ何か変わるかもと思っていたんですが・・・。」クラスの女子全員から無視され続け、自分一人必要な連絡も来ない状況は変わらなかった。それどころか、ある日、「階段で足をひっかけられたんです。」
階段から転落し、右足を骨折したという。
翌日ギプスをし松葉杖をつき登校した。足をひっかけたのは誰、と特定できなかった。階段のところに数人たまっていたから。クラス担任は朝のホームルームで、階段でふざけるんじゃないぞ、としか注意しなかった。それでもさすがに、いじめグループはまずいと思ったのか、移動教室の際などに「持ってあげる。」と祐奈の荷物を持ってくれた。3日ほどは。4日目に「あーもう、やってらんない!」と言って階段の一番上から祐奈の荷物をぶちまけたのだという。祐奈は松葉杖をついて、一つづつ、拾うしかなかった。ペン一本、消しゴムひとつ、と。随分時間がかかり次の授業はかなり遅刻してしまった。家に帰って母親に、今日松葉づえで階段を歩いていて、転びかけて怖かった、やっぱり明日からギプスが取れるまでお休みしたいといって、3週間ほど学校を休んでいたという。
あの日、どうしてももう学校に行きたくないと思いつめ、事に及んだそうだ。
「そんなことがあったの・・・。」麻理恵はショックだった。自分の学校でそんなことがあるとは信じられなかった。地元では名門校として知られ、それなりにふるいにかけられた層が入ってくる。そんな理屈の通らないことが起こっていたなんて。「許せない。」麻理恵はつぶやいた。祐奈は言った「いじめの原因については、私も何かいけないことやったかもしれないし・・・でも、心当たりはないんです。」そう言って祐奈は泣いた。お風呂のお湯がしょっぱくなるまで。
平和な日々が何日も続いた。あのお風呂の日以来、麻理恵は、祐奈と、今までよりもっと心の距離が縮まったと思っていた。
季節は秋も深まり、だんだんと、寒さを感じる季節となった。四人はそれぞれ、三人は自分たちの着てきた制服と、拓斗はジャージを着続けていたが、この頃の寒さに、鬼たちの子供の頃の着物を借り、上に羽織って、寒さをしのぐようになっていた。その着物の大きさはちょうどよかった。確かに鬼たちは子どもの時から大人なみの体格だったようだった。
おそらく、鬼たちの母親の手作りであろうその着物は、ぼろぼろに着古されていたが、きちんと洗濯され、破れ目やほころびは丁寧に繕ってあった。形見であり、思い出の品であり、大切にとっておかれたものだろう。それを鬼たちは、「取っておいてよかったよ、役に立って。」と、事も無げに、四人に貸してくれた。
祐奈は、蚕から糸を紡ぎ布を織ろうと、鬼たちの母親の残した道具を借り、鬼たち(特に青鬼のレンラ)の記憶を頼りに、作業を進めていた。男子二人は鬼たちと一緒に塩田づくりに没頭し、麻理恵はその両方を手伝うという図式が出来上がっていた。
時には失敗したり、作業中に突然の雨で台無しになったりと、悔しい思いもしたが、皆それぞれ充実して過ごした。夜には司が演奏し、みんなで歌を歌い、焚火を焚いて料理をした。それなりに豊かで満たされていた。
対岸から見える炎や聞こえてくる音楽や歌声に、貧しい村が妬ましい思いを抱いているとも知らずに。
祐奈は親切な青鬼のレンラとよく話すようになっていた。
ある日女子二人で夕食の後片付けをしていると、祐奈が麻理恵に言った。
「マリちゃん、知ってた?よく森の奥にレンラが入っていくでしょう。私、キノコでも取りに行くのかと思っていたんだけど、違うんだって。森の奥に小屋があって、そこに行ってるんだって。そこにある灯明の火は決して絶やしてはならないんだって。鬼たちの神社みたいなものかなあ。」
「へえ、あたしも、キノコ採りだとばかり思ってた。」
「お母さんからの言いつけで、毎日何回も見てこないといけないらしいよ。」
そうなんだ、と相槌を打ちながら、祐奈には話すんだ、と麻理恵はすねたように思った。以前麻理恵が「どこいくのー?」ときいたら、ちょっとねとしか言わなかったのに。いつの間にか麻理恵たち四人と鬼たちとの間をつなぐ役目は祐奈に移っていっていた。
「レンラ、マリちゃんに感謝してた。」
「えっ?」
「マリちゃんが、塩田作ろうって言ってくれたおかげで、もしかしたらって希望を持つことができたって。」
なんだろう、と麻理恵は思った。
「お母さんが死んだとき、怒って三人で村を襲った。その時に塩を奪ってきた。もし、いい塩が作れたら、あの時奪ってきた分の塩を返すことができるって。暴力をふるったことは許されることじゃないけど、謝りたいって。そして、もしできることならお母さんの親しかった人を探して、いつもお母さんが村でどんな様子だったのか、どんな話をしたのか、楽しそうにしてたのか、そして、なぜ、あの日、あんな目にあったのか、その経緯を聞きたいって。」
「そんなこと考えてたんだ。」
私ならできるだろうか、と麻理恵は思った。そういう風に考えることが。母親を殺されたというのに。
麻理恵は昔読んだ絵本の中に、鬼ケ島は奪った宝が山と積まれていたって書かれていたな、と思い出した。実際に彼らが奪ったのは生きるために必要な塩だけで、それも代金の絹は先にとられていたようだった。植え付けられた先入観って本当に怖いと思った。実際の彼らはただただ善良で優しいのに。
