初恋の行方
初恋は、鷹絹さんだった。
アタシは今でも、鬼族で一番頭が良いのは鷹絹さんだと思っている。
鬼族はほとんどの人がこの東の山に住んでいたけれど、村と呼べるほどのまとまりはなかった。
そして山から下りる人も、あまりいなかった。
実際アタシも、今まで数える程しか山を下りたことはない。
鷹絹さんも、そうだったと思う。
それでも鷹絹さんは、この山にいて、世界の全てを知っていた。
鷹絹さんの家にはたくさんの本があったし、長以外誰も、いえ、長ですら、あまり興味を示さない水晶玉を、とても熱心に調べていた。
その水晶玉は、中央神殿に税を納めた証として、毎年村に一つ、配られるものだ。
この水晶玉を通して、アタシたちは中央神殿が発する様々な事柄を受け取っていた。
王の誕生、死亡。王、占者、大神官の代替わり。彼らの顔と名前。占者の予言……。
そういった世界にとって重要な報せを、この水晶玉がもたらしていた。王家が何らかの術をかけているからだろう、特別なことは何もしなくても、誰にでもこの水晶玉は扱えた。
たいていは長が保管していて、何かあれば長が発表する。そうしてアタシたちは時の王・麗宮王、その占者・煌、大神官・晾炤の、顔と名前を知っていた。
アタシが知っていたのはそれだけだ。そして大部分の人が、それだけ知っていれば十分だと考えていた。
けれど鷹絹さんは、その水晶玉からもっと多くのことを知り得ていた。
物音に回想を邪魔される。
遠慮のない足音。無意味なまでに大きな動作。
アタシはよく知っている。
不肖の弟だ。
もうかなり昔から、旅に出ると言っては山を下りるくせに、すぐに帰ってくる。そうしてしばらく家でのんびりすると、また出ていく。もうずっとその繰り返しだ。
ガサガサと大きな音を立てるしげみを睨んでいたアタシは、しかし弟の姿を認めた途端、思わず呆れた声を出してしまった。
「アンタ、どうしたの、稀氷子!」
稀氷子は、アタシの弟のくせにずいぶんと体がデカい。
アタシの頭がやっと、稀氷子の胸に届くかどうかぐらい。
そのくせ、弱い。
これだけの体格差がありながら、この弟は一度もアタシに勝ったことがない。
確かに紋の数はアタシの方が一つ多いのだけれど、そのせいではないだろう。
そのせいにする、稀氷子の心が、弱いのだ。
しかし鬼の間ではどんなに弱かろうと、外で、他の種族に傷つけられることは、まずないはずだった。
この、体の丈夫さというものが、鬼族であることの特徴の一つなのだ。
これはもちろん鷹絹さんの受け売り。
けれど実際、今まで稀氷子が怪我をして帰ってきたことは一度もない。
それが今目の前にいる弟は、傍目にも明らかな程の怪我を負っていた。
おそらく、あばらを傷めている。
アタシの声に気づいた稀氷子は顔を上げてこちらを見ると、その場に座りこんだ。
しかしアタシがそんな弟に駆け寄るなんてことはなく、お気に入りのその場所から立つこともせずに、広場に座りこんでいる弟を眺めた。
まったく。
鷹絹さんとは比べようもない程に、バカな弟だ。
アタシもたいがい頭は悪いけれど。
当時鷹絹さんは、鬼族の全年頃の女性の憧れと言っても決して過言ではない程にモテる人だった。
けれど鷹絹さん本人が、そういうことに対する興味がなかったせいか、老若男女平等に優しい鷹絹さんの態度は、逆に女性たちを尻込みさせていた。かくいうアタシもそうだ。
玉砕するとわかっていて直接告白する勇気なんて、誰にもない。できることといったら搦め手からのじっくりアピールか、もしくは鷹絹さんがものすごく可愛がっていると噂の弟から攻めるか。