その時、
「きたぞー!」とガナヤ(赤鬼)の大声が聞こえた。
対岸の村から襲撃隊が来たのだった。
「いつもならもっと真夜中近くなんだが。」
レンラが麻理恵たちのそばにやってきて言った。この闇夜の中、どこから現れたのか、気が付いたら隣にいた。そして祐奈に「じゃあ、頼んだ通りにやって。」と言ってまた闇夜に消えていった。頼んだ通りって?と麻理恵が祐奈に問うと、祐奈は、私たち四人はとにかく夜目が利かない、もし今度襲撃があったら、間違いなくやられる、その時は、みんなを連れてある場所へ逃げ込んでいて欲しい、と以前レンラに頼まれていたことを明かした。確かに自分たち四人は暗がりが苦手で、日が落ちると作業どころか、歩く足元もおぼつかないところがあった。明るさに慣れすぎた現代人の宿命かもしれない。だが、今、麻理恵がショックを受けたのは別の点だった。それは、なぜ、みんなを守る役目が、一番弱弱しい祐奈に託され、自分は蚊帳の外だったのだろう、ということだった。
麻理恵は首を振ってその考えを追い払った。今はそんなこと考えている暇はない、司と拓斗を探さねば。
司と拓斗はいいつもの寝場所の洞穴にいた。村人が襲ってきた事を話すと拓斗は、俺も戦うよと言ったが、言ったそばから、足元の石が見えずに転んだ。
「今回は任せよう。俺たちは足手まといだよ。」司が言って、祐奈にみんなでついていくことにした。場所を知っているからだけではなく、祐奈は四人の中では比較的暗がりでも物を見ることができるので、先導してもらうことになった。
薄暗がりの中、つまずいたり転んだりしながら森の中を進んだ。麻理恵と祐奈は鬼たちに借りた着物を羽織っていた。
森の真ん中あたりだろうか。小屋っぽいものが見えてきた。
「この中に入れば絶対安全だって言ってました。」と祐奈が言った。そして扉を開けた。
「なんだこれ・・・。」
最初に声を上げたのは拓斗だった。司は驚きで声も出ないようだった。
木製の小屋の中には金属製の円形の家のようなものがすっぽり隠されていた。その『金属製の円形の家のようなもの』の中に入ると、中はいくつかに仕切られ、どの部屋も壁一面に何か機械らしきものが埋まっていた。
「これって・・・、UFOなんじゃない・・・?」今度は麻理恵が言った。
「サンダーバードの、旧作のほうの内部の作りに似てますね・・・。」祐奈も驚いているようだった。中に入るのは祐奈も初めてだという。
一つの部屋の真ん中に光のともったものがあり、床に円が描いてあった。
「もしかして、これかな。レンラが言ってた絶やしちゃいけない燈明の火って。」麻理恵が言うと、祐奈も「多分そうですね。」と答えた。
ずっと黙っていた司が、「もしかしたら、何らかの動力源なんじゃないか。」と言った。
「動力源?エネルギーってこと?」麻理恵が聞く。
司は頷いて、「これがUFOだとしたら、どこか宇宙の星から飛来してきたってことになる。だったら、半端じゃないエネルギーが必要だったろう。」
「・・・レンラたちが宇宙人だってこと?」
「・・・かもしれない。」
自分たちの常識からかけ離れすぎて困惑するばかりだが、もしそうならば彼らの風貌の説明がつく。
「この円は何だろう。」そう麻理恵が言ったとき、扉が開いてレンラが飛び込んできた。
「祐奈、祐奈!」レンラの呼びかけに祐奈は扉に駆けていった。
「今日はあいつら様子がいつもと違う、必死だ。今、ガナヤ兄さんとテナイ兄さんが必死に食い止めているけど、もう、持たないかもしれない。もし奴らがここにきても、いいか絶対に入れちゃだめだ。・・・もし万が一の時は、そのボタンを押すんだ。」
「これ?」真ん中のひかりの上にボタンがあった。レンラは頷いて、「母が言い残したんだ、万が一のこと、本当に最後の最後に命の危険を感じたらこの部屋にこもってこのボタンを押しなさいって、俺たちに言ったことがある。違うところにいけるからって。」
「いったい、それはどういう意味?」尋ねたのは、司だった。
「わからない。でも、こうも言っていた。『あなた達は、ここしか知らないから、まだ、難しいわね。でも、大人になったら、想像することで、何とかなるかも。母さん一人の力じゃだめだったけど。』って。」
「でも、じゃあ、これは、お母さんがレンラたちのために・・・。」祐奈が言った。
「いいんだ。俺たちは。」そして続けた。「君たちは、あの村の人間ではないけど、人間なんだ。どこかに生きていく場所が見つかるはずだ。」そして祐奈を見つめ、笑って言った。
「兄さんたちもそう言ってる。」それだけ言うと扉を閉めて出て行ってしまった。
四人は重苦しい沈黙の中にいた。だがやがて、どんどんと小屋を壊す音が聞こえてきた。だんだんと音は大きくなり、もう小屋を破壊し終わって、この内側のUFOをも壊そうとしているようだった。
「行こう。」司が言った。
「でも!」祐奈が叫んだ。
「わかってる。これは俺たちのものじゃない。彼らのためのものだ。でも、ここにいて殺されるのを待つのかい?」
「でも、このボタンを押したってどこに行くのかはわからない。」
拓斗も及び腰だった。
外の物音は、その大きさを増していた。
「レンラたちはなんで今まで使わなかったの?」言ったのは麻理恵だった。
「わからない。」祐奈は扉のほうを見つめながら言った。麻理恵はのちに思い至ることとなる。祐奈が扉を見つめていたのは、扉が破られそうだったからではなく、別の意味があったのだと。
「今までだって、命の危険を感じることはあったはずなのに。これいったい何?なんなの?違うところってどういう意味?!」麻理恵は叫んだ。恐怖で。前に進むのも、ここにとどまることもどちらも恐ろしかった。
「もしかしたら。」司がふと、思いついたように言った。「イメージする力ってことじゃないか?」
「イメージする力?」麻理恵が訊いた。司は頷いて、
「行きたい場所をイメージする力。行きたい場所を思い浮かべてそこへ行くことを念じる力。」と言った。
「だって、ここには、このボタンの他に、何のボタンもつまみも、ミキシングするような目盛りも何もない。鬼たちだけで、使えないのは、彼らが、ここしか知らないから、他の場所をイメージすることが難しいから、そうじゃないのか?」司は外から聞こえる、ここを破壊しようとする物音に負けないよう大声をあげて言った。
「だったら・・・。」祐奈が声を上げた。
「彼らも一緒に・・・、レンラたちも一緒に・・・。」
再び、みんなが沈黙し、外の物音だけが響いた。
「無理だよ。」司がその沈黙を破った。「もう時間がない。それに、彼らを、僕らの世界に連れて行くのかい?ネットにさらされ、もてあそばれ、研究対象として閉じ込められ、・・・。」そしていったん言葉を切り、「もしかしたら、殺され、最後は、研究のためという名目で、切り刻まれるかもしれない。」と続けた。拓斗も、「少なくとも自由などないだろうね・・・。」と静かに言った。
外のもの音は、さらに大きく迫って来た。
「確証はない。でも、今できることはこれしかない。」司は言って、ボタンに手を置いた。拓斗と麻理恵も同じようにした。
「祐奈!」麻理恵が祐奈に呼びかけた。「祐奈も!早く!」
祐奈も三人の手の上に手を添えた。
「イメージして。」司が言った。「みんなの力を合わせないとダメなんだ。レンラのお母さん一人の力では駄目だったんだから。イメージして、僕たちのいたあの世界を。」麻理恵たちは思いを一つに、イメージを始めた。
その時扉が破られた。ボタンの上に置いていた手は反射的にボタンを押した。すごい光に包まれた。思わず麻理恵は眼をつぶった。四人は床に描かれた円の中にいたはずだった、が。
拓斗だけがわずかにその気配を感じていた。祐奈が円の内側から、すっ、と出ていったことを。
10月6日 午前7時。
気が付くと麻理恵は自分の部屋にいた。机の上の時計を見ると日付はあの日に戻っていた。
今日は10月と思えないほど朝から暑い一日となりそうだった。
7時半。
麻理恵は家を出ていつもの通学路を歩いた。いつもより少し早い時間に。スマホは見ないことにした。あの道でトラックをやり過ごし、無事学校につくことができた。
麻理恵は胸を躍らせた。『やった、やった!あたしは危機を乗り越えた!命の危険を通り超えた!』と。
だが、ふと何か忘れているような気がした。なんだろうこの胸騒ぎは?
麻理恵はハッとした。
・・・祐奈。祐奈!
麻理恵は走り出した。校内にいるはずの司を探すために。
10月6日午前7時。
拓斗はサッカーの試合のため遠征先のホテルで目を覚ました。ロビーに向かい、朝練のランニングのため集まっているほかの部員に合流した。その中の一人が訊いた。
「先輩、なんでランニングなのにボールもってくんですか?」
7時半。川沿いを走る。叫びが聞こえた。
「誰か、誰か、助けてください!」
拓斗はネットに入れて持っていたサッカーボールの塊を川に投げ入れ男の子の命を救った。
10月6日 午前7時。
新藤司は学校の屋上にいた、いつものように。そしていつもと違っているのは、いつもならいない一年生らしい女子の集団が、輪になってバレーボールを打ち合っていることだった。司は場所を移動した。
7時半。アターック!という声が聞こえ、そのあとに「もーう、アイリー。」「あーあ、ボール、下まで落ちちゃった。」「誰か下にいない?」「当たってたら大変だよ。」「・・大丈夫みたい。」という会話が聞こえてきた。
司は胸をなでおろした、危機は脱した。司は胸の動悸と高揚感を感じながら、しばらくそこに佇んだ後、ゆっくりと、屋上を後にし、階段を下りて校舎の二階の自分の教室へ向かっていった。
そして教室にたどり着き、扉を開けると、
「司!」血相を変えた麻理恵がそこにいた。「祐奈、祐奈が・・・。」麻理恵は、力の限り走った後のように息が上がっていた。
「祐奈が、どうしたの?」司も慌てて聞き返した。
「祐奈の家に行かなきゃ・・・。祐奈、あたしたちとは違うの、・・・事故のショックであそこへ飛んだんじゃない。祐奈は自殺だったの。自分の部屋で首を吊って・・・。」
「えっ!じゃ、まだ家に?」
「たぶんそう。」
司も考えた、麻理恵と同じことを。もし祐奈がこの世界に戻ったのが自殺を実行した後の時刻だったら。そして、もし、その自殺を実行した時刻より前の時間に戻っていたとしても、向こうへ行く前と気持ちが変わらず、・・・自殺を実行してしまっていたら。
「マリ、祐奈の家はどこ?」
「花山町の桜公園の近くとしか・・・。」