アタシはその弟さんに会ったことはない。めったに家にいたことがないのだと言う。といって稀氷子のようにフラフラと旅に出ているわけではなく、ふもとの人間族の村に入りびたりなんだと鷹絹さんは笑っていた。
アタシは頭が悪かった。
搦め手なんて思いつきもしないし、その場にいもしない、ましてや本人でもない鷹絹さんの弟に、何をすればいいのかもわからなかった。
アタシは、鷹絹さんと友だちになればいいと思ったのだ。
友だちになれば仲良くなれると思っていた。
仲良くなればいいのだと思っていた。
アタシは頭が悪かった。
そうして仲良くなればなる程、アタシの恋心は、うちあけられなくなっていったのに。
弟の視線を感じる。おそらく睨んでいるのだろう。
そろそろ頃合いか。アタシはため息をつく。
身内である以上、どんなに面倒であろうとも放ったらかしにはできない。
アタシは弟に視線を向けた。
「誰にやられたの」
「――っ!」
思いきり気マズそうな顔。コイツ外で何をやっているんだ。
黙って眺めていると、嫌々そうに稀氷子は口を開いた。
「……知らない、見たことのない種族だった。妙な……“力”の持ち主で、強化した拳を叩きこまれた……」
「負けたの、他種族に」
どこの種族だろう。鬼と張る丈夫さといえば人狼だけれど、さすがにいくらバカでも人狼なら見てわかるだろう。それに人狼族は、そんな変な“力”は使わない。
これも全て鷹絹さんの受け売り。けれど鷹絹さんではないアタシには、それ以上は何も思いつかない。
「始めは、鬼とやりあってたんだ。オレがぶちのめしてた。そこへそいつの仲間……が、割り込んできたんだよ」
どうにも言い訳がましい。視線が泳いでいるし、言葉も上の空だ。
アタシはため息をついて立ち上がる。
この程度、放っておいても治るが、あばらはいろいろと面倒だ。
アタシは稀氷子を見下ろすと、何も言わずに腹に一撃叩きこんだ。
「――――!!」
稀氷子は声も出せずに悶絶する。
手ごたえとしては――粉砕だろう。それでも内臓は傷つけないように手加減している。
「アンタ痛みに弱すぎるのよ」
一応そんなことを言ってみたりして。アタシは立ち上がり顔をめぐらした。
医者はふもとの村だ。
そこは人間族の村だが、魔法使いの村でもある。
アタシは広場に置いてある竹筒を取ると、村の方へ向けてしゃべった。
「あーあー、稀炎女です。弟があばらを折りました。安芸がいたらお願い」
仕組みは知らない。これは魔法だ。村に向かって竹筒で話すと、安芸の耳には届くらしい。
けげんげな顔をしている弟を見やると、アタシは竹筒を元に戻して言った。
「医者を呼んであげたのよ」
そういえば、アタシは鷹絹さんの弟の名前を知らない。
聞いたことがなかっただろうか。いや、そんなはずはない。聞いたけれどアタシが忘れているのだ。
何故なら、鷹絹さんは弟さんのことを本当に可愛がっていた。見たことはなくても、口調からわかる。
そんなことを思ったのは、その弟さんが入りびたっていたという村が、安芸の村だからだ。
さすがにその当時すでに安芸が今と同じ姿だったとは思わないが、得体の知れない女であることは間違いない。
少なくともここ何年か、何十年か、特に姿が変わった様子はなく、他の人間族に比べると年の取り方が遅いような気がするのだ。
安芸の魔法力がずばぬけて高いことは確かだ。
それが年を取らないことと何か関係があるのかはわからないけれど、だからこそ、あの村において安芸は長であり、医者であり、学者であるのだ。
あれは、何年前のことになるのだろう。
アタシたちは年を数えない。面倒だからだ。
しかし人間族は年を数える。寿命が短いからだ。
安芸に聞けば、鷹絹さんが死んでから何年が経ったのか、わかるだろうか。
たとえわかったとしても、それを知ってどうなるというのだろう。