向こうの世界では、聞いても無駄と思い、住所どころか電話番号の交換さえしなかった。それは四人とも同じであった。
「事務室、あいてるかな。家に連絡しよう。」
8時前の事務室はまだ無人だった。
ふと、司は、事務室前の展示コーナーに目をやり、しばらく見つめていた。何か違和感があるようだった。
「どうしたの。」麻理恵に訊かれ、司は、
「いや、別に。」と答えた。そして、
「祐奈の教室、行ってみよう。」とつづけた
祐奈のクラス1年6組に二人は急いだ。1年6組の教室にはもう、十数名の生徒が登校していた。
麻理恵はそのうちの女子生徒の一人ををつかまえて、「中山祐奈の家知ってる?」と勢い込んで尋ねた。
女子生徒は怪訝な顔をして言った。
「誰ですか?それ。」
「祐奈よ、祐奈!中山祐奈!」麻理恵は食って掛かように言った。その場にいた生徒は、麻理恵のその様子に驚き、水を打ったように教室中が静まり返った。そして、
「だれ、それ?ユウナって?」「知ってる?」「知らない。」「よそのクラスじゃないの。」さざめくように数人が言った後、
「このクラスにはいませんよ。」代表するように一人の女子生徒が前に一歩出ていった。
麻理恵はカッとなって叫びそうになった。
「祐奈をいないことにするなんて、いくら何でも・・・、」いじめが過ぎる、と続けようとしたところで、
「マリ!」司に腕をつかまれ、教室から引っ張り出されてしまった。
「何するのよ!急がないと!」と怒り狂う麻理恵に
「待って、落ち着いて。」と司は言った。そして「何か変だよ。」と。
「変って・・・、何。」
司は言った。「祐奈の作品がない。」
「作品?」麻理恵は聞き返した。司は頷き、
「事務室の前に展示されてたんだ。見事な刺繍のタペストリー。家庭科の課題だと思うけど、素晴らしい出来だったから展示してたんだと思う。作品を見たとき、まだ、祐奈の事知らなかったから、添えてあるネームカードの名前もうろ覚えだったけど、今、思い出した。あれ、祐奈の作品だった。」麻理恵から手を放し、間違いないよ、と司は言った。
司はしばらく考えて、「拓斗に連絡取れないかな。なんとかして。」と言った。
「拓斗のクラスに行けば誰か携帯番号知ってるかも。」二人はまた校内を走った。
やっとのことで拓斗の携帯番号を手に入れ、テレカで学校の公衆電話から拓斗にかけた。携帯は校内使用禁止で、ホームルームの時に担任に預けてしまう決まりであったから使えなかった。
「もしもし、拓斗?・・・生きてる?」
「よー、マリ!そっちも、うまくきりぬけたな?」
麻理恵は拓斗の陽気な声を聴くと改めて、あの鬼ヶ島の日々は夢じゃなかったんだ、と思った。
「拓斗、祐奈がいないの。」
「えっ?学校にきてないのか?」
「違う、いないの、全然。存在しないことになってる。」
「何、それ?存在しないって!」
「祐奈のクラスに言っても、そんな子はこのクラスにはいないって。死んだとかじゃない。最初からいないんだよ。それに展示してあった祐奈の作品も無くなってる。」
拓斗は黙り込んだ。
「拓斗、拓斗、聞いてる?」
「ああ・・・。ひょっとしてなんだけど・・・、俺、あのボタンを押して凄まじく光ったあの時に、誰かが円の外に出ていったような気がしたんだ。まぶしくて床に目を落として・・・、その時、でていく誰かの足の先が見えた気がしたんだ。」
麻理恵は息が止まりそうだった。
「祐奈が円から出ていったってこと?祐奈はあたしたちと一緒に、戻らなかったってこと?」
麻理恵は公衆電話の受話器を握りしめながら思った。
そして歴史は書き換えられ、祐奈の存在はこの時代から消えたってこと?
「マリ。」それまで麻理恵の後ろで漏れ聞こえる拓斗の声と麻理恵の会話を聞いていた司が麻理恵に呼びかけた。
「祐奈は自殺して俺たちと一緒にあそこへ行ったって言ったよね。帰りたくない理由があったんじゃないか?」
帰りたくない理由・・・いじめを苦にしていた祐奈・・・、だけど、だけど。
「今はあたしがいるじゃない!」麻理恵は叫んでいた。絶望的な驚きと悲しみで心が引き裂かれそうだった。
こちらへ戻ってすぐに麻理恵と司と拓斗は三人で海岸まで行き、あの島を探したが鬼ヶ島はかげも形もなかった。街の図書館や資料館へ行き、さんざん調べた挙句、以前、この海岸の向こうに島があったが、昔、大きな地震があった際、地震の揺れと津波にのまれて崩れ、かろうじて残っていた部分も、のちの台風で削られ、今ではなくなっている、ということが分かっただけだった。それ以上のことは何も書き残されていなかった。
麻理恵たちが自分たちでも、本当に現実だったのだろうかと振り返って思う、あの、時を超え、鬼ヶ島へ行ったという出来事。だが、それが夢ではないことの証拠が二つあった。
一つは、戻った三人の制服とジャージがぼろぼろだった事である。数か月の間、下着を洗濯するのが精いっぱいで、着続けていたのだから、当然であった。「いつの間にこんなに?!」麻理恵の母親は驚いて、すぐに新しい制服を注文した。おそらく、司も拓斗も同じであったろう。