時間なんて関係ない。鷹絹さんはもういない。それが事実だ。
だからアタシは年を数えない。
そうだ、鷹絹さんは、弟さんが山にいないことを喜んでいた。
近いうちに鬼族は大変なことに巻きこまれる。山にいるよりは、外に出ていた方がむしろ安全かもしれない。そう言っていた。
アタシは何も知らなかった。
長も、誰も知らなかった事を、鷹絹さんだけが知っていた。
王によって化猫族が全滅したこと。
――鬼族にも、同じ危険が迫っていたこと。
「ごきげんよう、稀炎女。久しぶりじゃな」
いつもと比べるとずいぶんと遅い。
何かあったのだろうかと振り向くと、安芸は男を一人、連れていた。
「アタシの助手。和泉じゃ」
紹介された男は深々と頭を下げる。
ふもとの村に住んでいる人間族は皆同じ色合いなのに、その男は妙に白かった。
しかしそんなこともあるのだろう。アタシたち鬼族は、瞳の色こそ皆同じ赤だけれど、髪と肌の色は様々だ。
アタシは赤い肌に黒い髪だし、鷹絹さんは黄色の肌に黄褐色の髪だった。
「助手? アンタ忙しいの? だったら弟の治療なんかいくらでも後回しにしてくれてよかったのに」
すると安芸は奇妙な笑い方をした。
「知っている。あばら骨折じゃろう? 鬼ならしばらく放っておいても大事あるまいし、おぬしの口調からして内臓を傷つけたのでもなかろう?」
アタシはうなずく。
「だからじゃ。急ぐ必要を感じなんだで、助手を連れてきた。いつもより遅くなったのは山を歩いて登ってきたからじゃ」
それは普通だと思うのだが……、まさかこの女、今までは歩かずに登ってきていたのだろうか?
……どうやって?
「弟御は?」
問われて稀氷子の寝転がっている辺りを顎で指す。
安芸はそちらに歩いていき、和泉という名の男が安芸の荷物を持って後に続く。
アタシはどうしようか。
二人を見送ってのんびり考えていると――。
「――――ッ!?」
和泉の肩が大きく震え、彼は荷物をとり落とした。
安芸は背後に気を払うこともせず、弟の横にひざまずいた。
和泉は、ここからでもわかる程はっきりと、顔面蒼白になっている。
体調でも崩したのだろうか。一歩踏み出すと弟の顔が見えた。
稀氷子は――、痛みだけではない、奇妙な感じに顔を歪めて、和泉を、見上げていた。
「知り合い?」
近づいて声をかける。
和泉は完全に硬直していた。白い肌はいまや真っ青で、ブラウンの瞳は稀氷子の上から動かない。
稀氷子は苦い顔で目をそらす。
「知らね――」
「和泉は最近村に来た若者での。おぬしも存在だけは知っておろう、村におった鬼」
否定しようとした稀氷子の言葉を遮り、掌で稀氷子の腹を探りながら安芸が口をはさむ。
「ああ、鷹絹さんの弟……」
アタシは呆然と立ったまま、安芸に答える。
「そう。大分前に村を出たきりじゃったが、先日この和泉を連れ帰っての。本人の希望もあって、村に迎え入れることになった。魔法はまだ使えぬのでアタシの助手をやってもらっている」
一通り稀氷子の腹をなでて具合を確かめると、安芸は立ち上がる。
「その時にいきさつも聞いた。和泉の出身は西じゃが、一人でふらふらしているところをそこな稀氷子に捕まり、以来イヌとして連れ回されておったらしいわ」
「ハァ!?」
あまりのことにアタシは大声で訊き返す。しかし安芸は呪文の詠唱に入ってしまった。
しばらく呆然と突っ立っていたアタシは、それでもなんとか必死で頭を働かせる。
イヌ? イヌって何だ?
ええと、動物。ペット。
ペット?
人間族の男を?
アタシは和泉を見やる。
そんなに悪い見てくれではないが……、ペットとして連れ歩きたいような可愛げも見当たらない。
いやいやちょっと待て。人間をペット?