そしてもう一つは・・・、麻理恵がこちらの世界に戻ったとき、向こうの世界で鬼に借りた、鬼の子供の頃の着物を制服の上に羽織っていた事である。あの日々が、夢ではなかったことの、紛れもない証拠であった。だが、彼らにとって大切なものを持ってきてしまったこと、もう決して返しに行けないであろうことを思うと、麻理恵は申し訳なく、そして悲しく、泣きそうな気持になった。
元の世界に戻れたというのに麻理恵の心は浮かなかった。以前の通りの友達に囲まれているのに、とても孤独を感じていた。
自分は祐奈に捨てられたのだ、いくら振り払ってもその考えが付きまとい、頭から離れなかった。はじめて心から信頼できる友を得たと思っていたのに、急に自分から離れ、一人ぼっちに置き去りにされたという恨めしい気持ちがいつまでも消えなかった。
麻理恵の心は、暗い闇に落ち込んだ。
そんな気持ちのまま日々は流れ、新しい年を迎え、更にひと月が立ったころ、学校の七不思議のひとつである、毎年春に行われる恒例の、地区の学校対抗野球大会の、応援練習が始まった。公式戦でもない野球部の試合の応援を、応援団とチアリーディングを投入し、なぜか全校生徒でやるのである。
おそらく、理文館だけでなく、どこの学校にも不思議な行事はあるだろう。毎年繰り替えされるそれに、もはや理由が不明でも、誰も逆らうことなく、ただ時期が来れば参加し、遂行する、そんなことが。
麻理恵はチアリーディングをやっていたので、毎日放課後参加することになった。応援練習はこの時期に集中してメンバーを集めるので一年生は初めて見る顔も多い。練習は体育館前の欅広場で行われたので、体育館の前には、練習に参加する生徒の鞄が集まっていた。
麻理恵は、その中に、あるはずのないものを見つけ、思わず、叫んだ。「こ、・・・こ、これ、このバッグ、だれの?!」
麻理恵のつかんだバッグはファスナーが半開きで中にいれたスポーツタオルが見えていた。そのスポーツタオルの端に・・・、夜空の星を背負ったクジラが刺繡されていたのだ。
「え、何?俺のだけど。」答えたのは、色の浅黒い一年生の男子生徒だった。祐奈じゃない・・・、麻理恵ががっくりと肩を落としたその時、その男子生徒が額の汗を手で拭った。見えた額の左右に、うっすらとだが、500円玉大のこぶがあった。
麻理恵は人目もはばからず、男子生徒に飛びつき(彼の背が高かったので)、額の髪をめくりあげた。 男子生徒は、思わず麻理恵を突き飛ばした。いきおいで麻理恵は地面に倒れこんでしまった。
男子生徒は、反射的にとってしまった自分の行動の結果に驚き、しゃがみ込み、麻理恵に言った。「ごめん!」
「大丈夫。」麻理恵は倒れこんだ姿勢のまま、顔を上げることなく答えた。麻理恵の胸は激しく動悸していた。
男子生徒は、麻理恵を助け起こそうと、手を貸しながら、
「・・・だけど、いきなり、何だよ。人の気にしてるところを思い切り見ようとするなんて・・・。」と言ったが、そこで、言葉につまった。麻理恵が泣いていたから。
「ごめん、知ってる人に似てたから。」そう言いながら、麻理恵は自分でも気づかず涙を流していた。嬉しくて。直感があった。だが、まだ確信には至らなかった。
「あ、ごめん、ごめんなさい、どこか痛い?」男子生徒はおろおろしだした。
麻理恵が、少し膝をすりむいていたので、責任を感じて保健室までついてきてくれた男子生徒は、「このデコ、変だろ、ちっちゃいころから、これのせいでいじめられて。親父も、『そのデコ、俺を飛び越してお前に出たか』って笑うし。じいちゃんからの遺伝みたいで・・・。」と話し出した。
麻理恵は思った。いや、違う。もっと、きっと、そのずっと前から、と。
そして、「いじめられたときどうしてきたの?」と聞いてみた。「黙らせる!」と男子生徒は答えた。その強さが麻理恵は涙が出るほどうれしかった。
タオルの刺繡については「家代々のおまもり」で必ず何かに縫い付けて、いつも身の周りに持っていなければならないのだという。「ばあちゃんの命令でね。ご先祖様が、きっと守ってくださるからって。どういう意味があるのかも分からないのに。」そう言ってから、ちょっと考えて、「この応援も、そうだよね。なんでうちの学校だけこんなのあるのか、意味わかんないんでしょ?」と笑った。
麻理恵は、「何か、大事な意味があるのかもしれないね。」と言った。今まで考えもしなかったが、今は本当にそう思えた。誰かの、大切な人に、いつか、何かを伝えるための意味が。
男子生徒は、気のなさそうに、ふうん、と言ってから、「あとね、うちの家、変なしきたりがあって、兄弟の一番上は、男でも女でも名前がきまってるの。女ならユウナ。オレ、長男なんだけど、その名前のせいで、毎回、名前書くの大変。」
麻理恵はドキドキしながら聞いた。「君の名は?なんていうの?」
「蓮羅。中山蓮羅。」
間違いない。祐奈とレンラの子孫だった。
「れんら」という読みを持つ名前の漢字を説明し、その画数の多さを嘆く、中山蓮羅の声を遠くに聞きながら、麻理恵は心の中で祐奈に言っていた。祐奈、祐奈、あなたの子孫に会えたよ、あなたの子孫はいじめに負けない、強い人になってるよ、と。
蓮羅と出会ってから、麻理恵は祐奈がこちらの世界に戻らなかった理由を、別の面から考えることができるようになった。そして、あの頃の祐奈の孤独の深さを思うようになった。