「あの、和泉……?」
声をかけると、こちらがびっくりする程の勢いで肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ええと……」
「すみません!」
何から訊こうか、何を訊けば良いのか、迷いつつも声を発した途端、いきなり目の前の男が土下座した。
「えっ! 何!?」
度肝を抜かれる、とはこういうことだろうか。もう何が何だかわからない。
ぎぎぎ、とこわばった頭を上げて、安芸の背中に視線を送るが、頼みの綱は堂々とこちらを無視して治療を続けている。
「えーと……」
困り果てて、目の前で土下座している男を見やる。なんというかこの男、条件反射の勢いで地に頭をつけたので、そのあまりにもスムーズな動き、自然な動作に、なんというか、やめろと言うこともできず、仕方なくアタシの方がしゃがみこんだ。
「和泉? どうしたの?」
「すみません! 稀氷子様の治療だとは知らなかったのです! あなたが稀氷子様のお姉様だとも存じませんで、まことに失礼しました!」
「……」
稀氷子……様?
アタシは顔を上げて弟に目をやる。稀氷子は顔をそむけていたが、苦虫をかみつぶしたような表情が見てとれる。
安芸が声を上げた。
「和泉、布と水」
安芸に呼ばれてはっと和泉は体を起こし、やっと現状を理解した様子でアタシの顔を見て慌てふためき、落とした荷物を拾って中身を漁っていたが、目的の物を取り出したところでぴたりと動作が止まった。
今度はアタシにもわかる。稀氷子の側に行くのが嫌なのだ。
アタシが代わりに行こうと手を伸ばすよりも先に、安芸がこちらにやって来た。
「二人とも座り込んで何をしておる。見合いか?」
途端に和泉は顔を真っ赤にして飛び上がった。
「アンタねえ……」
アタシは安芸を睨みながらゆっくりと立ち上がる。
事情を知っているくせにこの言い草。しかし事情を知っているのは確かだ。
「ペットの割に酷いおびえようじゃないの。可哀そうに。なんで連れてきたのよ」
「イヌというのは愛玩動物のことではないぞ? 奴隷じゃ」
「はあっ!?」
飄々とした態度で和泉から布を受け取ると、それに水をかけてしぼる。
「あの子何したの!」
思わず出た大声に、和泉がおびえ、またしても条件反射的に身を伏せようとしたところを、安芸が腕を取って止める。
「和泉の怯えようで想像はつくであろうに、大声を出すでない。見よ、この見事なまでの条件反射的土下座。おぬしの弟御が仕込んだ芸ぞ」
さすがに和泉の目が、何か言いたげに安芸を振り仰ぐ。しかし自覚があるのか、何も言わずに姿勢を正した。
「すみません……」
「そしてこれが口癖じゃ」
容赦のない安芸に、和泉は目を伏せる。
「ええと、稀氷子はつまり、鷹絹さんの弟に……」
「宮麗じゃ。旅の途中で偶然に出会い、和泉の処遇に腹を立てた宮麗が弟御に喧嘩を売って、宮麗の方は魔法治療にかかれず全治数ヶ月だったそうじゃ」
濡らした布で稀氷子の腹でもふくのかと思っていたら、安芸はその場で、その布で、自分の手をふいた。
「さて帰るか。報酬じゃが……」
アタシは手を上げて安芸の言葉を遮ると、ずんずんと稀氷子に向かって進む。
「アンタ、旅に出るたんびにそういうことやっているの」
「いや……」
「ああでもここに、その『イヌ』とやらを連れてきたことはないわねえ。飽きて捨てたの? それとも逃げられた?」
「ちが…」
「そんでもってとうとう今回、天罰が下ったワケね?」
稀氷子は半身を起こし、体に痛みがないことを確認すると、すばやく立ち上がろうとした。
しかしそんなことを、このアタシが許すはずもない。
一気に間合いを詰め、稀氷子の腕を取って地面に叩きつける。
「よりにもよって、鷹絹さんの弟に! まさしく天罰よね!」
そのまま馬乗りになれば、稀氷子はもう動けない。
力ではかなわないと身をもって知っているくせに、こちらを振り切ろうとして妙な力が入っている。
そう、こいつは力の使い方からしてなっていないのだ。アタシは稀氷子よりもはるかに力を抜いた状態で、こいつを押さえつけている。
それでも稀氷子は声を張り上げた。
「違う! 確かに鬼とはやり合ったが、オレのあばらを折ったのは……!」
そこで急に口を閉ざして目をそらすと、また声を上げた。
「第一人間みたいな何の役にも立たねえヤツら、オレがどう扱おうと勝手だろうが!!」
――――!!