自分は祐奈が自殺したことを打ち明けてくれたあのとき、全く、祐奈の辛さを理解してはいなかった、と思うようになった。祐奈の心に寄り添ってなどいなかった、と。簡単に、祐奈をいじめた相手を「許せない。」と言っただけ。その言葉のむなしさが祐奈をさらに孤独にしたのではなかったか、と。
祐奈に捨てられたと思い込むことで生じた孤独感は、麻理恵に今まで感じたことのない痛みを経験させ、そこに思いをはせることができるまでに麻理恵を成長させていた。
更にこうも思った。同じではないのかと。祐奈をいじめた人間と麻理恵自身とが。自分の中にもその人たちと同じ部分があったのではないかと。
麻理恵は、自分は祐奈を自分より下に見ていなかったかと自分自身に問いかけた。祐奈が、自分より先に、鬼たちに秘密を打ち明けられるほど信頼されていることに(今考えると祐奈とレンラは恋人同士だったのだ。なんでも祐奈に一番先に相談というのは当たり前だった)、なぜ自分ではないのかと、不満と嫉妬を感じていた。自分は友達などではなかったのではないか。きっとこれをお山の大将というのだ 、と。
それなのに、祐奈は、時を超え麻理恵にメッセージを残してくれていた。祐奈は麻理恵を捨てたのではないと。祐奈は愛する人と一緒にいるためあそこに残ることを選んだのだと(麻理恵はあの時、小屋のUFOの中で、祐奈が扉を見つめていたのは、あの扉から出ていったレンラのことを思っていたからなのだと今では確信していた)。祐奈はこっちで居場所を見つけた、幸せな一生をおくったと。そう、麻理恵に伝えるために、様々な仕掛けをのこしてくれた。
・・・・友達と思ってくれていたの?こんなあたしなのに?と麻理恵は思った。
マリちゃん、と祐奈が麻理恵を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
三月に入り、少しずつ冬の寒さが温ぬるみ始めたころ、司が麻理恵に次の日曜日、あいてないか、ときいてきた。
「おデートのお誘い?」麻理恵は、蓮羅と出会ってから元のように軽口を叩けるようになっていた。
「違うよ。・・・それでもいいけど。」
司は半分本気だが、麻理恵は気づかない。司は続けた。
「コンクールに出るんだ。M社主催の。」
「えっ!本当?」 M社主催のMコンクールは、この地域では一番権威のある音楽コンクールで、そのことは麻理恵も知っていた。
司は頷いて、
「親が参加を許してくれたんだ。実は、一年以上前から今回の開催に参加するとこを目指して、ピアノの先生に頼み込んで練習してた。両親にそのことを話して、俺のピアノを聴いてもらった。それで、どうしても夢が捨てきれないなら一度挑戦してみろって。」
「よかったねえ、おめでとう!」
「・・・まだ、何か賞とったんじゃなくて・・・コンクールに参加するだけなんだけど。」司は困ったようだった。でも麻理恵は
「挑戦できるんだよ!前に進んだじゃん!」と手放しに喜んだ。司はその麻理恵の様子を照れくさそうに見ていた。拓斗と一緒に行くよ、と言う麻理恵に司は、コンクールの日、拓斗は来られない、と言う。なんで?と問う麻理恵に司は、拓斗は勉強中だと言った。
「勉強中って?」
拓斗は将来、どうしても子供に触れあう仕事がしたい、教師になりたいと、思うようになり、そのためには、苦手な英語を何とかしなくてはと、英語教師の竹本先生たけもっちに頼み込み、毎週日曜、特訓を受けているという。
「へえ、拓斗が。」麻理恵は向こうの村で子供にリフティングを見せていた拓斗を思い出した。司も、
「あいつが死んだのは、川で子どもを助けたせいだったし・・・、本当に子どもが好きなんだと思う。」と言った。
「毎週日曜日って、大変じゃん。たけもっち、よく付き合ってくれるね。」
「拓斗の担任だからもあるだろうけど・・・。やっぱ、拓斗の真剣さに打たれたんじゃない?」司が答えた。そして、「でも、もっと大変な事がある。拓斗の英語の力、中一の初級レベルもあやしいんだよ。」と続けた。
「えっ!うそっ!」麻理恵はつい大きな声を出してしまった。麻理恵たちは、中学2年生だが、この理文館は中高一貫校ならではの先取教育で、英語はすでに中三レベルを終了している。
「拓斗・・・。いくら英語が嫌いだからって、そこまでほっとくなんて・・・。」麻理恵はいつも楽観的な拓斗の顔を思い浮かべ、ため息をついた。
司のコンクールの日、麻理恵が客席で司の出番を待っていると、「よっ!」と言って拓斗が隣に座った。
「あれ?勉強は?」と麻理恵が尋ねると、
「今日はなんだか、そわそわしてるな、って、たけもっちにいわれて・・・。」司が今日のコンクールに出ることを話すと「友達の応援ならいってこい!」と送り出されたという。
「いかがっすかあ?英語のほうは?」麻理恵がからかい気味に訊いた。
「ばっちりよ。俺って短期集中型かも。」と言い、今、ほとんど、みんなに追いつくところまで進んだという。
「すごいじゃん!」麻理恵は心からそう思った。
「何よりかにより、たけもっち様様…。俺、中1の時からたけもっちの生徒だったら、こんなに落ちこぼれなかったかも…。お、次だ。」
司の演奏がはじまった。美しい調べ。ながれるような旋律。司の指が鍵盤の上をはねる。司の大好きなショパンだった。
コンクールが終わった。会場の外で待っていた麻理恵と拓斗に司が合流した。