アタシは怒りのあまり、目の前が真っ暗になった。本気でめまいを覚えた。
次の行動は完全に無意識だった。
「――――ッ!!」
稀氷子は声も出せぬまま気絶した。砕いた骨の感触に、アタシは自分が渾身の力で、押さえつけた相手の腹を殴ったのだと気づいた。
「人がせっかく治してやったに。あれでは内臓も破裂したやものう」
やけにのんきな安芸の声が、やけに遠くの方からぼんやりと聞こえた。
アタシは稀氷子を殴った姿勢のまま、放心していた。
誰かがアタシの腕を取り、立ち上がらせた。
アタシはまだ、ぼうっとしていた。
「――ぶっ!」
いきなり顔面に冷たい布を押し当てられ、そのままゴシゴシと顔をこすられる。
「わっ……! 大丈夫! ゴメン! 大丈夫だか……っ、わっ!」
口の中に布をつっこまれた。
アタシは自分でそれを取り出すと、恨みがましげに犯人――もちろん安芸しかいない、を見上げる。
「せっかく治してやったあばらを、治したそばから壊しよって」
しかし言葉の割には口調は明るい。この女、絶対腹の中では清々したとか思っているに決まっている。
手にしていた布を取られたのでそちらを振り向くと、いまだ蒼白な顔の和泉だった。
「ごめんなさい!」
アタシは勢いよく頭を下げる。
「ウチの愚弟が……、あのバカが、本当にごめんなさい」
恥ずかしくて顔も上げられない。あの……、バカが!!
和泉からは何の声もない。当たり前だ。怒るとか、恨むとか、そんな簡単なものではないだろう。
「和泉」
その声は安芸だった。アタシは顔を上げる。
和泉は安芸に腕を取られた格好で、目をまんまるにして、こちらを見ていた。
安芸の腕の取り方からして、和泉がまたもや土下座の動作に入ろうとしたのを止めたのだろうとわかった。
条件反射で土下座。
鬼のアタシが、頭を下げたから?
アタシは悲しくなった。
一体どれだけのことをすれば、人はここまで卑屈になるのだろう。
鷹絹さんは、王宮軍がこの山に攻めこんできた時も、一人で堂々と渡り合った。
そしてみんなの代わりに、ご両親と三人だけで捕まった。
その後鷹絹さんは、酷い拷問の末に死んだのだと聞かされた。
鷹絹さんの弟は、山に戻ってはこなかった。
この山を連れていかれてから鷹絹さんがどんな目に遭ったのか、アタシは知らない。
それでも、何があったとしても、鷹絹さんの心を折ることは、何人にもできなかったに違いない。
だからこそ思うのだ。
一体何をすれば、人の心は折れるのだろうかと。
「オレは大丈夫」
目を閉じて、鷹絹さんの言葉を思い出す。
「オレには信念がある。それは何があっても曲げられない。だからオレは大丈夫なんだ」
そして悲しげに微笑んだのだ。
両親を巻きこんでしまったことについては申し訳なく思うけれど、弟だけでも巻きこまずに済んで良かった、と。
その弟さんが山に戻ってこないのは、当然だと思う。
弟さんから見れば、アタシたちは鷹絹さんを王に差し出し、その犠牲のおかげで助かったようなものだ。
けれど今、その弟さんの消息を、まったく意外ななりゆきで知らされた。
弟さんは生きている。
しかも稀氷子と闘り合える程に、強くなって。
とても強くて優しかった、鷹絹さん。
和泉を助けるために稀氷子と戦ったその鬼は、まぎれもなく鷹絹さんの弟だった。
アタシは和泉を見上げる。
和泉の瞳はまだ揺れていたけれど、そこにはもうおびえの色はなかった。
アタシはそのことに安心した。
「和泉……、アンタには、信念がある?」
和泉は目を伏せたが、逃げはしなかった。
「そこまで強い想いは、ボクにはないかもしれないけれど……」
そして初めてピタリと、アタシと瞳を合わせた。
「宮麗さんのようになりたい」
自然とアタシの顔はほころんだ。
なんだか無性にうれしかった。
「さてと。それはそれとして、一回分の治療費はもらうぞ」
「当たり前よ。むしろお詫びも含めていつもより多めに払うわよ」
「そんな…」
「アレはどうする」
「アレは自業自得っていうのよ。もう治す必要なんてないわ」
和泉を無視して、アタシと安芸の間で報酬についての話し合いが行われる。
安芸が望むものは、たいていこの山の獣だ。魔法で捕らえるよりも素手で倒した方が、食べるにしても薬にするにしても良いのだそうだ。
「それにしても、アタシよりも世間を知っているハズなのに、どうしてアタシよりもバカかしらね、あのバカ」
報酬については簡単に話がつき、アタシはいまだ気絶している弟を見やってため息をついた。
「広い世界を知れば、それだけ様々な知識も得る。良いものも悪いものも分け隔てなく吸収する。それを選別するだけの頭がなければ、知識に意味はない。弟御の場合は、世間に毒されたというものであろう」
「そんな可愛げのあるものじゃないわよ。アイツもともと傲慢なところあるし」
「だからじゃ。むしろ弟御は外に出ずに、おぬしにプライドを潰され続けておった方が本人のためであったやもしれぬのう」
どうにも小難しい言い回しだが、容赦なく馬鹿にされているらしいことはわかった。
「それにしてもアンタ、最初から全部知っていたのなら稀氷子の怪我なんて治す必要なかったんじゃないの? 報酬ぐらいいくらでも払うけれど、手間じゃない」
頬をふくらませると、安芸はふふ、と愉悦的な笑みを浮かべた。
「力のない人間族を侮って負った傷を、人間族の力で癒される。こんなに愉快なことはそうそうなかろう」
この女……。
考えてみれば稀氷子の態度もおかしい。いくらバカだとはいっても、安芸の話を聞いてアタシが怒らないとでも思っていたのだろうか。治療がすんだ時点ですぐにその場を離れていれば……。
………………。
稀氷子の動きがやけに鈍かったのはまさか……。
ゲンナリとはしたが、不思議と悪い気分はしなかった。
「ではそろそろ帰るか」
「あの、安芸……」
和泉を振り返った安芸を、アタシはとっさに呼び止めていた。
「鷹絹さんの弟は……」
「宮麗じゃ」
「宮麗クンは……、もう、山には帰ってこないのかな」
安芸がアタシを見る。なんとなく、アタシは目をそらした。
「おぬしは宮麗に会いたいのか?」
問われてアタシは考える。
「よく……、わからないの。面識もないし、彼……、宮麗クンにしてみれば、アタシたちは仇も同然だろうし……」
「宮麗はこの山には帰らぬであろう」
「そうよね……」
「だがそれは、この山には宮麗の家族がおらぬからじゃ」
アタシは顔を上げる。
「宮麗はそんなに利口ではない。ここにはの、宮麗の心を縛るものは何もない。おぬしたちのことなぞ、何とも思ってはおらぬ」
淡々と、安芸は続ける。
「だがふもとの村には帰ってくる。あそこは人間族の村じゃが、宮麗の還る場所じゃ。だからもし、いつかまた宮麗が村にやって来たら、それをおぬしに伝えることはできる」
「会って……、くれるかな」
「おぬしが望むなら」
アタシ……。アタシはよく、わからない。
ふと、安芸が笑った。めずらしく、とても素直に。