「ありがとう来てくれて。」司が言った。「そして、ごめん。」
「なんで謝るの?!予選通過しての、今日が本選だったんだね!今日に残っただけでもすごいんじゃないの?そのうえ賞もとれたし。何と言ってもMコンクールは全国区レベルのコンクールだし。」
司は優秀賞だった。最優秀賞、金賞、銀賞、銅賞・・・、と続いて優秀賞は7名ほども選ばれていた。
「コンクール初参加にしてはいい結果だと思うよ。」拓斗も行った。「俺、姉貴、音大だから、わかる。」拓斗にお姉さんがいたとは、初耳だった。
司は首を振った。「違うよ、全然違う。」下を向き、手を握りしめていた。
「違うんだよ・・・。上位に入ったやつの演奏は・・。なんかこう憑りつかれてるっていうか、・・・乗り移られてるっていうか・・・。」
司が顔をあげた。司の目は、麻理恵や拓斗を見ていなかった。
「俺にはあれはできない。俺にはあれは来ないんだ。間違いないよ、以前から何か足りないものがあるとは思っていたけど、・・・今日、わかったんだ。」
麻理恵と拓斗も黙り込んだ。司の言っていることはわかるような気がした、なんとなくだが。すべての出場者の演奏を聴いた麻理恵にも、音大に在籍する姉を持つ拓斗にも、コンクールの上位入賞者と、司を含めてその他の出場者の違いは感じ取れていたから。
コンクールの翌週の日曜日、竹本先生の都合(友人の結婚式とのこと、竹本先生本人は独身で34歳)で拓斗の英語の特訓が無かったので、三人は朝から自転車に乗って、かつてここから鬼ヶ島が見えていたはずの海岸へ行った。
空は青く晴れわたり、波は穏おだやかだった。海は、ゆったりと、だが、力強い規則性をもって、その大きな生命のはぐくみを繰り返していた。
もう季節は冬から春に変わろうとしている。海風の優しさや、日差しの暖かさがそれを物語っていた。
海面に反射する朝の日差しのきらめきは、何か、未来への希望を予感させてくれるようにも思えた。
麻理恵と拓斗は自転車を砂浜に放りだし、横倒しにしてとめた。そしていつもだったらそんなことはしない司も同じことをした。
麻理恵は先日のコンクールの数日後、学校で二人に、向こうの世界から持ってきてしまった、鬼に借りていた鬼の子供時代の着物のことを、相談していた。二人は、わあ、懐かしいねえ、と言い、拓斗が、「もう、何年も前のような気がする。」といった。司は、「実際、何百年か前だろうしね。」と言い、三人で少し笑った。
正確には、どのくらい前なの時代なのか判らなかった。向こうにいる時、レンラに、年号を聞いてみたが、そのことはレンラにも不明だったから。
今日は、その着物を、麻理恵は持って来ていた。司の意見で、万が一にも、いつか人に見られ、年代測定でもされないとも限らないし、もう、彼らに返すこともできないのだから、燃やしてしまうのがいいのではないか、ということになった。
誰かに見られないように、間違っても、火が燃え広がることのないようにと、三人で、着物を細かく刻み、砂浜に打ち捨てられていたドラム缶の中で、少しづつ、火にくべた。煙は空に上って行った。
燃やし終わって、三人で波打ち際を歩いた。歩きながら、拓斗は小石を拾っては海面を滑らせるように投げ入れ、司は、それ海でもあり?とツッコミながらときどき自分もやった。麻理恵は長い棒きれを見つけて砂浜に、歩きながら線をひいたり、絵をかいたりした。
麻理恵ははじめて中山蓮羅の存在を二人に明かした。司と拓斗は、なんで教えてくれなかったの、すぐにそいつを見に行くよ、と言った。そして、「俺らの孫みたいなもんじゃん」「ちがうって」「やしゃご?」「それもちが―う、第一俺らには他人だし」と二人で掛け合い漫才のようになっていた。
二人には悪かったが、なかなかいえなかったのは、花も恥じらう乙女としては、青鬼と祐奈の子孫という存在は、なんだか、妙に、気恥かしかったからだ。・・・それに、少しの間だけ、祐奈と自分だけの秘密を持ちたい気持ちもあった。
嬉しいニュースに拓斗と一緒にしばらくはしゃいだ後、司が言った。
「祐奈は、手先が器用で、蚕から糸を作り、機はたを織っていた。きっとレンラには・・・、それにガナヤとテナイにも、自分たちの母親の再来のようで安心できる存在だったんだろうね。」
麻理恵は、ああそうだ、本当にそうだ、と思った。そして、レンラだけでなくガナヤとテナイも最後に自分たちを逃がそうと闘ってくれたのだと。
どうか無事で、と祈ろうとして、麻理恵はふっと自分がおかしく、そして悲しくなった。だって、もう、祐奈も、レンラも・・・、ガナヤとテナイも、この世にいるはずもない。そのことを思うと、とても寂しく、悲しかった。そして、祐奈の寂しさがしのばれた。
麻理恵はやはり、祈らずにはいられなかった、どうか彼らが幸せでありました、ようにと。
麻理恵は、さっき着物を燃やした煙が昇って行った、空を見上げた。
「マリ。」麻理恵の様子が気になったのか、司が話しかけてきた。「どうかした?」
麻理恵はこぼれそうになった涙をこらえ笑って言った。「別に、なにも。」
そして、麻理恵は砂浜に絵をかきながら、ふと思いつき、「ねえ、お互いの悪いところ、教えあおう!」と言い出した。
「悪いところ?けんかになるじゃん!やめとこう!」拓斗が言ったが麻理恵はお構いなしに始めた。
「拓斗の悪いところは、あ、できねえ、と思ったらすぐに投げ出すところ。英語で躓たのもそのせいだ。」と麻理恵は言った。
痛いところを突かれて拓斗はぐっと詰まった。麻理恵はその様子を見ながら、
「でも、その飽きっぽさは、今、目の前の問題に集中する力に代わってきている!」と続けた。
「目の前の問題?」拓斗が訊いた。麻理恵はクスッと笑って、
「英語!」と言った。三人とも大笑いだった。
笑いながら麻理恵は砂浜に『拓斗』と棒で名前を書いた。
次は司だ。「司の悪いところはね・・・。」麻理恵が考えこむと、代わりに「俺は卑怯者だ。」と司が言った。
「えっ・・・。司は卑怯なんかじゃないよ。」麻理恵は驚いて言った。
「いや。」司は言葉を続けた。
「俺は卑怯者だよ。あの時、あの島を出る時、俺は、鬼たちのタイムマシンを自分のために使った。」
その表情は、いつもの穏やかな司とは全く違い、暗く、苦痛に耐えるようにゆがめられていた。
「あたしたちだって同罪じゃん・・・。」
麻理恵の言葉に司は首を振って、
「違う・・・、俺は助かりたかった、誰かを犠牲にしても自分が助かりたかったんだ。・・・ほかの誰も知らなくても、俺自身がそのことを知っている。」
司は麻理恵たちと目を合わせず、海を見つめた。その視線は、かつてそこにあった鬼ヶ島を探しているようにも見えた。司の目には涙は無かったが、その全身から悲壮感が漂っていた。司は、誰も入り込めない、孤独な苦悩の中にいるようだった。
しばらく沈黙が続いた。
潮騒の音だけが、三人をその場に引き留めるように鳴り響いていた。
突然、麻理恵は手に持っていた棒を投げ捨て、海に向かい、大声で言った。まるで、叫ぶように。
「つうかあさあのお、いいところわあ、」麻理恵のその行動に、司も拓斗も驚いて麻理恵を見た。
麻理恵は、振り返り、司に言った。
「いつもいつも、一生懸命なところ。冷静沈着なところ。仲間を大事にしてくれるところ。勇気のあるところ。」
「勇気?」と司は、驚きながらも、眉をひそめ、自嘲気味に笑いながら呟いた。
麻理恵は、そんな司に向き合い、言った。
「司が決めてくれたの、あのボタンを押すって。タイムマシンを動かすって。私たちには決められなかった。勇気がなかった。すごく勇気のいることだったから。救ってくれたの、あたしたちを。自分のためだけじゃない、あたしにはわかる。あたしたちにはわかる。」
麻理恵は再び海に向かって叫んだ。
「・・・ああたあしいとお、たあくうとおとお、ゆううなあにいわあ、」そこで麻理恵は拓斗のほうを見た。心がつながった。「わかる!」二人同時に叫んだ。潮騒が鳴り響いた。
麻理恵は捨てた棒を拾い上げ、『拓斗』と書いた横に『司』と書いた。
突然、司は両手で顔を覆い隠した。そして慟哭した。
こちらの時代にに戻った後、司は一時の高揚した気分が収まると、すぐに自己嫌悪に陥っていた。あの時、迷いなく、鬼たちを切り捨てた自分に。一人、四六時中、その自己嫌悪にさいなまれながら、誰にも打ち明けられず、司の心は、闇の中で救いを求めていたのだ。
司の涙が落ち着くまでしばらく待った後、拓斗が言った。
「マリのわるいところはね、・・・いつもこの指とまれ、なとこかな。」
麻理恵は怪訝な顔をした。拓斗は笑って
「なんていうのかな・・・、いつも中心?・・・いつもいいだしっぺ?」
ああ、と麻理恵は思った。ああ、そうだ、あの時も、祐奈が青鬼のレンラに、自分より先にいろんなことを伝えられていることに、嫉妬した。そんなことは自分にとって、とても不自然なことだったから。
「だから、それを10のうち、7・・・いや、8にする。毎回毎回じゃなくて10分の8にして残り2をほかの人に任せたらどうかな?」
「でも、8より減らしちゃいけないよ。そうしたら、マリのいいところが無くなっちゃうから。」と、いつもの穏やかさを取り戻した司が付け加え、拓斗も頷いた。
麻理恵は驚くと同時に嬉しかった。自分でも気づかないほど深いところの自分をちゃんと見てくれている仲間がいる、友達がいる。そしてそれを指摘されても傷つかないでいられる。心から信頼しているから。
麻理恵は思った、男か女かなんて関係ない。自分たちは本当の仲間だ。
「ありがとう、拓斗。ありがとう司。」
麻理恵は自分でも気づかないうちに涙を流していた。司や拓斗に、泣いている理由わけを尋ねられても、自分でも、はっきりとは、なぜだか分からないので答えられないまま、ひとしきり泣いた。
・・・多分、潮騒が、いろいろなことを思い出させ、そして、忘れさせようとしているからだろう。三人が、前に進んで行くために。
やがて、涙のおさまった麻理恵は、照れたように涙を拭きながら、やっぱり言わずにはいられなかった。「拓斗・・・、10分の8は通分しなきゃ。5分の4だよ。」と。
そして、麻理恵は、泣き出した時に捨てた棒を、もう一度手に取り、『拓斗』『司』と書いた砂浜に『麻理恵』と自分の名前を書き足した。
そしてその横に、丁寧に、しっかりと『祐奈』と書いた。
海が見ていた。祐奈のまなざしのように優しく。
元々の高校生版のスピンオフを『その後の鬼ヶ島』と題して投稿しています。そちらもお目通しいただければ幸いです。 村上ガラ