「あやつがいつ来るかなどはわからぬが、来たら連絡は寄こそう。その時におぬしがしたいようにすればよい」
「うん」
アタシは素直にうなずいた。不思議と心は軽くなっていた。
「だがあまり期待はせぬ方がよい。あの鷹絹の弟とは思えぬ程に、馬鹿じゃからのう」
だからおぬしとは意気投合すると思うぞ。そう言って笑うから、どういう意味よとアタシも笑った。
それにしても。
「結局アイツのあばらを折ったのは誰なの?」
山の下り口まで二人を見送りがてら、アタシは気になっていたことを訊いてみた。
稀氷子は、宮麗クンには勝っていたのだと言い張っていた。
引き分けにしておくのも嫌そうな口ぶりだったけれど、少なくとも腹に一撃食らわせてくれたのは別人なのだろう。
「修師じゃ」
こともなげに、安芸は答えた。
修師っていうと……。
「予言の?」
「そうじゃ」
「……それはまた、とんでもない相手に喧嘩を売ったものね、あのバカ。バカじゃないのアイツ。ホントにバカじゃないの」
「大分昔に滅んだ種族のようじゃし、弟御もまさか“修師”に殴られたとは、思ってもおらぬであろ」
「ふーん」
気のない返事をしたアタシに、安芸は意地の悪い笑みを見せた。
「弟御の所業にはさすがにあの修師も腹に据えかねたのじゃろうな。いくら宮麗には連れがあり、良き医者にかかれたとはいえ、数ヶ月で治して村まで帰ってきたというに、弟御の方は未だ完治しておらなんだとは。何か妙な“力”でも加えたのかの」
「自業自得、自業自得」
アタシは手を振る。
「だが弟御は宮麗にやられたとは言わない以上に、修師のことは話すまいぞ」
「なんでよ。王を倒すような相手になら、負けても仕方ないじゃない」
「そうではない。女にやられたなど、弟御は死んでも口にすまい?」
「……ハアッ!?」
アタシの理解が一歩遅れた間に、安芸は背を向けて山を下りていった。
和泉はこちらを向いて微妙な顔でうなずくと、慌てて安芸を追っていく。
あの麗宮王を倒したのが、女だったとはね。
稀氷子が女にやられたことについては、何とも思わない。
どうせ油断していたのだろうし、絶対に口は割らないだろう。
でもそんなことはどうでもよかった。
鷹絹さんを直接に殺したのは王宮軍なのだろうけれど、仇は誰かと問われれば、それは間違いなく麗宮王だ。
アタシは何もできなかった。
でもその麗宮王を倒したのは、女だったのだという。
どんな想いがあれば、王に立ち向かえるというのだろう。
鷹絹さんを殺されても、アタシには悲しみしかなかった。
確かに、鷹絹さんからは何もするなと言われた。
自分が何とかするから、みんなは王に逆らうような素振りは少しも見せるなと。
鷹絹さんはみんなから好かれていた。
だからこそみんな、鷹絹さんの言う通りにしたのだし、鷹絹さんの死を悼み、心から悲しんだけれど、恨みや憎しみのような、王に対する反発心はほとんど生まれなかったのだと思う。
だからこそ、鬼族は滅びなかった。
鷹絹さんは、正しく鬼族を守ったのだ。
けれどアタシは悲しかった。
修師が麗宮王を倒したと聞いた時も、激しい感情は何もなかった。
うれしいとも、思わなかった。
アタシの初恋は、鷹絹さんだったのに。
今でも、アタシの心を占める男性なのに。
宮麗クンに会いたいと思った。
会って鷹絹さんの話をしたかった。
そして――。
修師に、会いたかった。
会って話を――。
聞きたいと、思った。
―end―